「安保反対」
今のご時世なら安倍政権が推進する安全保障政策に対する反対ということになろうが、その安倍総理の祖父岸信介の時代ならば日米安保改正に対する反対である。
雰囲気は似ているが規模や熱気は比すべくもない感じがするのは私一人ではあるまい。
つまり、六十年安保改正反対は熱く国会議事堂突入にまで至る大規模な反対運動だったが、現在の安保法制反対は如何にも白けた抵抗に終始している。やってる人間は声高に叫んでいるが、街中の様子は昨日とあまり変わらない。
さて、そんなことより、この種の反対活動は一つの明瞭な共通点がある。それは法案の内容に関する議論の中身があって反対しているわけではなく、先に反対ありきのイメージ運動に過ぎない。
安保改正反対の時は改正案を読んだこともなければ、そもそも日米安保条約すら読んだことのない人達が血相を変えて反対を叫んでいた。たぶん、叫んでいた人達は安保条約そのものに反対してたのかその改正に反対してたのか自分でも定かではなかったはずだ。
そんな状態であれだけの暴力的な行動が取れたというのは、一体何なんだろう?彼らは反対の言葉を叫び文字にして賛同を募った。その中身は全くの空洞だったわけである。
現在安倍政権が推進する安保法制に反対している人達もほとんど安保法制の中身は読んではいないだろう。それは彼らが発する言葉や文字にそっくり現れている。「徴兵制の時代が来る」とか「子供たちを戦場に送るな」とか、つまり、ただのイメージ作りに勤しんでいるに過ぎない。
何故そんなことになるのか?
今も昔も答えは、要するに政治的な意図あるがゆえだ。
政治家は自由な言論を通して国益を守るべき存在であるが、中には勝手な言論で国益を害する輩がいる。
よくよく見分ける目を養いたいものである。