決別の夏の蝉
千春さんは悠然と居間に入ってきた。その歩みに迷いはなく、その顔に躊躇は見えない。
何かを深く決意したような、そんな表情を見せる千春さんは、いつもよりも頼もしく見えた。
(頼もしい? 俺は何を考えてるんだ?
――俺が、何とかするはずだったんだろうが……!!)
俺は、自分の不甲斐なさが悔しかった。心のどっかで、千春さんが来たことにほっとする自分が情けなかった。奥歯を力いっぱい噛み締めることしか出来なかった。俯き、千春さんが近寄ってくる音だけを聞いていた。
千春さんは、俺の横を通り過ぎる時に、そんな俺の肩を叩いた。
「――ありがとう晴司。お前はよくやってくれたよ。だから、そんな顔はするな。
ここからは、私にやらせてくれ。……いや、私がやらないといけないんだ」
「千晴さん……」
そう言って、千春さんはアランの前に立った。
アランは、表情を和らげていた。
「やあ、千春……待っていたよ……」
千春さんに手を伸ばすアラン。
「さあ……一緒に―――」
「――アラン、その前に、私の話を聞きな」
威嚇するかのように放たれた千春さんの言葉と視線に、アランの手は止まった。
「……アラン、私はね、本当は、ずっとアンタを待ってたんだよ。来るはずがないことを分かっていながら、アンタのことを、ずっと待ってたんだよ。
この前家に来た時は、本当は嬉しかったんだ。やっと私のところに戻ってくれたんだって思っちまったよ。
……アンタが私らにしたことなんて忘れて、私は夢を見てしまってたんだ。もう一度、あの生活に戻る夢をね……」
千春さんは、少しだけ笑みを浮かべていた。
それはもしかしたら、俺が初めて見る、“女性としての千春さん”だったのかもしれない。
……でも、そんな表情は、すぐに険しいものに変わった。
「でもね、さっきの晴司との会話を聞いてて分かった。……やっぱり、アンタはもう必要ないんだよ。
――悪いけど、アンタのことを、少しだけ調べさせてもらったよ……」
「―――!!」
アランは急に取り乱し始めた。その表情は、焦りからなのか、冷や汗が見える。口が半開きになっている。
「……あんた、最近あの女と別れたそうじゃないか」
「そ、そうだよ。もちろん、キミたちを迎えに行くために――」
「――違うね。あの女が、アンタを捨てたんだろ?
そして、温もりが恋しくなったアンタは、過去に置いてきた私たちを“思い出した”んだ。
アンタは、あの女の代わりを、私たちに押し付けようとしてんだよ」
「―――!!!」
「あの女はね、アンタのことなんてどうでもよかったんだよ。私を不幸にしたかっただけなんだよ。
アンタは、それにまんまと乗せられたんだ。嘘ばかりの言葉を並べたあの女に、アンタは憑り付かれたんだよ。
……そして、今アンタは、嘘ばかりの言葉を並べ、私と黎に憑り付こうとしてる。あの女と同じようにね……」
「……違う……違う!!」
アランは後退りを始めた。目を充血させ、首を左右に必死に振っていた。自分の存在を守るように、自分の心を読まれないように。
その姿は、限りなく惨めだった。
「アンタは道を誤ったんだよ。
一時の快楽に身を任せて、アンタは私たちを“物”のように捨てたんだ。
――そして、アンタも“物”のように捨てられたんだよ」
「―――ッ!!」
「一人になって、初めて分かっただろ? 捨てられる辛さが。愛した人が去っていく悲しさが。
……でも、もう遅いんだよ。何もかも、手遅れなんだ。
それを、晴司が教えてくれたんだよ」
そう言って千春さんは俺を見つめた。とても優しい、吸い込まれるような瞳だった。
「私も黎も、本当は誰かに守られたかったんだよ。父親という存在が……隣にいて、安心できる人が欲しかったんだよ。
……でも、それはアンタなんかじゃない。私と黎には、もう“晴司”っていう存在があるんだ。
コイツはな、とんでもなく不器用で鈍くて、普段はちーっとも頼りになんかならない、ただのガキなんだ」
(………オイ)
「……でもな、辛いとき、困ったときは、これ以上ないくらい頼りになるんだよ。とんでもない方法だったり、でたらめなやり方だったりするけど、コイツが“そんな目”をしたときは、心底安心できるんだよ。
コイツなら、ずっと私と黎を守ってくれる。そう、思えるんだ。
……そうだろ? 晴司」
千春さんは、とても穏やかな表情で俺を見ていた。俺は、そんな千春さんの期待に答えたかった。
「……ああ。当たり前だ」
千春さんは、最後に一度瞳を閉じ、フッと笑った。
そして千春さんはアランに目を戻した。その目は、何かを訴えかける、力強い……とても力強い目だった。
「私と黎の“これから”には、“アラン・シーカー”って人間は必要ないんだ。
もう私たちに憑り付くのは止めろ。これ以上付き纏うのは止めろ。
私は、今の生活が一番幸せなんだ。アンタとの生活よりも、ずっと」
「あ……あ………」
「さよならアラン。
……もう二度と、私たちの前に姿を見せるな」
「ああ……ああああああ………」
その言葉を皮切りに、アランはその場で泣き崩れた。その涙が意味することは、俺には分からなかった。
もしかしたら、このアランという男も、自分の気持ちがよく分からない人間――不器用な人間だったのかもしれない。心の奥底には、本当に千春さんたちを想う気持ちがあったのかもしれない。
だけど、それよりも先に、自分のことしか考えられなかったんだろう。
それは、家族として致命的なのかもしれない。自分を優先させ過ぎたこの男は、その末路のように思えた。
千晴さんと黎は、床に伏せて泣き続けるアランを、それぞれが何かを想うように見つめ続けていた。
外から聞こえる蝉の音は、やけにうるさく聞こえる。成虫になった蝉は長生きできない。そんな蝉の鳴き声は、その蝉の最後を告げる証なんだと思う。
そう思うと、アランの泣き声は、一つの家族の最後を告げているかのように思えた。
俺は、そんなアランを見ながら、頭の中で二人に知られることなく、“本当にこれでよかったのか”と、終わらない自問自答を繰り返していた。




