あなたに“感謝”を
トントン…………トントン…………
その音は、一定のリズムで、永遠と鳴り続けている。
トントン…………トントン…………
そのリズムが起こる度に、星美が――俺が、体をビクビクさせ、その体中を駆け巡る恐怖だとか不安だとか、何か得体の知れないモノへの畏怖の念に支配されていた。
……でも、このままではいけないのは分かってる。何かしなくちゃ――どうにかしなくちゃいけない。
しかしどうする?
警察を呼ぶか?
……いや、今の段階でこれが何の犯罪になるというのだろう……
もし何かしらの法に触れ逮捕されることになっても、コイツはいつかはシャバに戻ってくる。その時、真っ先に報復の対象となるのは――星美だ。
それは、ダメだ……
じゃあ、いっそ黎を呼ぶってのは? アイツは空手の有段者だし、あの男も一瞬で蹴散らすだろう……
……しかし、それはつまり、アイツを危険に巻き込むってことだ。だいたい追い詰められた男が何をするかなんて分からない。そんなところに、アイツをわざわざ招き入れるなんて出来るわけがない。
そう、あの男をいろんな意味で“倒す”には、肉体的、社会的な方法では無理なんだろう。
もっとあの男の、根本を揺るがす何かを……あの男の精神自体を叩く必要がある。
……でも、それが何なのかなんて分からない。分かるはずもない。
今の俺には、あの男に成す術なんて思いつかない。……つまり、俺に出来ることは、ただ一つしかない……
トントン…………トントン…………
音は、止まる気配がない。まるで俺たちの恐怖を煽るのがたまらなく楽しいかのように、ひたすらに暗く狂気に覆われた部屋に響き続けていた。
俺は、恐怖で今にも取り乱しそうに震える星美の頭をそっと撫でた。星美は、壊れそうなくらい憔悴しきった顔を俺の方に向けた。
俺だって怖い。だけど、星美はもっと怖かったはずだ。現に、今星美は、まるで広く深い海のど真ん中で必死に浮き輪にしがみ付くかのように、必死に、力いっぱい俺の体を掴んでいる。
……俺は、精いっぱいの笑顔を星美に送った。
星美は、何か信じられないような顔をしている。
『なぜこの状況で笑えるのか?』
星美の目は、そう訴えているのがわかった。
そんな星美に、俺は耳打ちした。
「星美……逃げるぞ……!!」
俺に出来ること……それは、星美を連れて、この狂気に満ちた場所を離れることだった。
しかし、当然そのためには廊下に出る必要があった。ここはマンションの6階。窓からなんて無理だ。
……つまり、あの男がいる廊下に飛び出し、あの男を走って撒くことしか方法がない。幸いここの玄関はオートロックだ。急いで締めれば星美の家に入られることはない。
後は、行動に出るだけだ。
でも星美は、再び恐怖に満ちた表情で、冷たい涙が溢れる表情で、何も言わず、必死に俺の体を強く掴み、何回も首を大きく横に振っていた。
それは当然のことだと思う。ここまでの恐怖を与えた人物の前に、わざわざ誰が飛び出そうとするだろう……
それでも、そうしなければ、現在の状況は改善されないと思う。平行線を辿るか、逆に悪化するかしかない。
「星美、怖いのは分かる。でも、このままじゃダメなんだ……!!」
俺は声を抑え、何とか星美を説得しようとした。しかし星美はそれに頷かず、それどころか、逆に取り乱し始めた。
もはや首だけでなく、体全体を大きく横に振るかのように……壊れたおもちゃのように、星美は拒否の意思を示し続けている。
俺は必死になって星美が落ち着く方法を考えた。言葉ではダメだ。耳を貸さない。無理やり引っ張って行ってもダメだ。途中で固まれば、最悪、あの男に捕まる。
何か、星美自身が行動する何かを、俺は必死に考えた。
……そんな俺の頭に、ある光景が浮かび上がった。それは断片的で、ハッキリとしない光景だった。でも、それなら星美は俺の話を落ち着いて聞いてくれるかもしれない。
(でも……いや、もう迷ってる時間なんてない!!)
俺は、もう一度星美の頭を撫でた。
さっきと同じように、取り乱した星美は、ぐちゃぐちゃの顔を俺に向ける。
俺は、そんな星美にキスをした。
「―――――!!!」
星美は、それまで震えていた体をピタッと静止させた。
星美の唇は冷たかった。顔はべたべただった。髪は乱れ、俺の目や額に纏わりついた。それでも、俺は星美が落ち着くまで、唇を重ねた。
少し時間が経つと、星美は体の震えが収まっていた。涙も止まっていた。
それを確認したところで、静かに星美から顔を離した。
星美はただ茫然と、揺れるような瞳で俺の顔を一心に見つめていた。……でも、その目には、さっきまでどこかへ消えていた生気みたいなものが、再び宿っているようだった。
俺は、そんな星美にもう一度話を切り出した。
「……星美、俺を信じろ。――お前が好きな、俺を信じろ。俺は、必ずお前を守る。――俺に、お前を守らせてくれ。
確かに怖いかもしれない。動きたくないかもしれない。
でも、それじゃダメなんだ。このままじゃダメなんだ。
俺は、お前を助けたいんだ。
―――だから、俺を信じろ!!」
星美は、しばらく俺の顔を見ていた。そして、今まで重く閉ざしていた口を、震えながらゆっくり開いた。
「………はい」
星美の顔には、あの微笑みが戻っていた。相変わらず涙は流れていた。だけど、さっきまでとは違う……どこか暖かい涙に見えた。
そんな星美を見て、自然と俺も笑みを浮かべた。さっきとは違う、俺の心が浮かべたものだった。
俺と星美は、見つめ合ったまま、手を取り合い、ゆっくりと立ち上がった。
そして、俺たちはあの男がいる、玄関の方に歩き出した。
その足には、躊躇や憂いは、微塵もなかった。
==========
俺は星美の手を握ったまま、覗き穴からもう一度外を眺めた。
あの男は、まだひたすらドアを叩き、無表情のまま立っていた。
(……よし。行けるな……)
俺は一度星美に視線を戻した。星美は、俺の視線に気付き、ニッコリと微笑み、小さく頷いた。
俺もまた微笑み、深く頷いた。
俺たちは、繋いだ手をもう一度強く握り締めた。
―――――バンッ!!!!!
勢いよくドアを開けた。
「うぁ―――!!!!」
男は短く声を漏らし、廊下に倒れる。そして俺は星美の手を取り、全速力でエレベーターを目指す。
「走れ星美!!!」
「――はい!!!!」
俺は走りながら後ろを見る。玄関は男を廊下に残したまま閉まる。男は、思ったよりも小柄で華奢だ。走るのはそこまで速くないだろう。
エレベーターは俺の予想通り、6階で止まったままだった。
俺たちはすぐにそれに乗り込む。扉が閉まると同時に男はエレベーターの扉にへばり付いてくる。
その顔は歪んでいる。狂気をそのまま顔に宿しているかのようだ。
「――――ッ!!」
星美はその顔を見て、短い悲鳴を上げる。そして、俺の後ろに身を寄せる。
男を置いて、エレベーターは下がり始める。男は、怨念を込めるかのような視線を俺たちに――いや、おそらく俺に送っている。
その目を見た俺は、星美に悟られないよう唾を飲み込んだ。
「アレは……本当に人間か?」
俺は、無意識にそう呟いていた。
――それほどまでに、その男の顔は酷く濁っていた。
==========
1階に着いた俺たちは、すぐに外へ駆け出した。
ここまでくれば大丈夫だろう………俺は、そうやって気を緩めた。
……まるで、それを見計らったかのように、俺たちの後方から叫び声が――まるで死霊のような絶叫が聞こえてきた。
「星美いいいいいいいいいい!!!!!」
振り返った俺の眼前には、あの男――狂気そのものが走って近付いてくる光景が飛び込んだ。
「な――――――!!!!!」
完全に予期していなかった。しかし、いくらんでも早すぎる。
「――――非常階段か……!!」
(クソ……!! それを忘れるなんて!!!)
俺は自分の思量の浅さを悔やんだ。
俺たちは必死に走った。だが、なかなかヤツを引き離せない。星美は、もう限界だった。
則之は言っていた。
“成績優秀、運動が少し苦手な女の子”
俺は、これ以上の逃走は無理だと判断した。
俺は星美を背中に隠すように、振り返り、男を待ち構えた。
星美は俺の背中で息を切らしていた。胸と足を押さえている。やはり、このまま走るのは無理だった。
男はすぐに表れた。そして、肩で息をする男は、ニヤリと不気味な笑みを浮かべた。
そこは駅までまだ距離がある丘のふもとだった。周りに民家はない。叫んでも誰も来そうになかった。
男は、俺を無視するかのように星美に話しかけだした。
「……ダメじゃないか星美ぃ。彼氏の僕を置いていくなんて……」
(………彼氏、だと?)
「そんな下種な男じゃ君を幸せになんて出来ないんだよ………
君は、僕が――僕だけが幸せに出来るんだよぉ?
……さあ、そんなところにいないで、出ておいで。さあ……」
星美は俺の服をギュッと掴んでいた。
(…………)
「―――さっさと出て来いって言ってるんだよ!!!
星美ぃぃぃぃ!!!!」
その怒声に、星美はさらに強く俺の服を掴んだ。
(………なんだろうな、この気分は………
最悪だ。最悪の気分だ。―――胸糞悪い……)
「お前を今まで見守っていたのは誰だ!! 高校に入学したときから、片時も離れず、お前の笑顔を守ってきたのは誰だ!!! 僕じゃないか!!!
僕はお前の彼氏なんだよ!!! だから早く――――!!!」
「―――ハハハハ……!!!!」
「――――!!??」
「――――!!??」
突然と響き渡った俺の笑い声に、男は固まり、俺を見た。おそらく、背中で震える星美もそうだろう。
「……なんだよ……何が可笑しいんだよ!!!」
「全部だよ!! お前が言う、何もかもが笑えるんだよ!!!」
「だから何がだ!!?? 僕は、星美の彼氏で―――!!!」
「……お前、星美が笑う時って、どんな時か知ってるか?」
男は戸惑っていた。でも、そんなの知ったことではない。
(……俺は、キレてんだよ)
「星美が笑うときってのは、いつもなんだよ。星美は、いつもニコニコしてて、誰にでも等しく接して……だからこそ、学校の人気者なんだよ」
「―――んなことは知ってるんだよ!! 僕だって、その笑顔が――――!!!」
「だったら!! この星美の顔はなんだ!!!!」
俺は体を横にし、男から星美の顔が見えるようにした。
星美は、さっき見せた絶望の顔をしていた。
「――――!!!」
「お前が言う星美の幸せって何だよ!!! こんな顔をさせることか!!??
星美を怖がらせて!! 絶望させて!!! お前は、こんな顔を星美にさせたかったのか!!??
――違うだろ!! お前が見つめていた星美は、違っただろ!!!!」
「………!!!」
男は、何か言いたそうな顔をしていた。唇を噛みしめ、俺を睨み付け、不満タラタラな顔をしていた。
でも、男は一言も口にしない。出来ないのだろう。
俺は、そんな男に畳みかけるように叫んだ。
「星美を幸せに出来る!!?? ふざけんじゃねええ!!!!!
俺はな、知ってるんだよ!!! 自分のことを犠牲にしてでも、好きな女の笑顔を守ろうとしたヤツを……俺は知ってるんだよ!!!!
それに比べてお前はなんだ!!! 星美の顔を見ろ!!!
――これが!! これが“彼氏”のお前がしたことなんだよ!!!!
お前がしたのは、星美の笑顔を奪うことだけなんだよ!!!!!」
「――――うるせえええ!!!!!」
男は叫んだ。そして、ポケットから何かを取り出した。
「……殺してやる……殺してやる……」
男の手には、鈍く光るバタフライナイフがあった。先端が震えている。
「……ああ……ああ……!!!」
星美はその光るモノを見て、絶望に伏した声を漏らす。
「……お前は、本当にどうしようもないバカだな……」
それでも、俺の気持ちの高ぶりは治まらなかった。刃物を見ても、まったく恐怖はなかった。……いや、違う。
怖かったが、それ以上に、多少のケガを負ってでもコイツを殴るつもりだった。どうしても、このバカだけは殴りたかった。
俺が玉砕覚悟で一歩踏み出したとき、俺の横を、何かが風のように走り抜けていくのが見えた。
……その風は金色の髪を靡かせ、一直線に男に向かっていく。
「うおらあああああ!!!!」
「―――!!」
ソイツの掛け声に男は一瞬の硬直を見せる。
―――その間に、ソイツは瞬く間に男の懐に入る。そして、ナイフを持つ手を右足で蹴り上げる。弾き飛んだナイフは宙を舞い、街灯の光を反射させている。
さらに次の瞬間には、ソイツは男の腹部、胸部、顔面に矢のような殴打を浴びせる。たまらず男は腹部と顔面を手で押さえる。
男は怯み、動きは止まる――――
「―――人の旦那に!! 何しようとしてんだああああ!!!」
ソイツは――黎は、止めと言わんばかりに飛び上がり、空中で体を一回転させ、風を裂くような豪快な回し蹴りを男の側頭部付近に叩き込んだ。
「ぁぐッ―――――!!!!」
男は、鈍い音とともに籠った声を漏らして、そのままコンクリートの地面に叩きつけられた。
……もちろん立てるはずもなく、男は体を痙攣させ、黒い地面の上で呻き苦しんでいた。
そして、宙を舞っていたナイフは道路に落ち、軽い金属音を鳴らしていた。
黎は、両手を腰の横に当て、空手の構えを取る。深く眼を閉じ、深呼吸をした。
「―――――押忍!!!」
一本勝ち、ってところだろうか。
(………それにしても……)
「……ど、胴回し回転蹴りかよ……」
久々に黎の技を間近で見たが……コイツは怒らせない方が身のためだ……
改めて、そう実感した。
「晴司!! 無事か!!??」
目を開いた黎は俺に駆け寄って、体中をくまなく見始めた。
「……大丈夫だよ。誰かさんがケガする前に、アイツをブッ飛ばしたからな」
(……俺の見せ場をかっさらっちまったし……)
「本当にケガはないのか!!??」
黎はそれでも俺の体を見ていた。
その顔は、さっきまでの武人の顔と違い、普段は見せない、心の底から心配するような顔だった。
俺はそんな黎の姿を見て、思わず笑ってしまった。
「なんだよ!! 人が心配して――――!!!」
「―――ありがとう。黎」
俺は素直に、心からの言葉を黎に告げ、鮮やかな金色の髪を撫でた。
「―――――!!!」
黎は顔を真っ赤にして固まってしまった。そして、両手を胸の前でモジモジさせ始めた。
「いや……無事なら……いいんだけど……」
黎はしどろもどろになっていた。
==========
「……さて、コイツをどうするかな……」
「……それなら、心配ないわよ。もう警察も呼んでるし」
後ろから声が聞こえた。聞き覚えがある声だった。
振り返ると、そこには月乃と千春さんがいた。
「おお、おお。また派手にやったなぁ、黎」
千春さんは感心するような目で黎と男を交互に見た。
「黎といい、千春さんたちといい……よくここがわかったな」
俺の質問に、月乃が呆れる様に言った。
「……あれだけ大きな声で電話してたら聞こえるでしょ、普通……」
「もっともそのマンションがどのマンションかまでは分からなかったからな。おかげで、みんな夜の街を走り回ったわけだ」
千春さんはタバコに火をつけながら説明していた。
「う……ん――――」
突然、男の方から声が聞こえた。
振り返り確認してみると、どうやら起き上がろうとしているようだ。
しかし、当然だが、体が言うこと聞くわけもなく……その場で体を少し揺らす程度しか出来ていない。
「あら? 手加減し過ぎたか?」
黎は頭をかきながらぼやいていた。
(……あれが手加減ってお前………本気なら首がもげそうだな………)
「どうする? 止め刺しとく?」
黎は手をバキバキ鳴らせながら、恐ろしいことを平然と言っていた。
「その必要はないわ。もうすぐ警察も来るでしょうし。
ストーカー行為だけならアレだったけど……アイツは、立派な犯罪行為を犯してるわ。
しばらく、外には出られないでしょ。
……もし出られたとしても、遠い孤島の精神病院にでも送っておくわ……」
月乃はニヤリと笑う。
(怖いぞ。ひたすらに……)
「月乃……もしかして、怒ってるのか?」
「別に……今は、アイツの方が許せないから、ね……」
月乃は、殺気を帯びていた。しかしそれは、いつもの俺に向けるものとは違う。何か、鬼気迫るものを感じた。
(……月乃にも、心配かけてたんだな……
ていうか、今思えば恐ろしい組み合わせだ。“あの”月乃と黎が協力してる。
……最強タッグじゃねえか………)
「……おい、晴司」
ふと千春さんが俺を呼んだ。そして、険しい表情のまま、男の方を顎で示した。
その方向に目をやると、星美が、男の前に立っていた。
「―――!!!」
俺は焦って飛び出そうとした。しかし、なぜか千春さんが俺の腕を掴み、静止する。
「なんだよ千春さん!! 星美が――――!!!」
「―――いいから、黙って見てろ。いざとなれば黎もいる。大丈夫だ」
千春さんは、力強い視線を星美に向けたまま、俺に言った。
何を考えているのかは分からない。でも、その目には、信用するに足る根拠のようなものが見えた気がした。
だから、俺も…俺たちも、星美を見つめた。
「ああ……星美……」
男は、朦朧とする意識の中、星美を呼び掛けていた。……表情には、あの不気味な笑顔を浮かべ。
星美は俺たちに背を向けていた。だから、俺たちには星美がどんな顔をしているのかは分からなかった。
……しかし、背中を見る限り、星美は震えていなかった。
そして、風に乗って、星美が男に話しかける声が聞こえてきた。
「……私は、あなたを絶対に許しません。あなたは、私が最も大切に想っているものを傷付けようとしました。
私へのことも許せませんし、許したくありません。
……でも、それ以上に、先輩にしようとしたことは、その何倍も許せません!!!」
強い、口調だった。普段の星美では絶対に聞くことが出来ない。――そんな声だった。
しかし、次の言葉では、急にいつもの星美の声に戻っていた。
「……でも、あなたに一つだけお礼をいいたいです。
あなたのおかげで、私の先輩への気持ちが、想いが、もっと深くなりました。
私は、もう一切迷いません。――いつまでも、先輩を、先輩だけを見つめ続けます。
……ありがとうございました」
星美は、深々と頭を下げていた。
「……よせ……その顔は……止めてくれ!!!」
男は、急に取り乱し始めた。
「そんな顔は、僕ですら見たことがなかった!! そんな顔で、他の男を語るなんて……!!
………だって……星美は……星美は……!!」
「はい。……私は、あの人を心から愛してます」
「……うう……ああああああああ………」
男は、地に体を伏せたまま、大声を上げて泣き始めた。その声には、それまでの狂気は感じられない。
何かを理解し、何かを悟り、そのあまりの悲しみに、喪失感に耐え切れないように、男は、ただただ、号泣した。
その慟哭は、男の心が折れたことを意味しているように思えた。
「……終わったな」
千春さんは呟く。
「……ああ」
俺は、千春さんを見ることなく、星美を見つめながら返す。
星美は振り返り、俺のもとに駆け寄ってきた。
星美の背景には、朝陽が差し込んでいた。その暖かな光を受けた星美は、涙を浮かべ……でも、どこか清々しい表情で、俺の胸に飛び込んできた。
その男の狂気を破ったモノは、黎の蹴りでも、月乃の脅しでもなく、星美の、想いだった気がした。
遠くから鳴り響くパトカーのサイレンと、男の慟哭が、全ての終わりを告げているようだった。




