二人の物語
俺たちは駅のホームにいた。
座っていたベンチの前を通る人々は、皆一様に前に進んでいた。立ち止まり、ベンチに重く座りかけるのは、俺と空音だけだった。
人が混雑していたホームも、電車が何本か過ぎると、元のガランとした寂しいものへと変わる。――そして再び人が集まったかと思えば、電車が過ぎると、やはりそこには俺達しか残らなかった。
俺はそんな光景を何も考えずに見ていた。ベンチの背もたれにもたれ、両手を力なく下にぶら下げたままの格好で、行き交う人々をただ見つめていた。
空音は縮こまったように俺の隣でちょこんと座っていた。顔をずっと伏せたまま、手を軽く握り締めながら。
俺と空音が座る位置には少し距離があった。昼ご飯の時のように隣どおしに座っていたが、昼ご飯の時と比べ若干離れていた。
その距離は、傍から見ると同じように思えるかもしれない。――でも、俺には、俺たちには、遥か遠くのように思える距離だった。
ホームに集まる人がほとんどなくなった頃、空音は、その重い口を開いた。
「……本当は、分かってたんだ。昨日電話があった時から………
だって、普段の楠原くんは、私を遊びなんかに誘わないもん」
空音は、微笑みながら言っていた。でも、その笑顔には何かが決定的に欠けているような気がした。心のような――目に見えないが間違いなく存在する何かが、その笑顔には込められていなかった。
「私ね、実は結構前から諦めてたんだ。だって、楠原くんの周りには、あんなに魅力的な子が多いんだもん。
陽子ちゃんに星美ちゃん、月乃ちゃん……あんなに素敵な子ばっかりなのに、私なんかじゃ相手にならないって思ったんだ。
……でも、黎ちゃんがあの日に言ったあの言葉は、そんな私の心に突き刺さった。あんなに真っ直ぐに、ひたすらに自分の気持ちを表現出来ることに嫉妬したし――同時に、すごく羨ましかった」
「空音の気持ちなら、空音自身から聞いたよ。それと同じだろ?」
俺の言葉を受けた空音は、少しはにかんで、小さく首を横に振った。
「私は、黎ちゃんみたいには出来なかったよ。私が楠原くんに気持ちを伝えたのだって、月乃ちゃんが後押ししてくれたからだよ。
……私一人なら、絶対無理だった」
空音は涙を少しだけ浮かべ、真っ直ぐな目で俺の顔を見てきた。そこには、何かを決意したかのような強い意思と、何かが壊れそうな儚い想いが入り交じっているように映った。
「私ね、気持ちで負けちゃってたんだよ。月乃ちゃんに。星美ちゃんに。陽子ちゃんに。黎ちゃんに。
みんなを見てたら、それが嫌ってほどわかった。
みんなには楠原くんしか見えてない。――だけど、私は楠原くんだけを見れなかったんだ。
……それが……そのことが………
……たまらないくらい……悔しい………」
空音は、それまで必死に耐えていた涙を一斉に流していた。
表情は色のない微笑みを浮かべ、涙は想いの全てを込めるかのように流れていた。笑顔と涙――相反するはずの両方の表情が入り混じり、空音は俺を見続けた。
……俺はそれを、ただ黙って見続けた。
空音は涙を人には見せたがらない奴だ。映画館の時でも、すすり泣く声を出しながらも、必死に表情を隠していた。
……そんな空音が、今は俺に涙を見せていた。隠すことなく、抑えることなく――ただただ流していた。
この前空音を遊びに誘ったとき、こうなることを予想していた。入り方は少し違っていたが、結果として俺は空音を泣かせてしまった。
則之から言われた言葉は、今の俺には空しい幻想にしか感じない。俺には、この涙を止めることは出来ない。――今、それを止めることが出来るのは……
俺は静かにベンチを離れた。
空音はそれ見て俯いて、それまで浮かべていた表情を変えた。
空音から死角になる位置まで移動した俺の耳には、深い悲しみと全てを諦めた喪失感が読み取れる、空音の泣き声が聞こえていた。
その声は決して大きくはなく、むしろ小さい声だった。――でも、俺の心には、やけに大きく響き渡っていた。
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少し間を置いてベンチに戻った。
その時には、空音の口からは泣き声は聞こえなかった。でも、熱を帯びた涙は頬を伝っていて、顔は火照っているようだった。
空音は、懸命に俺に想いを伝えた。今まで心の奥底に沈めていた想いを、勇気を振り絞り、口に出して伝えた。
……俺も、そんな空音に答えなきゃいけない。――たとえ恨まれても、さらに深い悲しみを与えるとしても、それはしなくちゃいけない。
それが、それだけが、今の俺に出来ることだと思った。
「……空音、少し、話をしていいか?」
空音は返事をしない。俯き、指すらも動かさなかった。
……それでも、俺はしゃべり始めた。
「……俺さ、実はこの前、則之と夜に会ったんだよ。そこで、則之から言われたんだ。
“空音の笑顔を守れるのは、晴司だけだ”
ってな」
空音の手が、かすかに動いた気がした。
「だから俺はお前を誘ったんだよ。確かめるために。
……そして、分かったんだよ。則之が言っていた、“空音の笑顔”ってやつが。
――いや、マジで可愛かった。その笑顔は、月乃にも、黎にも、星美にも、陽子先輩にも、誰にもない――空音だけの、笑顔だったんだよ」
「……私……だけの……」
空音は俯いたまま、静かに小さく声を漏らした。
「ああ。お前だけの笑顔だ。則之が好きな、俺が初めて知った、お前だけの――お前にしかない笑顔だ。
それを見て、すぐに気付いたよ。則之は、この笑顔の空音を好きになったんだってな。
……だからこそ、その笑顔を絶やさないために、アイツは自分の感情を――気持ちを抑えて、お前と俺のためにいろいろしてたんだってな」
俺は、静かに呼吸を整えた。そして、夜に変わった空を見つめながら、空音に伝えた。
「今日、一日お前と過ごして、本当に楽しかった。これは、嘘なんかじゃない。
……俺は、お前が好きだって改めてわかった」
「………え?」
空音は、涙を浮かべた表情のまま、顔を上げて俺の目を見ていた。
……俺は、心の中で、もう一度勇気を出して覚悟を決めた。
「本当だ。俺はお前が好きだ。
……でも、“俺の好き”ってのは、“空音が望む好き”とは違う――全然違うんだよ。
俺は、どうしてもお前を“友達”ってジャンルから切り離すことは出来ない。
……俺の中では、やっぱりお前は“友達”なんだ」
俺の言葉で、空音の目からはさらに涙が流れた。止めどなく、限りなく大粒の涙が、空音の頬を流れ続けた。
そんな空音の表情は、俺の心を締め付けた。砕けそうなほどに。――だけど、俺はここで立ち止まるわけにはいかなかった。
……答えは、すぐ傍まで来ていた。
「則之は、俺にしか空音の笑顔を作ることができないって言ってた。でも、本当にそうなのかな……
――そうだとしたら、なんで則之はそんな空音の笑顔を知ってるんだ?」
その瞬間、空音の虚ろに揺れていた瞳は、大きく見開いた。まるで、何か重要なことを思い出したかのように。
「今日で、空音の笑顔は、本当に幸せな時に見れるものだってのがわかった。――幸せの形だって分かった。
でもそれは、何も俺一人だけが生み出せるものなんかじゃないんだよ。
……それは空音だって本当は気付いていたはずだ。幸せの形を生み出せる奴が、もう一人いることを、な」
その言葉のあと、ホームにはアナウンスが流れ、一本の電車がホームに走りこんできて、細く高い音を出しながら止まった。
そして、鈍い音と共に開かれた扉からは、一つの姿が飛び出してきた。
「晴司!!! 空音はどうなったんだよ!!!!」
「……よう、則之。ちょうどいいタイミングだ」
飛び出してきた則之は、俺と空音の姿を見て固まってしまった。
「……へ? ……空音?」
「……則之?」
顔中から汗を流す則之と、瞳から涙を流す空音は、見つめ合ったまま動かなかった。
俺はベンチを離れた間に、則之に電話していた。電話口で、俺は焦った声を出しながら、則之に言った。
“空音が倒れて病院に搬送された。病院まで案内するから急いで学校近くの駅まで来い”
……と。
則之が乗ってきた電車は走り去り、代わりに反対側の線路に、俺たちの地元に向かう電車が走りこんできた。
俺は背中越しにいる空音に向かって、電車の音にかき消されないように、全力で叫んだ。
「空音! 自分に気付け! 自分の心に正直になれ!!
お前には、こんなにも一心にお前を想い続ける、最高の男がいるんだ!!!
コイツのことは、親友の俺が保障する!! コイツなら、あの笑顔を生み出し続けることが出来る!!!
お前だって、本当はそれをわかってるはずだろ!!!」
則之は、俺の顔と空音の顔を交互に何度も見ていた。今の状況が理解しきれないようだった。
――そんな則之の肩をポンと叩いた。
「わりい、則之。やっぱ、俺には荷が重すぎたみたいだ。
……あとは、お前の役目だ。――頼んだぜ、“親友”……」
「晴司………」
俺は体を返し、二人の顔を見ることなく停車していた電車に乗り込んだ。電車のドアは閉まり、ゆっくりと動き出した。
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一定の間隔で音を鳴らし、少し上下に揺れる電車。
その窓から見た最後の景色には―――
あのベンチに座り込む空音と、そんな空音を抱きしめる則之の姿が映っていた。
これからの空音と則之の物語は、あの二人が主人公なんだ。
――そこに、俺の椅子はない。
俺は、二人の未来に幸福が訪れるよう心から願いつつ、スピードを上げ、暗闇を走り抜ける電車の窓から、澄み渡った夜空を眺めていた。




