始まりは月光と共に
それはとある日、時刻はまもなく午前から午後にバトンタッチするような時間。
外は相変わらずの灼熱地獄である。眩しすぎる日射しは容赦なく地上の気温を上昇させる。青い空の一枠にはモクモクとした綿菓子のようなデカい入道雲が、その存在感を惜しみなく醸し出している。働き者の蝉は、今日も自分の仕事を忘れず、けたたましく競うように鳴きまくっている。通り抜ける風は生ぬるいが、部屋の窓近くにある風鈴をチリリンと鳴らす気の利いた奴でもあった。ちなみに風鈴の音は、人の体感気温を下げる効能があるらしい。いや、実に風流である。
そんないつもの夏の日中、俺の家には一部を除いたいつものメンバーが揃っていた。
……そして、やっぱり俺は窮地に立っていた。
「……あの、星美さん?」
「何ですか?」
「なぜ僕は、居間のど真ん中で正座をしているのでしょうか……」
「自分の胸に聞いて下さい」
星美は笑顔で答えた。
……だが俺は知っている。このはち切れんばかりの笑顔の裏には、般若の如き一面を有していることを……
「……陽子先輩?」
「どうしたの?」
「なぜ僕は、こうしてみんなに囲まれているのでしょうか……」
「自分の胸に聞いてね」
陽子先輩は笑顔で答えた。
……だが俺は知っている。この優しい朗らかな笑顔の裏には、冷たい氷のような一面を有していることを……
「……黎?」
「ん? どうした?」
「何でお前はそんなにべったりくっ付いてるんだ?」
「アタシたちは本当の夫婦になったんだからな。当然だろ」
黎は俺の腕に絡みつきながら、至極当然といった冷静な表情で答えた。
……だが俺は知っている。俺の現在の状況が、コイツのこの行動のせいであることを……
「……って、離れろおおおお!!!!」
俺は纏わりつく黎を引き剥がすかのように、叫びながら立ち上がった。
「おいおい晴司。一応妻になるはずの女に対して、その発言はないんじゃないか?」
千春さんはタバコ片手に居間のソファーに座っている。見た感じだと、悪の大幹部って感じだな。
「だから! 何でそうなるんだよ!!」
「何度も言わせるな。お前が結婚を承諾したからだろ……」
「いや、あれはそういう意味ではなくてだな……」
「アタシは嬉しかったぞ晴司!! お前からのプロポーズ!!!」
「黎テメエ!! ちょっと黙って―――」
その時、俺は背後からの殺意の波動を感じ、全身を身震いさせた。
「……プロ?」
「……ポーズ??」
振り返れば、そこには俺に忍び寄るバーサーカーが二体いた。その目は怪しく光り、口は若干ほくそ笑んでいる。
(――――ヒイィッ!!!)
俺の叫びと悲鳴が飛び交う中、千春さんはタバコを吹かしながら星美と陽子先輩に話していた。
「あんまりやり過ぎるなよ。晴司を傷物にされたくないからなぁ」
(……アンタ、傷物の意味分かってるのか?)
「それより!! 何で千春さんは黎の味方になってるんですか!!??」
陽子先輩が俺をシバくのをいったん中断し、千春さんに詰め寄って行った。それもそうであろう。先日までは中立的立場を貫いていたサファリパークの頂点が、ここに来て黎押し(というより黎ヒイキ)しているわけだし……
千春さんは、そんな陽子先輩に向かってニタリと笑うだけで何も答えなかった。
それでも、陽子先輩と星美は何かを感じ取ったらしい。二人は冷や汗のようなものをかきながら、千春さんから少し距離を取った。
二人が感じ取ったものは、いったい何なのであろうか。きっとそれは、星美、陽子先輩、そして月乃にとって面白くはないことだろう………って、あれ?
「星美、ところで月乃は?」
「ああ、月乃先輩ならご家庭の都合で、少し遅れるそうです」
「ふーん……」
(家庭の都合ね……連絡の一本くらいしろよな)
―――ガチャ
そう思った矢先、玄関が開く音が聞こえた。そして、誰かが家の中に入り、その人物はさも当然のように廊下を歩いてきた。
……まあ、思い当たる人物なんてのは、たった一人しかいないわけだが……
居間のドアが開き入ってきたのは、予想通りの人物だった。
「月乃、遅かったな」
「ええ。ちょっとね……ところで、いったい何の騒ぎ?」
部屋の状況を見て、月乃は何かが起こっていることを瞬時に察した。……見れば分かることだが。
「ふふん……月乃、一足遅かったな」
そんな月乃に黎は勝ち誇ったかのような顔で近付いて行った。
「どういうこと?」
(――ヤバい!!!)
月乃の問いは、俺の警戒レベルをマックスに跳ね上げた!!!
……しかし、手遅れだった。
「アタシと晴司は、正式に婚約したのだ!!!」
(ああああああああ……)
またしても俺は間に合わなかった。この黎のセリフは、星美と陽子先輩が家に来た直後に言った言葉だった。おかげで俺は固いフローリングに正座して、さらに袋にされていたわけだが……今度ばかりは殺されるかもしれん……
「ふーん……まあ、どうせ晴司が、また誤解を招くようなこと言ったんでしょ」
「へ?」
「私、ちょっと疲れたから部屋に戻るわね」
それだけを言い残し、月乃は部屋に入って行った。
一方、居間にいた俺たちは呆気に取られていた。黎は、間違いなく月乃を挑発したはずだ。いつもの月乃なら、ここで烈火の如く怒り狂い、俺を半殺しにすることを躊躇しないところだ。
……しかし、今日の月乃は、淡々と自分の推測を口にして、さも興味がないかのように部屋に戻った。
明らかにおかしい。
「……何だ、アイツ……」
「さあ……何かあったのかな?」
口々に疑問を話す面々。やはり、全員が同じ考えのようだ。
……部屋に入るときの月乃の顔を見た俺は、なぜか最初に出会った時の月乃の顔を思い出していた。
============
その日の夜。俺はソファーの上で考え事をしていた。議題は、当然月乃のこと。
あれから月乃は、普段と変わらないようになった。いつものように笑い、いつものようにケンカし、いつものように俺を疲れさせた。
……でも、それにはどこか違和感があった。
なんというか、いつもの月乃に限りなく近いが、本人ではなく、誰かが代役をしているような感じに近いのかもしれない。
(家で何かあったのか?)
「晴司……」
ふと、ひっそりと静まり返った暗い居間に、月乃の声が響いた。そこには、月乃が立っていた。
「月乃、どうしたん―――」
「晴司、何も言わずに聞いて」
俺の言葉を遮る様に月乃は言った。その口調は、どこか悲しさを漂わせていた。
「……なんだよ」
月乃は、その後の言葉を躊躇していた。目は視線を泳がせている。口は開いては閉じて、閉じては開いて、喉まで出かかっている言葉を、何とか口にしようとしているようだった。
そして、一度深呼吸をした月乃は、左右を行き来していた視線を、俺に定めた。
「一つ、お願いしたいことがあるの……」
その視線は、目を逸らすことすら許されないかのような、月乃の想い全てを込めたかのようなものだった。
窓からの月光は、そんな月乃の表情を、俺に見せつけるかのように照らしていた。
……そして、そんな月乃の言葉は、今後の俺を左右する出来事の始まりを告げていた。
その時の俺は、そんなことを知る由もなかった。




