想イノ狂気
「はあ……はあ………ここか……」
俺は今、とあるマンションの前にいる。
しばらく激しい運動をしていなかったからか、息は切れ切れになり、全身を汗が流れている。足も疲れ今にも痙攣を起こしそうだ。
体は体温を上げ、まるでサウナスーツを着ているかのようだ。
「さすがに……遠かったな…………」
星美のマンションは学校近くの駅沿いにあった。もちろん深夜に電車なんて通ってるはずもなく、俺は実に駅二つ分を走って来た。
俺はまだ両手を膝についていた。しかし、ここで立ち止まってる場合じゃない。
一口だけ粘つく唾を飲み込み、マンションのエントランスホールに入った。
マンションはオートロックのマンションで、メインゲートもインターホンを押して相手に開けてもらうか暗証番号を打ち込まないと開かないようだった。
俺は星美の部屋番号を押した。
マイクの位置から呼び出す機械音が聞こえる。そして、何か回線を繋ぐような鈍くて短い音が聞こえた。
しかしマイクからは何も聞こえなかった。それでも俺はマイクに向かって叫んだ。
「星美!? 聞こえてるか!? 俺だ!!」
「…………先輩?」
ようやく星美のか細い声が聞こえた。
「ああそうだ! 開けてくれ!!」
「…………はい!」
ここに来て、ようやく星美の声が少し大きくなった。俺の声に少し安心したのかもしれない。
……しかし逆に、そこまで追い詰められていたってことだろう。俺はバテた体に鞭を打ち、星美の部屋へ向かった。
星美の部屋は6階にある。上へ向かうエレベーターがやけに遅く感じる。意味もなく6のボダンを押し続けていた。それで速度が速くなるとは思ってはいない。でも、何かをしていないと落ち着かない気分だった。
そして、エレベーターはようやく6階に着いた。
エレベーターの扉がまだ開ききる前に飛び出した。
そして、疲れを忘れ廊下を駆ける。星美の部屋の玄関がある廊下に飛び出した。
……ふと、廊下の奥の角に人影が消えるのが見えた気がした。
(こんな時間に人が?)
その人影がやけに気になったが、今は星美が先決だった。
俺はドアの呼び出しベルを鳴らした。
しばらくすると、中からドアの鍵が開く音が聞こえた。そして、扉はゆっくりと開き初めた――かと思うと、途中から急に勢いよく扉は解放された。
その瞬間、俺は中から腕を捕まれた。
その手は俺を一気に引き込む。そして玄関の中に俺の体が入ると腕を離した。その勢いで俺の体は前のめりに転がり、それと同時に勢いよく扉は閉められ、鍵をかける音が聞こえた。
俺は慌てて上体を起こし、薄暗い玄関扉の方を注視した。
……そこにいたのは、星美だった。
星美は静かに振り返り、俺の手を引いて立ち上がらせた。
「…………こっちに」
それだけ呟くと、星美は俺をダイニングキッチンに案内した。
部屋の中は綺麗だった。シャンデリアのような電灯、上品な木製のテーブル、大きなテレビ、そのテレビが置かれた台には、星美と両親らしき人が写る写真が立て掛けられていた。
しかし、その両親の姿がない。不在のようだった。
部屋の電気は消えていて、それに溶け込むかのように星美は暗かった。
「……星美、何があったんだ?」
背を向ける星美に声をかけた。
すると星美は小刻みに全身を震えさせた。
「…………先輩!!」
星美は、俺の胸に駆け込んできた。そして、声を上げて泣き出した。
星美は可愛らしい熊のキャラクターが描かれた、ピンクのパジャマを着ていた。
……でも、そんなパジャマとは到底不釣り合いなほど、髪を乱れさせ、涙と鼻水を気にすることなく流し、ただただ号泣し続けた。
星美の体は震え続けていた。いったいどれだけの恐怖を体験したのだろうか。星美は体を丸め、俺の胸の中ですら怯えているかのようだった。
俺は、そんな星美を抱き締め、乱れた髪を手でといた。
少し落ち着いたのを見計らって、俺は星美にもう一度何があったか聞こうと思った。
「なあ、星美―――――」
―――その時、突然家の電話が鳴り響いた。
プルルル……プルルル……
星美は体を一瞬激しく震えさせ、硬直している。
時間は深夜。どう考えても異常だ。無機質な電話音は、その異常さを際立たせるように鳴り続ける。
プルルル……プルルル……
星美はさっきから全身を震えさせている。その表情は絶望そのものだ。目を大きく見開いている。そして極限の恐怖からか、無表情で涙を流し続けている。
プルルル……プルルル……
なおも電話は鳴り続ける。深夜の部屋に、その音はやけに響き渡る。
……俺は意を決し、電話に出るべく受話器に手を伸ばした。
しかし、星美は俺の服を引っ張った。星美を見ると、必死に首を横に振り、声無き声で何かを叫んでいた。
俺は微笑んで、もう一度星美の頭を撫でた。
……もちろん実際は微笑む心境じゃなかった。でも、そうでもしないと星美は手を離さないだろうし、そんな星美を少しでも安心させたかった。
星美の手はゆっくりと力を抜き、それを確認した後、俺はもう一度受話器に手を伸ばした。
そして、ワイヤレスタイプの受話器を手に取り、耳に当てた。
――すると、俺が声を出そうとしたら、電話の相手が間髪入れずに喋りだした。
『………今の男は、誰かな?』
「――――!!!」
『酷いじゃないか、他の男を入れるなんてさ………星美には、僕がいるのに…………』
全身の毛が逆立つ。心臓が激しく音を鳴らす。あれだけ流れていた全身の汗が止まり、それまでとは違う汗が額を流れる。
(こ、コイツは、いったい誰なんだ……!?)
声の感じでは同い年くらいの男か……でも、この声はなんだ!?
小さく優しそうに話す声……でもこれには何かが足りない!
明らかに、心みたいなヤツが込められていない!
男は、まるで機械のように、予め録音してた声を流すかのように、淡々と低いトーンのまま続ける。
『ねえ星美? いるんだろ?
開けてくれよ……僕も、中に入れてくれよ』
声とともに、部屋中に何かを叩く音が聞こえてきた。
トントン…………トントン…………
俺はその方向に目を向ける。
そこは―――玄関だった。
トントン…………トントン…………
いつの間にか俺は、受話器を耳に当てることを忘れ、何かを永遠と語る相手を放置し、呆然と玄関を見ていた。
星美は目を閉じ、耳を抑えて震えている。
トントン…………トントン……
音は響き続けた。
俺は、息を飲み、玄関に向かい歩き始める。
玄関が歪んで見える。暗い部屋は恐怖を煽る。
俺は音を立てることなく、玄関の覗き穴から廊下の様子を見る……
―――そこに立っていたのは、ケータイを片手に虚ろな目のまま玄関を見つめる、見たこともない男だった。
「…………!!」
俺は叫びそうになる口を必死に押さえる。心臓が飛び出しそうだ。
星美のこの怯えようは、この男が原因だと理解した。
男は、なおも何かを言っていた。顔は無表情のまま。体を僅かにも動かさず。男は、ひたすらに何かを語る。
………ふと、俺は受話器を持っていることを思い出した。
ゆっくりと受話器を耳の位置まで上げる。
そして、耳に当てた時、男の声と姿が重なった――――
『……開けないと……殺しちゃうよ?』
「!!!!!!!!!!」
足が無意識に玄関から遠ざかる。その表紙に足が縺れ、俺の体が床に落ちる。体が震える。歯がガチガチ言ってる。かいたこともないような汗が全身を流れる。
星美は再び俺にしがみ付いている。その巨大な恐怖を全身で表すかのように、ひたすらに身を小さくし震えている。
トントン…………トントン…………
今、俺たちは何かに包まれ、支配されている。それは、純粋な負のものだ。
―――想いの狂気と呼べるモノが、部屋に充満していた。




