朧気な星空
「こうして帰るのも久しぶりだね」
「そうですね……」
帰り道にバッタリ出くわした俺と陽子先輩は、二人でとぼとぼ歩いていた。
あの時と同じ様に……とはいかないが。
あの頃の俺だと、たぶん落ち着いて歩くことは出来なかっただろう。でも、今は何か違う感情が芽生えている。胸は高鳴っているが、何かが違う。例えるなら、昔のアルバムを捲るような、何かを思い出して思い出し笑いをするような……そんな、複雑で暖かい感情だ。
ふと気が付くと、陽子先輩が歩きながら俺の顔を覗いていた。その表情は、何かを訴えかけるようだった。
「な、なんですか?」
「……なんかさ、後輩くん、雰囲気変わったよね?」
「そうですか?」
「そうだよ。前の後輩くんはね、なんか頼りなくて、捨てられそうな仔犬みたいだったし……」
(……何気に酷くねえ?)
「でも! 今の後輩くんは全然違う! 男の子って感じかな! うん、カッコいいよ!」
先輩は俺の背中をバシバシ叩きながら話した。
(……カッコいい、か……)
「そんなこと、ないですよ」
「……後輩くん?」
「今、頭ん中ぐちゃぐちゃなんですよ。どうすればいいかなんて分からないですし、自分がどうしたいのかも分からない。
……ちゃんとしなきゃって思う。こんな俺の言葉を待ってる人がいる。だから、ぐちゃぐちゃでも進まなきゃいけないんです。でも、どう進んでいいのかさえもわからないんです。
こんな俺は、カッコよくなんかないんです」
「…………」
陽子先輩は俺の顔をしばらく覗いていた。そして、唐突に提案をしてきた。
「ねえ後輩くん。今から、星を見に行かない?」
「今からですか?」
「そうそう」
「でも、星を見るにしても、まだ時間がかかりますよ? 帰りだって遅くなるし…………」
「大丈夫大丈夫! さ、行こ行こ!」
「あ、ちょっと!」
先輩は、腕を強引に引っ張りながら歩き出した。俺は流されるままに、先輩と高台を目指して歩いた。
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高台までは割と距離があった。
歩く途中の景色は、日中から夜間に切り替わる様子を描いていた。太陽はゆっくりと沈み、空はだんだんと暗くなり、代わりに、月が仄かに光始めていた。街は、沈み行く黄昏の光を受けながら、一つ、また一つと灯りを点し始めていた。
高台に着くと、かなり夜に近づいていた。
「もうすぐかな……今日は晴れているから、星がよく見えると思うよ」
「ここまで来て星が見えなかったら、やるせないですよ」
「確かにね」
先輩は笑っていた。でも、その笑顔には、何か違和感があった。
「……先輩、何か話があるんじゃないんですか?」
「……どうしてそう思うの?」
「ただの感、ですよ」
そう言うと、先輩は頭をかきながら困った表情をした。
「……敵わないなあ。まあ、大した話じゃないんだけどね」
「どうしたんですか?」
先輩の笑顔は消えていた。まるで、夜になるために沈んだ太陽のように。
「もしかして、だけど、空音と何かなかった?」
「……ありましたよ」
「そっか……あ、どんな話かは聞かないから。だいたい予想ついてるし…………」
先輩は、高台から遥か遠くを見据えていた。
「いつかはこうなることは分かってたんだ。空音って、優しくて不気味だけど、一度決めたら意外と頑固だし。
あの子は、色々余計なことを考えちゃうんだよね。相手のこととか、私のこととか……
もっと素直になればいいのに、それが出来なかったんだ……」
「なんとなく……わかります」
「……でも、それは私も同じなんだ……」
「先輩も?」
「私もね、色々考えちゃうんだ。空音のこととか、色々。
……ごめん、違うな。私は、空音のせいにしてたんだ。何もかもを空音のせいにして、私自身の気持ちを出すことから逃げてただけなんだ。
きっと、甘えてたんだと思う」
「甘えることは、いけないことなんですか?」
「違うよ……私が言ってる“甘え”は、後輩くんが言ってる“甘え”と違うんだよ。
言い方を変えようか。私はね、空音を利用してたんだ。あの時もね………」
「あの時?」
「後輩くんから告白された時だよ。本当はね、後輩くんのこと、好きだったんだ」
「…………」
「でも、空音が後輩くんのことを好きなことも知ってた。だから、私はそれを受け入れなかった。
……空音から、恨まれることが怖かっただけなんだ」
「………」
先輩は悲しげな瞳を、ひたすらに空に向けていた。あの時、あの場所で見た、辛そうな表情によく似ていた。
(……あの時に、先輩は同じことを考えていたのだろうか)
「……ねえ、後輩くん。もし、もし君が、あの時と同じ気持ちを今でも持っているなら……もう一度、あの言葉を聞かせて?」
「え?」
「今なら私は答えれる。私は、今なら自分に素直になれる。一度諦めた気持ちも、今なら……だから、言って?」
「いや……俺は……」
「………」
先輩は俺のことを見つめていた。その目には、あの時と違う何かが宿っていた。祈るような、期待するような……
その顔は、今まで見てきた先輩のどんな顔よりも真剣だった。でも、どんな顔よりも、儚い顔をしていた。
……俺は何も言えなかった。言葉に出来なかった。頭に浮かんでいる言葉を、口に出すことが出来ず、俺を見つめる先輩の顔から、目を背けた。
「……やっぱり、手遅れだよね。いつだってそうだもん。
気付いたときには、全てが後手に回ってしまってる。気付いたときには、私の手から、大切な何かがこぼれ落ちてしまってるんだよね………」
先輩の目には、涙が浮かんでいた。
「先輩! 俺、感謝してます! 先輩のこと、好きだったんだことに、後悔なんかありません!
太陽のように暖かくて、太陽のように輝いて!
そんな先輩を好きだった自分が、今なら好きだって言えます!
先輩! ……俺は……俺は……!!」
「……もういいんだよ。ありがとう、後輩くん………
……でも、少しだけ……少しだけ、胸を貸してくれないかな………」
先輩は俺の胸に顔を沈めた。そして、その目からは、涙が流れていた。
そんな先輩と俺の頭上には、満面の星空が輝いていた。あの日、あの場所と同じ。満面の星空の下、先輩と二人きり。
……でも、聞こえるのは先輩の泣き声だけだった。
空も、あの日見た星空とよく似ていた。……だけど、どこか朧気に揺れていた。