夕陽が夜空に変わるとき
放課後、俺はすっかり通いなれた道を歩いて駅まで向かっていた。
ハラコーがある街は都会と田舎の中間ってところだと思う。ショッピングモールや映画館があるところもあれば、ひっそりとした住宅街や懐かしい雰囲気がある商店街も並んでいる。
帰り道の途中で通る商店街は、時代を感じさせるレトロな落ち着いた建物が並んでいた。夕暮れのオレンジ色の光を浴びる商店街は少し寂しくも、俺は好きだった。
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駅が近くなり、もうすぐ商店街を抜けるところというところで、ふと子供の泣き声が耳に入った。声の感じから幼稚園くらいだろうか。俺は無性にその声が気になり、自然とその声の方向に足を進めた。
俺は決して聖者とかではないが……なんだろうな、子供の泣き声ってのには、人に眠る良心ってやつを揺さぶり起こす力みたいなものがあるのかもしれない。
その泣き声を辿っていくと、そこは商店街から少し離れたところにある小さな公園から聞こえいた。その公園には遊具がブランコ、砂場、滑り台しかなくて、実に殺風景だった。
そんな公園の真ん中には、泣いている男の子がいた。そして、その男の子の横には先客がいて、しゃがみ込み、何やら話しかけていた。TシャツにGパンという実にシンプルな服装で、帽子を被っていたが、女であることはわかった。
二人のところに近づくと、女が男の子に話しかける声が聞こえてきた。
「お母さんはいないの?」
「うん………お母さん、どっかに行っちゃった………」
「そっか………お家はわかる?」
「わからない。引っ越したばかりだから………」
いつまでも泣き続ける男の子に、女は困ったように帽子の上から頭をかいていた。それでも女は語り掛けることを止めなかった。
「――きみは、お姉さんと同じだね。お姉さんも引っ越したばかりでね。私も、一人ぼっちなんだ………」
「お姉ちゃんも迷子なの?」
男の子は涙を抑えていた両手を下げ、女を覗き込んだ。
「そうだね……そうかもね………」
女は寂しそうに呟いた。その声は、まるで男の子と同じ、本当の迷子のようだった。
女はそんな自分を払いのけるかのように、わざとらしく両手を胸の前に持っていき、元気なポーズを取って男の子に話した。
「でも、お姉さんは大丈夫だよ! キミも一緒だから怖くないよ!!」
女は優しい口調で話した。男の子はその女の仕草や声を見て、少し安心したのか、ようやく顔を上げ微笑んでいた。
俺はタイミングを見計らい、二人に話しかけた。
「迷子なのか?」
女は驚いた顔をして、俺の方を見た。そしてすぐさま立ち上がり、後退りを始めていた。
「いやいや待て待て。俺は決して怪しいやつなんかじゃないぞ」
「………怪しいやつは、みんなそう言うのよ………」
(………凄まじく警戒されている。そんなに俺は怪しく見えるのか? ちょっとショックだな……)
俺はとりあえず、それは放置することにした。
「………別に怪しい奴でいいよ。で? その子は迷子なのか?」
「………そうみたい」
女は依然として警戒しながら話した。
「家もわからないんだろ? まいったな………」
「そうね………」
女は腕を組み、茫然と男の子を見ていた。
「なんとかしてあげたいんだけどな………
――私は、何も出来ないのかな………」
女は寂しい声で話した。まるで、自分の非力さに打ちのめされたかのように、今にも泣きそうに佇んでいた。
俺はその女の姿を見て、この子はなんとしても家に帰してやろうって思った。
何か特別な感情があった訳じゃない。何か出来ることがあることを証明したかった。何かを想う気持ちが無駄になることが許せなく感じた。この女は少なくとも男の子を助けようとしている。だったら、それを全力でフォローしたかった。
それはすでにその女のためじゃなかったのかもしれない。もしかしたら、想いながらも届かなかった過去の自分をその女に重ねたのかもしれない。俺は、その見ず知らずの女に協力した。
その後、二人で知恵を絞り、どうするか考えた。ああでもない、こうでもないと話し合った。そして、俺は閃いた。
「あ、そうだ! ――ねえ、キミはもしかして、美原幼稚園かな?」
「うん………」
(よっしゃビンゴ! こっからすぐ近くだ!)
「よし! 今から行こうか!」
「なんで幼稚園なのよ」
「ま、行けばわかるさ」
俺たちは歩いて美原幼稚園に向かった。
幼稚園に着くと、園内の事務室はまだ灯りが点いていて、幸いなことに幼稚園にはまだ先生が残っていた。その先生に男の子のことを説明すると、先生はすぐに男の子の家に連絡した。
それから少し待つと、母親が走って幼稚園に来た。母親と男の子は二人で泣きあい、俺たちは何度も何度もお礼を言われた。その後先生にもお礼を言われた俺たちは、幼稚園を後にした。
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帰り道、俺とその女は帰る方向が一緒なのか、同じ道を歩いていた。時刻は間もなく夜へと時間帯が移動するころだった。
自分の行動で人からお礼を言われるのは、なんかこそばゆいところがあるが、気分はいいもんだ。
でも、その女は帰り道では塞ぎ込み、何も喋らなかった。ひたすらに、下を向いて歩いていた。この女は、何にこんなに追い詰められているのだろうか。俺には、それが分からなかった。分かるはずがなかった。何しろその女とは今日初めて会ったわけで、俺はその女のことを何も知らない。
……それでも、そんな姿を見かねた俺は、声をかけてみた。
「何落ち込んでるんだよ」
「……べつに。アンタには関係ないでしょ」
その女は、俯いたまま毒を吐いた。でも、俺にはそれがただの強がりのように思えた。そして、何が原因で女がこうなったのか、俺にはそれに見当がついていた。
「――さっきさ、お前言ってたよな。自分には何も出来ないって」
女は立ち止まり、こっちを見てきた。
「……だから何よ。事実でしょ? あの子が親と再会できたのも、実際にアンタのおかげなんだし。
私は慌てるだけで、何もできなかったのよ……」
女は、とても辛そうな顔で言っていた。その表情はどこか虚ろで、どこか寂しく、放っておいたらどこかへ消えてしまいそうな……そんな雰囲気だった。
「……でも、お前があの子に話しかけたのは、何とかしてあげたいって気持ちからだったんだろ? だから、もっと胸を張っていいんだよ」
「…………」
女は黙っていた。それが気持ちが楽になったからなのか、癪に触ったのかは分からない。それでも、俺はどうしても言いたかった。
「お前がいたからあの子は笑顔になれたんだ。お前がいたからあの子は途中で怖くなくなったんだ。
お前のその気持ちは、少なくとも俺には伝わってた。だから俺はあの子を助けよう、お前を助けようって思ったんだ。
お前は何も出来なかったわけじゃない。お前の気持ちは、あの子と俺の心に届いたんだよ。
その気持ちは、きっと、誇れるものだ」
「…………」
その女は、また俯いてしまった。夕焼けのせいか、少し顔が赤くなっている気がした。
それでも、女は頬を緩ませていた。俺の言葉は、その女の気持ちを楽に出来たのかもしれない……そう思うと、俺の口からは自然と安堵のため息が零れていた。
「……アンタ、それ自分で言ってて恥ずかしくない?」
(うぐ………それは言うな………)
おそらく俺もまた顔が赤くなっていたのだろう。女は俺の顔を見てクスリと笑った。
「あのさ、一応助けてもらったし………お礼を兼ねて、特別に私の名前を教えてあげる」
「………は? なんで名前を教えることがお礼になるんだ? それに、俺は別に、お礼もお前の名前もどうでもいいんだが………」
「私が名乗ってあげるんだから、つべこべ言わずアンタは黙って聞いてなさい」
女は俺を睨み付けた。目が据わっているように見える。非常に怖い。
(……ていうか、そうまでして言うものか?)
そう思っていると、女は帽子を外した。
「私の名前は月乃。柊月乃よ」
その時、俺の中の時間が止まった。空気は固まり、全てが色褪せたかのように色彩を忘れて見えた。
目の前に、超絶美人が現れた。長い黒髪が風でなびき、キラキラ輝いて見える。整った顔立ちは、清らかな雰囲気と大人びた風貌を帯びていた。そしてその大きくて黒い瞳は潤んだように揺れていた。
黄昏と夜が入り混じった空の下で、俺に微笑みながら立つ柊月乃の姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
……俺は、しばらく見惚れることしか出来なかった。
「ねえ? ちょっと?」
「え? 何?」
柊月乃の声で、俺はようやく思考の迷路から解放された。
「………私の名前を言ったんだから、アンタも名前を言いなさいよ」
月乃が一瞬、寂しそうな表情をうかべた気がした。
「あ、ああ。俺は晴司。楠原晴司だ」
「……そっか、晴司っていうのか……」
月乃は今度は嬉しそうな表情を見せた。
(……よくわからん女だ)
「なら晴司」
(さっそく呼び捨てかよ)
「私はこれで帰るから」
月乃は、どこか引き留めてほしいかのように、敢えて帰宅を宣言したかのように見えた。しかし、そんなわけもないと自分に言い聞かせ、俺もまた、言葉を返すしかなかった。
「ああ。気を付けて帰れよ」
月乃は再び歩き始めた。その方向に家があるのだろうか。
(……その方向、俺も同じなんだが……)
仕方なく、俺は月乃の少し離れた後ろを歩き始めた。
間もなく本格的な夜になろうかとする時間、俺と月乃は少し離れた距離を保ったまま歩いていた。もちろん、月乃も俺が後ろから歩いていることには気付いているはずだ。一度別れを告げて、また同じ道を歩くのは、少し照れくさい気分になる。
駅までもう少しのところで、月乃は足を止めた。そして俺の方を振り返り、詰め寄ってきた。
「……なんでついてくるの?」
「………俺もこっちの方向なんだよ」
「ふーん………」
月乃は、何かを悟ったような表情で俺を見ていた。
(……なんだよ。何が言いたいんだよ)
「………晴司さ、もしかして………」
「………何だよ」
「もしかして――私にホレちゃった?」
俺は、言葉を失った。
「は?」
「そうよねえ。だって私美人だし、普通男がほっとくわけないもんねえ」
(美人なのは認めるが、凄まじくタカビーで自意識過剰だな……)
「……でもまあ、今日は助けてくれたしね……」
月乃は何かを考えていた。俺は唖然としていた。何をコイツは一人で突っ走ってるのだろうか………
「いいわ。特別に、私の連絡先を交換してあげる。光栄に思いなさい」
「……は?」
そういって、月乃はケータイを取り出した。そして両手で必死に何かを操作し始めた。
(なんだろうか、この置いてきぼり感は……)
「晴司もさっさとケータイ出しなさいよ。で? 晴司の番号は?」
「……なんで俺が見ず知らない奴に連絡先を教えないといけないんだ?」
「はあ? 私が教えてあげるって言ってんのよ?」
「んなもん知るかよ!」
(コイツの連絡先はあれか? すさまじく価値が高いものなのか? 強制イベントなのか?
別にどっちでもいいが、ここまで高圧的に言われると、逆に教えたくなくなる。なんとなく、男の意地として……)
「俺は、お前の連絡先なんて興味ねえよ」
「きょ、興味ないって…………」
月乃は愕然としていた。ケータイを持つ手が僅かに震えている気がした。
(ザマミロ。男が誰でもヒョイヒョイ教えると思うなよ)
「――ったく。じゃあな。俺、帰るわ」
「あ………ちょ、ちょっと!」
月乃が何か言ってる。俺は聴こえないふりをして、駅までダッシュした。
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家に帰り、ベッドに横になりながら、俺は今日の出来事を思い出していた。
(超絶美人、超絶タカビー、超絶自意識過剰、超絶勘違い女……)
「………変な女」
月乃を思い返した俺の口からは、そんな言葉が零れた。それでも、月乃が最初に帽子をとった姿は、俺の脳裏に鮮明に焼き付いていた。
(でも、月乃が時折見せた、あの消えそうな表情はなんだったのだろうか………)
それがやけに気になった。もっとも、今更気になったところで二度と会うこともあるまい。
「………考えてもしょうがないか」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、電気を消して、静かに目を瞑った。