葛藤の渦
夏の午後、太陽は高く昇り、俺を見下すように照り付ける。憎らしいことに、あれだけ空にある流れる雲は全て太陽を素通りしている。少しは太陽を掠めてほしいものだ。
俺は今夕ご飯の買い出しのため外をうろついているわけだが……倒れそうなくらい暑い……
星美は両親が出張から帰宅したから家に戻った。陽子先輩も、月乃がそんな状態で一緒にいるわけにはいかないと言いだし、家に戻った。よって、家は元の三人に戻っていた。
でも、家にいれば黎や千春さんに送別会の夜のことをしつこく聞かれ、買い出しという名目で逃走した俺は、地獄の業火に焼かれるかのような炎天下をひたすらに歩き続けている。
あれから月乃は涙を止めた。そして、少し気まずい雰囲気になり、月乃を家まで送って帰った。家に入るときに月乃が言った言葉が、頭の中に響き続けている。
“ありがとう。もう大丈夫だから”
……そうじゃない。それが言いたかったわけじゃない。
俺が本当に言いたかったことは、結局月乃に言えなかった。月乃はずいぶん気持ちが楽になったようだった。でも、俺がしたかったことは、言いたかったことは、悩む月乃を勇気づけることなんかじゃない。違うんだ。
(……俺って、ヘタレだな)
ホント、つくづくそう思う。
月乃は明日旅立つらしい。こうしている間も、刻一刻とその時間が迫っていた。呑気に買い物なんてしてる場合じゃない気がする。
でも、月乃を止めるなんて俺には出来ない。月乃が大好きな詩乃さんと一緒に過ごすことを止めさせることなんて出来ない。
……俺の頭は、相変わらず葛藤の渦の中にあった。
俺は、それから一向に抜け出せず、もがいていた。
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「ただいまー」
家に帰った俺は、買ってきた食材を赤いエプロンを着た黎に渡す。今日は黎が食事担当の日だ。
「ありがと。冷たいお茶でも飲むか?」
「飲む飲む。干からびそう……」
黎が差し出した麦茶を一気に飲み干す。そして意味もなく、お茶がなくなったグラスを覗いていた。グラスの中では氷がカランと音を立てた。
「晴司」
「ん?」
後ろから黎に呼びかけられた。振り返ると、黎はせっせと調理をしていた。そして、背中を向けたまま黎は言いだした。
「……晩御飯、作るの手伝え」
「ええええ……何でだよ。今日はお前が担当の日だろ?」
「いいから手伝え」
「だから………」
その時、俺は気付いた。黎は、食材を切っていた。
……包丁片手に……
(………まさか、な)
そう思いつつ、俺は少しでも危険因子を解消するため、キッチンに立った。
「悪いな晴司。今日はちょっと一人では大変だから……」
「お前一人で大変な料理って……いったい何作るつもりだよ」
「べ、別に何でもいいだろ!!」
「へいへい」
「あ、それ切ってくれよ。切り方は……」
「輪切りでいいんだろ? 俺だっていつも作ってるし、何となくわかってるよ」
俺たちは順調に料理を作っていった。千春さんは今日は残業になるらしいからご飯は二人分だけ。出来上がる料理を見る限り、黎一人で十分すぎるくらいだった。
(何で俺まで調理してんだよ……いらねえじゃねえか……)
調理中、黎は頻りに俺の方を見ていた。視線に気付いた俺が黎を見ると、慌てて視線を手元に戻すといった光景が繰り返されていた。
……もしかしたら、黎は何かを言いたかったのかもしれない。
でも、結局それからご飯を食べ終わるまで、黎の口から特別な言葉が出ることはなかった。
その日の夜、俺はいつもの自分の部屋にいた。そしてベッドに寝転がり、いつもの葛藤を繰り広げていた。
行かせてあげたい、止めたい、行かせてあげたい、止めたい、行かせてあげたい、止めたい、行かせてあげたい、止めたい……
終わらない言葉の連鎖。どれだけ考えても答えなんて出ないことは分かっていた。だって、両方とも俺の本当の気持ちだから。相反する二つの想いを抱えた俺の心は、音を立てて軋み続けていた。
明日には月乃はいなくなる。遠い海を越えた地に行ってしまう。
(でも、俺には何も出来ない。出来ないんだよ……)
……その日、俺は眠れなかった。
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次の日になってしまった。今日も天気は快晴だった。
でも、俺の心は曇り続けていた。朝まで葛藤の坩堝から解放されることなく、俺は居間のテーブルに座り込んでいた。
飛行機の出発時刻は午後。飛行機の見送りは、月乃の要望でしないことになっていた。別れが辛くなるらしいから。
(あと数時間か……)
本当にこれでいいのだろうか……
本当にこのままでいいのだろうか……
本当に最後に何も言わなくていいのだろうか……
本当に月乃に会わなくていいのだろうか……
様々考えが頭を巡る。それでも俺は動けないでいた。机に伏せ、現実を見ないかのように目を閉じていた。
「……もう、いいや……」
自然と、自分に言い聞かせるように呟いていた。
「――いいわけねえだろ!!!!」
「―――!!!」
急に胸ぐらを掴まれた俺は、顔を無理矢理上げられた。
そこには、怒りの表情をする黎がいた。
「黎……」
「お前!! こんなとこで何をやってるんだよ!!」
「な、何って……」
「お前は!! 月乃に言いたいことがあるんだろ!!?? 何でそれを伝えないんだよ!!!」
「………」
「お前は、アタシの旦那だろ!!?? アタシが知ってる晴司は、こんなにウジウジなんかしていない!!!
いつだって無茶苦茶で!! 考えもなく行動して!!!
……それでも、最後は何とかしてきただろ!!??
何で何もしないんだよ!! 何で動かないんだよ!!
晴司には、まだ出来ることがあるだろ!!??」
「出来ること……」
「会うんだよ!! 月乃と!!! 会って、話すんだよ!!!
――行けよ!!! 晴司!!!!」
そう言う黎の目には、涙が浮かんでいた。
(―――)
その涙を見た俺の中で、何かが弾けた。
「――黎! 行ってくる!!」
椅子を飛ばして席を立ち、俺は玄関を飛び出した。
「しっかりやれよ!! ダーリン!!」
黎は玄関で叫ぶ。
(誰がダーリンだよ…………でも、ありがとう)
時間的にはギリギリだった。電車に駆け込み、意味もなく先頭車両に陣を構える。
(間に合えよ!! 間に合ってくれよ!!!)
俺は、心の中で祈り続けていた。
実際に会って、何をしようとは考えてない。会えばどうにかなるとは思わない。
「――でも、会うんだ!!!」
俺は、口に出して意思を表した。
そんな俺を乗せ、電車は進む。俺の行先へ。風を切って。




