言葉や文字
いつ頃からか人類はこの世に生きながら言葉や文字の世界にも生きることになった。
犬や猫や鳥などのペットと身近に生活しても、奴らは言葉や文字などという面倒な荷物は背負ってない。
どっちが幸せなんだろうなんて言葉や文字を背負う人間の一人として考えてしまう。
人間は表情や雰囲気でも付き合いをする生き物だが、やはり言葉を発してなおかつ文字を通してお互いを知ろうとするややこしい生き物である。
言葉や文字が人類の進歩を可能にしたのは間違いないが、同時に他の動物にはない悩みや不幸をもたらしたとも言える。
今こうして何の役に立つわけでもない文章を書いているのも、言葉や文字の世界を通してでないと気持ちの新陳代謝が巧く運ばないという事情ゆえである。
人間として生きていくのは言葉や文字が生み出す誠に面倒な意識を伴う。であれば、物静かに微笑んで暮らせばいいようなものだが、社会の中で生きる以上言葉足らずは損や誤解の元になる。
どうすりゃいいんだ、お母さ~ん、って呟きたくなるが、母は昨年の建国記念日に死んだ。
その母が生前何度か自分に言った言葉が思い出される。
「あんたはすぐ人の言うこと信用する」
言われてみればその通りで、人の言葉を不用心に信用すると痛い目に会う。つまり、
言葉は人を災難に導く道具にもなる。
従って、言葉は正確にその意味を知る知性が要るのと同じくらい言葉の裏にある意図を想像できる勘も必要な次第である。
言葉や文字に生きざるを得ない人間は言葉や文字を操るリスクを背負うことになる。信じ合える言葉や文字もあれば騙し裏切る言葉や文字もある。
そんな言葉や文字が氾濫する社会で生きながら死んで行くのが人生らしい。