黎明の光
俺の家は、普段の様子を忘れたかのように静まり返っていた。
月乃達は怯えていたので、一時的に帰宅させた。星美は月乃の家に泊まるそうだ。だから、今家には俺と千春さん、黎しかいなかった。
イライラした様子でタバコを吸い続ける千春さん。黎は、部屋にこもっていた。
“また、来るから……”
千春さんの怒号を受けたアランさんは、悲哀に満ちた表情でそれだけを言い残し、どこかへ歩いて行った。
アランさんと千春さんが離婚したのは、確か黎が小学生の時だった。何が原因かは知らなかったけど、きっと、千春さんの普段の行いが原因だと俺は思っていた。
……でもそれは、全く違っていた。この元夫婦、元親子には、そんな単純じゃない、もっと複雑で深い理由があったようだ。
それが分かった俺は、今までの自分の考えを恥ずかしく思い、一人静かに、胸の奥を刺す痛みを感じていた。
千春さんはタバコを灰皿に押し当て、かと思うと再びタバコを一本取り出し、口に咥えた。
(いったい何本吸う気だよ……)
見かねた俺は、火をつけようとしていた千春さんの口のタバコを取り上げた。
千春さんは少し驚いた表情を見せ、俺を睨んできた。
「……晴司、何をするんだ?」
そこには、いつも以上に声色がキツイ千春さんがいた。でも、怖くはあったが、俺は臆することはなかった。それは千春さんのこの様子が理由なのだろう。千春さんは今何かに混乱している。普段の大人びた雰囲気だとか空気だとかを全く感じない。まるで子供の様に、ストレスを周囲に、タバコにぶつけているかのようだった。
だから俺は、睨み付ける千春さんを、普段の口調で諭した。
「“何するんだ”じゃないだろ。吸い過ぎ。体に毒だぞ?」
「晴司には関係ないだろ……」
「大ありだね。煙がさっきから家ん中に雲作ってるんだよ。……まったく、掃除する身にもなれっての」
「……随分と、舐めた口調だな……」
「そう凄んでもダメなもんはダメだ」
「……怒るぞ、晴司……」
「何言ってんだよ。もう既に怒ってるだろうに。
……何があったか知らないし、それを無理矢理聞こうとは思わない。だけど、もう一度この部屋の中を見ろよ。ここはどこだ? 千春さんの家だろ?
ここは体を休める場所だ。心を癒す場所だ。
ぶつける先がない感情を爆発させるのはいいさ。心を許すところで弱音を吐くのもいいさ。
――だけどな、それを自分の中にだけ押し止めて、周囲にその残り火を振りまくのはダメだ。それじゃきっと何も解決しないし、あとで心を痛めるだけだ」
そう言って俺は作っていたコーヒーを千春さんの前に置いた。そして俺は千春さんの隣に座る。
「相談には乗れないとは思う。千春さんの方が断然人生経験豊富だし、俺にはどうすればいいかなんて分かりもしない。――でも、それでも壁くらいにはなれるさ。
……愚痴、聞くよ」
千春さんは俺の話を聞き続けていた。その表情にはさっきまであった行き場のない怒りのような色は見えなくなっていた。千春さんは一口コーヒーを口に含めた。そして、味わうようにゆっくり飲み込んだ。
「……タバコ、もう一本だけ吸わせてくれ」
千春さんの口調は、いつもの千春さんに近くなっていた。でもどこか、いつもよりも声が小さい。目線にも力強さはなく、手の中で揺れるコーヒーを、ひたすらに見つめていた。
俺は取り上げたタバコを千春さんに渡した。千春さんはそれに火を付け、さっきよりも深く息を吸い込み、霧のような白い煙を吐き出した。
==========
時刻は夜が深くなる頃。千春さんは静かに話し出した。
「……私は、高校を卒業してすぐ、今の会社に就職した。私は死にもの狂いに働いた。若かった私は、自分の存在を周囲に知らしめたかったんだ。自分がどれだけすごい人間か、どれだけ価値ある人間か、それを、私自身も知りたかった。実に笑える考えだったと思う。でも、当時の私は、それが全てだったんだ」
千春さんは時折笑いながら話していた。でも、その笑いは俺も知ってる笑いだった。とても乾いた、皮肉に満ちた笑いだった。
「おかげで、私はすぐに上の人間の目に留まった。そして、海外の支店に異動したんだ。
……そこで出会ったのが、アイツ――アラン・シーカーだ。
私はアランと同じチームだった。でも、私はそのチームで孤立していたんだ。若い東洋人が我が物顔で海外の支店に出入りし、偉そうに意見を述べる。現地の人たちには、さぞや癪に触ることだったんだろうな。……私は、その存在自体を無視され続けていたんだ」
(あの千春さんが……)
「でも、アランだけは違っていた。アランは、私の話を聞いてくれて、その意見が正しければそれを方針にしてくれた。
……私は、アランに縋ってたんだ。孤独に耐えられなくなっていた私は、アランに心を惹かれていった。
毎日アランのために仕事をし、アランのために生活していた。私の中心には、常にアイツが居続けていた。
……そして、私たちは結婚した。翌年には黎も生まれた。
黎には言ってないが、黎の名前を考えたのもアランだ。アランは夜明けが好きだった。暗闇に一筋の光が差し込み、パアッと光の粒子が広がっていく様子が美しいと言っていた。
そんな、希望に満ちた美しい光を放つ女性に成長するように……そう願いを込めて、夜明け――黎明から、“黎”という名前を付けたんだ。
あの頃は本当に毎日が幸せだった。アランがいて、黎がいて……私は、人生の絶頂に立っていた。
……でも、それはある日、突然終わりを告げた」
千春さんはもう一度タバコを吸いこみ、大きく息を吐いた。まるで、何かを覚悟するかのように。
「いつ頃からか、アランは家に帰らなくなった。何度電話しても出ない。やっと出ても、理由を聞いても答えない。私は、そんなアランの態度が悲しくて、辛くて、つい、アランに強く当たるようになっていた。
……そして、ある日アランが白人の女性を連れて家に来た。さらに奴は、あろうことか、黎もいる前で言ったんだ。
“君は僕がいなくても生きていける。でも、僕はこの人がいないと生きていけない。
僕はこの人と、これからの人生を過ごす。……だから、別れてくれ”
私は、目の前が真っ暗になった。その女は、同じチームの女で、私のことをよく思ってなかった女だった。その女はずっと私を蔑む目で見続けた。
私は、そんな女の視線と、アランの冷たい視線の両方に耐え切れなくなり、別れを決意した」
(アランさんは、誑かされたわけか……)
「アランと私の離婚は当然会社が知ることになり、私はアランのチームから離れた。私は、黎を育てるために、また懸命に働いた。
……そんな中、兄さんが死んだ。私は、残された葵と晴司に、私たちと同じ姿を感じた。だから私は日本に帰り、今この家に住んでいる。今度こそ、家族を失わないために……」
「千春さん、黎は……」
そう。俺が中学の時に家に来たのは千春さんだけだった。その間、黎はいったいどうしていたんだろうか……
「黎は……自分の意志で外国に残った。もちろん、あっちの学校に友達がいたこともあったがな。それからの黎の生活は、私もよく知らないんだ。アイツ自身が何も話さないから、私から聞くこともしなかった。
まあ、聞いた話では、アランの家にもたまに行っていたようだがな……」
「………」
黎は、一人外国に残り、何を成そうとしていたのだろうか……
それは、今黎が部屋に引きこもっていることに関係していることなのだろうか……
アランさんの姿を見てからの黎は、尋常ではなかった。
(黎に、いったい何が……)
「……晴司、一つ頼みがある」
突然、千春さんが俺の方を見て、そう言ってきた。
「頼み?」
「黎を……救ってくれ。アイツは、きっと何かを抱えている。これまで、お前たちとの生活でやっと忘れかけていたことを、アランの姿を見たことで思い出したんだろう……
アイツは今、たった一人でそれを抱え込んでいる。苦しめられている。私じゃ、何を言ってもきっと話してはくれないだろう……
だから晴司、お前が代わりに黎を助けてやってくれ」
「千春さん……」
千春さんは、初めて俺に縋るような表情を見せた。その瞳はいつもの千春さんではない。黎を想う母親としての瞳とも、どこか違う。初めて見せる、とても弱い一面だった。
そんな千春さんを見た俺は、勢いよく席を立った。
「……ちょっと、黎と出かけてくる」
そんな俺を千春さんは、どこか安心した表情で見ていた。そして、力強く返答した。
「ああ。頼んだぞ」
俺は、強い足取りで黎の部屋に向かった。
==========
黎の部屋の前に立った俺は、ノックをしながら声をかけた。
「黎……開けてくれ」
「………」
中から黎の返事はなかった。カギはかかっているようだ。
「黎……開けろよ」
「……どっか行けよ」
ようやく中から黎の声が聞こえた。その声は、千春さんと同じく、いつもの黎とは全く違っていた。
「黎、開けろ」
「――どっか行けって、言ってるだろ!!!!」
黎は声を荒げていた。……その声は、どこか震えていた。
「……わかった。開けるぞ」
「………は?」
俺はドアから少し距離を取った。そして、力の限り全力でドアを蹴った。
「な―――!!??」
ドア越しに黎の絶句する声が聞こえる。だけど、そんなもんは気にしない。俺はドアを蹴り続けた。ドアからは鈍い音が聞こえていた。一回蹴ったくらいでは、ドアはびくともしなかった。
それでも、数回蹴ると、ドアの留め金部分が軋み始め、ついにドアは外れ、黎の部屋の中に倒れた。
俺は黎の部屋にズゲズゲ入って行った。黎の部屋は初めて入ったが、意外と女の子っぽい部屋だった。部屋の隅には大きなクマのぬいぐるみが置かれ、本棚、机は綺麗に整理されている。机にはたくさんのトロフィーが飾られていた。おそらく、空手の試合のものだろう。
……そして、机の上には、一枚の写真が飾られていた。その写真は、いつか教室で撮ったものだった。俺が中心で苦笑いをしている。月乃がそんな俺を笑顔で見つめている。星美、空音がピースサインをしている。則之は俺の隣で親指を立てている。……黎は、どこか戸惑いながらも、太陽のような笑顔を見せていた。
俺は黎の顔に目をやった。黎はベッドに座り、驚いた表情をして俺を凝視していた。
……その目には、涙があった。
(……何て顔してるんだよ……)
「……黎!! お前、何て面してんだよ!!!」
「―――!!!」
「お前は底抜けにパワフルで! 無駄に強引で!! でたらめに明るいんだろ!!??
――それなのに、お前は今、どんな顔してんだよ!!」
「な、なんで晴司が怒るんだよ!!!」
「俺だって分かんねえよ!! 自分が何にそんなに怒ってんのかなんて分かんねえよ!!
――でもな! お前のそんな顔は似合わねえんだよ!!! お前は誰だ!! “黎”だろ!?
お前は希望の光――黎明の光なんだよ!!!
そんなお前が、そんな顔で閉じこもるなんてのは――この俺が許さねえ!!」
俺は戸惑う黎の手を掴み、引っ張り上げた。そのまま玄関を飛び出し、外へ連れ出した。
「ちょ、ちょっと晴司!! こんな時間にどこに行くんだよ!!」
「見るんだよ! ――お前に、見せるんだよ!!」
「何をだよ!!!」
「そんなもん……夜明けに決まってるだろ!!!!」
「……はあああ!!??」
夜の底が近い外は暗く蒸し暑かった。それでも、空には少し欠けた月が顔を出していた。星々は俺を応援するかのように、懸命に煌めいていた。雲は俺の行く先を案内するかのように、西の空に向けて流れていた。
俺は黎の手を掴み、黎を引っ張りながら歩いた。
何か考えがあったわけじゃない。こうすれば、黎が抱えるものがなくなるとは思わない。……俺には、どうすればいいかなんて分からない。
それでも、俺は歩いた。戸惑う黎を引っ張って。
そんな俺たちの横を、どこか心地よい風が通り抜けていた。




