下弦の月の夜
八月中旬の夜、俺は、とある場所に来ていた。
とある場所といっても、別に特別なところではない。そこは、人が波を作っていた。道沿いに出店が並び、上には電気コードで繋がった提灯が垂れ下がっている。どこからともなく笛の音が聞こえ、太鼓が軽快なリズムで笛を援護する。行き交う人々は私服だったり浴衣だったりと、様々な格好で出店を歩き回っている。
もはや言うまでもないだろうが、ここは、夏祭りの会場だ。
そして俺の隣には、周囲とは別次元かのような雰囲気を纏った一人の浴衣美人がいた。
後ろに束ねられた艶のある黒髪は、項の辺りを色めいて見せている。普段の姿よりも清楚に、可憐に見えるのは、やはり浴衣特有の魔力みたいなもののせいなのだろうか。通り過ぎる人は男女を問わずその浴衣美人を振り返り、そしてお決まりのように、その後俺の姿を見て溜め息をついていた。
(見ず知らずのお前ら、果てしなく俺に失礼だろ……)
まあ、奴らの気持ちは分かる。改めてコイツを見ると、なぜ俺の隣にいるのかが分からないくらいだからな。さしずめ俺は、美人が連れている不細工な犬のように見られているのかもしれない。
「……さっきから、何ジロジロ見てんのよ」
「いや……別に」
彼女――月乃は俺の視線に気付き、奇っ怪なものを見るかのような視線を返していた。
なぜ俺が月乃とここにいるかと言うと、コイツが俺にした“お願い”が理由となる。ちなみにその“お願い”っていうのは、決して“夏祭りに一緒に行って欲しい”とかいう可愛らしいものではない。むしろ、浮かれるようなものではなかった。
だからこそ、月乃はずっと沈んだ表情をしていて、俺もそんな月乃に何も声をかけていない。いや、“かけられない”のだ。
俺たちが向かうのは、この会場の特別来賓席。
この祭りの最後には、打ち上げ花火が予定されている。花火というものは意外と値段が高く、企業の協賛が必要となる。この祭りの花火を毎年提供するのが、月乃の親父さんが経営する会社だ。そのせめてものお礼として、柊家には毎年特別来賓席が設けられているらしい。
そこに、今回の目的がある。こうやって祭り会場を歩くのは、あくまでも副産物のような位置であり、本来の目的ではない。
=========.
やがて俺たちは、特別来賓席に着いた。
そして、俺たちの姿を見るなり、一人の女性が椅子から立ち上がり、俺たちの方に歩いてきた。
「あらあら月乃、もう来たの?」
「ええ。ちょっと早かったかな」
「花火まではまだ時間があるわね。
……ところで、もしかして一緒にいる彼が?」
「そうだよ。楠原晴司くんだよ。“お母さん”」
「まあ……やっぱり」
……この人は、月乃のお母さん。
浴衣がよく似合う綺麗な人だ。月乃はおそらくお母さん似だろう。その表情は穏やかで、一つ一つの仕草に気品が感じられる。本当に優しそうな人だった。
だが、その顔はどこか窶れてるように見える。
(この人が……)
「お母さん、体調は大丈夫?」
「ありがとう月乃。今日はだいぶん調子がいいのよ」
「そうなんだ……よかった……」
月乃のお母さんは、かなり悪い病気らしい。
……そして、先日医者から、もってあと数年と宣告されたそうだ。
もちろんそれは本人も月乃たち家族も知っている。
……知っているからこそ、俺がここにいる。
「はじめまして。 楠原晴司といいます」
「あらあら、ご丁寧にどうも。
私は柊詩乃、月乃の母です。晴司くん、あなたと会うのを楽しみにしてました」
……あの日、月乃からされた“お願い”は、月乃のお母さん――詩乃さんに会うことだった。
月乃は家で俺の話をしていたらしい。詩乃さんは、その話を聞くなかで、俺と一度会ってみたいと呟いたことがあるそうだ。
そんな中、詩乃さんの余命が宣告された。それが、あの日、月乃が俺の家に遅れて来た日だった。
あの日以降、月乃は家に帰っている。その事情は、月乃の気持ちから、誰にも話していない。それでも、他の奴には何となく重要なことであることが分かったらしく、誰も何も聞かなかったし、今日の祭りについても、誰も文句を言わなかった。
……アイツらには、本当に頭が上がらない。
月乃は、かなり無理をしているようだ。それも当然だろう。自分の母親が間もなくいなくなってしまうわけだし、しかも詩乃さんは本当に優しい人だ。見ればすぐ分かるくらいに。きっと月乃も、そんな詩乃さんが心から大好きなのだろう。
それが分かるからこそ、無理して普段通りに接しようとする月乃は、見ていて本当に痛々しい。
本当は泣き虫で怖がりで寂しがりな月乃は、健気にも、詩乃さんを心配させないように明るく振る舞っていた。
それを見ている俺は、頬の内側を必死に噛み締め、泣きたくなる気持ちを抑えていた。
「あ、そうだ月乃。私、かき氷が食べたいんだけど、ちょっと買ってきてくれない?」
「うん。いいけど……」
「あ、それなら俺も一緒に――」
「晴司くんはいいのよ。――月乃、“お願い”」
そう言った詩乃さんは、月乃に微笑んだ。その微笑みの中には、アイコンタクトのような、隠されたメッセージがあるように見えた。
それは月乃にも伝わったようで、月乃は“わかった”とだけ言い残し、出店が並ぶところへゆっくりと歩いて行った。
そして、俺は詩乃さんと二人きりになった。
ガヤガヤと騒がしい祭り会場は遠くの景色のように見える。今日は祭りにはうってつけと言えるほど、よく晴れた夜だった。
でも、祭りの光のせいなのか、星は見えにくい。下弦の月も、どこかぼんやりと光っていた。




