雫
すっかり辺りは暗くなっていた。通り沿いの家の窓からは、もれなく電灯の光が零れている。街灯は灯り、遠くには電車が光を帯びて真っ直ぐ進む風景が見える。
俺と月乃が歩く道も、前後を見ても何もない、誰もいない。
俺と月乃はいろんなことを話しながら歩いて行った。出会った時のこと、遊びに行った時のこと、喧嘩した時のこと……
その様子は、過去の陽子先輩との光景によく似ていた。よく似ているが、あの頃とは少し違う。
あの頃は、陽子先輩と一緒にいるだけで俺は幸せだった。満ち足りていた。
……でも今は、とても不安で、怖い。この光景がなくなると考えると、つい足を止めたくなる。
(あの時と、何が違うんだろうな……)
俺は密かに、その理由を探っていた。
俺たちは電車に乗り、月乃の家の近くの駅……すなわち、いつもの駅に降り立った。
あとは住宅街の方に行けば月乃の家まですぐなのだろうが……
(……もう少しだけ、いいよな)
「なあ月乃、少し歩かないか?」
「今から?」
「ああ。夜の散歩ってやつだ」
「別にいいけど……」
月乃は不思議そうな顔をしていた。
俺自身、特に何かあるわけではなかった。少しでも、時間を引き延ばしたかったんだと思う。それで月乃が日本に……俺の傍に居続けることはない。それは分かってる。
……それでも、少しでも長くいたかった。こうして二人でいる時間ってのは、それまでありふれたことだった。でも、本当はとても尊いもので、何ものにも変えられないものだったことが、よく分かった。
以前、月乃と則之と空音で見た映画を思い出した。あそこで俺は考えたはずだ。自分にとってかけがえのないものって何なのか……
なんてことはなかった。かけがえのないものなんてのは、すぐ近くにあったんだ。
でも、俺はそれがいなくなる前にして、ようやく気付いた。遅すぎる。鈍すぎる。バカすぎる。
……いくら自分を罵っても、後悔しても、時間が巻き戻ることはない。決して。
だからせめて、今からでもやり直そうと思った。
(俺もまた、自分の仮面を取る時が来たんだ。恐れるな俺。前に進め俺。
……月乃は、それに打ち勝ったんだ。俺も、やるんだ!!)
「ねえ、この公園……」
月乃は、ある公園の前に立ち止まった。
「ここは……」
(俺と月乃が出会った……星美をフッた……月乃とキスした……)
あの公園だった。相変わらず殺風景だった。目立った面白そうなものもなく、街灯がほんのりと柔らかい光を放つだけの、何の変哲もない、ただの小さな公園だった。
でも、俺にとっては、俺たちにとっては、とても思い入れのある場所だった。
「……寄ってくか?」
「ええ……」
俺たちは、三度公園に足を踏み入れた。
==========
俺と月乃は公園のベンチに座っていた。
こうやって見ると、どこか感慨深いものがある。全ての始まりの場所。ここから、俺は平穏な日常を過ごせなくなった。
月乃と出会い、学校で再開し、仮面彼氏になり、弁当で気絶し、則之たちと遊びに行き、陽子先輩と再会し、星美に告白され、空音から告白され、崖から落ちて、黎が帰ってきて……
様々な場面が、俺の胸に去来していた。だけどそれは、決して辛いものではなかった。むしろ楽しかった。いつの間にか足を止めていた日常が、再び動き出したような感覚だった。
……だからこそ、俺は月乃にお礼を言いたくなった。
「……月乃、ありがとうな」
「は? どうしたのよ突然……」
月乃は、意味が分からないようで、俺の顔を覗きこんでいた。
「お前とこの公園で出会って、俺の日常が変わったんだ。毎日退屈で、毎日つまらない日常が、とても忙しくて、騒がしくて、輝いた日々になったんだ。
最初、俺はそれが面倒だった。“平穏が欲しい”なんて言ってたけど、実際は嬉しかったんだと思う。
……俺はな、いつも自分が嫌いだった。何からも逃げて、関わろうとしないで……そんな日々を自分で作ったのに、そんな日々に嫌気が差してたんだ。
それを変えてくれたのが、月乃なんだよ。だから、お礼を言いたくなった。
……本当にありがとう、月乃。お前のおかげで、俺は前に進めたんだ。お前のおかげで、俺は救われたんだ。お前がいたから、今の俺があるんだ。
月乃、ありがとう」
「晴司……」
「――それと月乃、もう無理するな」
「え?」
「辛いのを我慢するのも強さだと思う。でも、我慢することが全てじゃない。時にはそれを表に出すことだって強さの一つだ。泣きたいとき、泣ける場所があるなら、そこで全てをさらけ出せばいい。一人で抱え込むな。
お前の隣には誰がいる? 俺がいるだろ? それとも、俺じゃ役不足か?」
月乃は何も言わなかったが、顔を伏せ、必死に首を横に振った。
「よかった……だったら、我慢するな。俺はお前の力になりたい。お前を助けたい。お前の、傍にいたい。
だから、もう我慢するな」
「………」
月乃は、黙り込んでいた。
でも、月乃の膝の上にある手には、ポタポタと雫が落ちていた。そして聞こえなかった声は、だんだんと、はっきりと声を漏らすようになった。
「……ひく……ひく……」
「………」
俺は、そんな月乃を見て、何かをしなくちゃいけないと思っていた。でも、どうすればいいのか分からなかった。何て声をかければいいのか分からなかった。
「……月乃」
「……あ……」
……何も分からない。だから、俺は月乃を抱きしめた。それしか出来なかった。
「泣いていいんだ。泣きたい気持ち、全部出せよ」
「う……う……うああああああああ……」
月乃は、声を上げて泣き始めた。胸はどんどん涙で濡れていた。月乃は俺の服を力一杯握り、声の限り泣き続けた。涙は枯れることなく、ただひたすらに、月乃の想いを全て流すように、俺の服を濡らし続けた。
「お母さん……! みんな……! 晴司………!!」
月乃は、いろんな人の名前を呼んでいた。その人との別れを、今まで耐え続けていた気持ちを、今は耐えることなく、その口に出し続けた。
俺は、月乃の黒い髪を撫でていた。そんな俺の頬にも、一筋の雫が零れていた。
その雫を止めるために、俺は上を見た。
見上げた空には月が出ていた。月には雲がかかり、まるで、涙を流しているように見えた。




