月が優しく光る夜
月乃は、呆れ顔で俺の方に歩いてきた。
「……まったくだ。情けなさ過ぎるな……」
俺は制服の袖で、涙を隠すように顔を大雑把に拭いた。
「でも、逆にスッキリしたよ」
「そう………」
月乃は、俺の向かいにあるブランコの柵に座った。
月乃は俺と目を合わせようとしなかった。
「……見ていたのか?」
「ええ。たまたま通りかかってね。盗み聞ぎするつもりはなかったんだけど、佐々木さんがアンタに好意を抱いた経緯あたりから、ね……」
「そうか………」
月乃は、今まで見たこともないような……そう、辛そうな表情をしていた。
「……なんで断ったの?」
「え?」
「佐々木さんよ。アンタみたいな男に、あんな可愛らしくて素敵な子が、本当にアンタのことを思って告白したのに……なんでそれを断わったわけ?」
「見ていたらわかるだろ………」
「…………」
「俺さ、改めて返事を聞かれたとき、いろんなことを考えたんだよ。
その中に、陽子先輩と……あと、お前もいたんだよ」
「私が?」
「なんでだろうな。だけど、二人の顔を思い出したら、無性に自分が情けなく思えてきてな……
――何やってるんだろ俺って思ったんだよ」
「…………」
月乃は、黙って俺の話を聞き続けた。
「俺はどっかで、自分を特別だと思っていたのかもしれない。何かの物語の主人公を気取って、自分を演じ続けていたのかもしれない。
……でも、違った。本当は“ただの人”ってことを知っていたんだ。それを、改めて思い知らされた気分だったよ。
そんな俺は、星美には……いや、星美だけじゃない。陽子先輩にも、月乃にも、俺はふさわしくないんだよ」
「………」
「俺は、最後まで情けない人間だ。人からきっかけをもらうまで、自分には何もないってのに気付くことも出来なかった。
お前に、散々本当の自分をさらけ出すように言っておきながら、さらけ出していなかったのは、俺も同じだったんだよ……」
止まらなかった。自分の告白を誰かに聞いてほしかった。
月乃は何も話さない。俺は、そんな月乃に全てをぶつけていた。
「恋愛を捨てた? 恋愛をしたくないだけ? ――詭弁だ! 言い訳だ!
……俺は、逃げていただけなんだ。自分の気持ちに答えてくれない怖さからも、自分が傷付くことからも。いくら逃げても、逃げきれないことに気付いていたことからも………
部活をしなかったのもそうだ。
青春に興味がないなって言って、本当は、いくら努力をしても、それが実らないことから逃げていたんだよ。
逃げて逃げて、自分の足で歩き出そうともせず、今の現実を受け入れることもなく、自分の人生を、まるで傍観者のように、まるで他人事のように生きてきただけなんだ。
……俺は、そう気付いたんだ」
「……今日はずいぶんとネガティブね。柄じゃないわよ?」
「そうかもな。……そういえば、お前俺と付き合ってるのが嘘だってバラしたんだよな」
「ええ。でも、別にたいした理由はないわ。
あのまま、私が彼氏をとられたって思われるのが癪だっただけよ」
「そうか……それで、あの先輩に呼び出されてたのか………
すごく、楽しそうだったな………」
「ッ―――!!! あれは違う!!!」
月乃は、初めて俺の顔を見た。その顔には、それまでとは違う、焦りのような表情があった。
でも、それが何なのかは考えなかった。理解しようとしなかった。
……俺には、もうどうでもいいことだった。
「いやいいんだ。あれでいいんだよ……あの人なら、お前にも釣り合うだろ……
あんだけイケメンなんだ。きっと、お前が笑われることはない」
「………」
月乃は、俯いていた。よく見ると、拳を震えるほど握りこんでいた。
それが意味することは分からなかった。それでも、俺は言い続けた。言い続けたかった。
それは、一つの懺悔だったと思う。何も言ってくれなくてもいい。ただ、俺は全てを吐き出したかった。一人で抱えることが辛かった。同情してほしかった。
それは酷く惨めなことだと思う。それでも、俺は吐き出し続けた。
「俺は、やっぱり星美が言うような立派な人間じゃない。
俺は、星美とも、陽子先輩とも……月乃ともつり合いがとれない、とれるはずがない男なんだよ……
考えてもみろ。俺に何がある?
勉強ができるわけでもない! 運動神経が高いわけでもない! 何か才能があるわけでもない!
――俺は、その他大勢の……そのほんの一部なんだよ……」
「……もう、止めなさい」
「でも月乃。お前は違う。お前は、どこまでも高いところに行けるんだ。
成績もいい、運動神経もいい、容姿もいい。周囲に期待されて、一目置かれて、その期待に応えるだけの何かを持っている!
そんな人間が……俺みたいな凡人にかまってちゃダメなんだよ! お前は、お前には、どこまでも上を目指してほしいんだ!! ――いや、上を目指すべきなんだよ!! 俺みたいな凡人の分まで!!!」
「……もう一度言うわ……止めなさい」
「俺は、いい笑い者だっただろうな。全て完璧な柊月乃に、俺なんかがくっついて……
……俺はそんな周りの目にも、思いにも気付きもせず、気付こうともせず……いい気になってお前の後ろ姿を追って……
きっと俺はお前に自分を映してたんだよ。お前の活躍に、自分の影を映してたんだ。まるでお前になったつもりになってたんだよ。
等身大のこともしないで! 身分不相応にお前に振舞って!! まるで対等であるかのように勘違いして!!!
俺は……お前の………!!!
……お前の……お遊びの彼氏にすら、ふさわしくない人間なのに!!!!」
「ッ―――――!!!!!」
月乃はその言葉を聞いた瞬間立ち上がり、俺の傍まで駆け寄ってきた。そして俺の胸ぐらを力の限り掴んで、座る俺の体を無理矢理立たせるように引っ張り上げた。
「―――いい加減にしてよ!!!」
「つ、月乃………」
「ええそうよ!! アンタがそんなことしか考えない――そんなつまらない人間だって知っていたら、アンタなんか相手にしなかった!!
アンタは! 私に本当の自分でいていいって言ってくれた!!
――なのに、なのになんでアンタは、本当の自分でいようとしないの!!?
つり合い!? ふさわしくない!? 誰がそんなこと決めたの!? アンタでしょ!?
私は!! そんなこと思ってない!! ――思ったこともない!!
アンタの自分勝手な考えを私に押し付けないでよ!!!!」
「―――自分勝手なんかじゃねえ!!」
俺は月乃の腕を振りほどいた。
「俺はな!! 凡人なんだよ!!
全てを持った、お前なんかと違う!! ただの、凡人なんだよ!!
……お前に何がわかる!? 全て完璧で、全ての人に愛される!!
そんなお前に、俺の何がわかる!!??」
………俺は、最低だ。
行き場のない憤りを、無関係な月乃にぶつけていた。
コイツは、なんも悪くない。
………なのに俺は、コイツに、理不尽に怒りをぶつけることしかできなかった。
そんな自分が……心底醜くて、心底矮小に見えた。心底、自分が憎かった。
俺と月乃は、夜の公園に立ち尽くしていた。
「……そんなのじゃ……ない……」
遠くの町の音しか聞こえない暗く静かな夜の中、ふいに月乃が小さく呟いた声が聞こえてきた。
「……そんなのじゃない………」
月乃は、深く俯いたまま手を握り締め、そう、静かに話した。
「……私は、いつも一人だった。
私は今まで、仮の自分でしか他人と向き合えなかった。自分を出すことが怖かった。そんな自分が、嫌で仕方がなかった。
……でも、晴司がそんな私の背中を押してくれた。それでも立ち止まる私の手を引いてくれた。本当の自分を見てくれた。本当の自分を好きだと言ってくれた……
……私には、それがたまらなく嬉しかった。
私は晴司から、たくさんのことを教えてもらった……晴司のおかげで、私は本当の自分に出会えた……
……本当の、初めての気持ちに気付いた……
だから、私のことを思っている人たちに、私は思いで返事をした。……逃げずに、自分の気持ちを伝えた……
……私は、これからもずっと、本当の自分で――晴司が好きだと言ってくれた飾らない自分で、晴司と向き合いたいから……晴司を見ていたいから……」
「……月乃……」
「……だから……私の、本当の気持ちを晴司に知ってほしい………」
そう話した月乃は、もう一度俺に歩み寄った。でもそれは、さっきまでの様子とは違っていた。
ゆっくりとした足取りで……でも、その足取りは迷うことなく、俺の方に向いていた。
そして、俺の前に立ち止まった月乃は、星美と同じように、優しく暖かい両手を俺の頬に添えた。
……いつしか、夜は深くなっていた。
太陽は沈み、次の朝を待っていた。
空は暗いが、雲一つなかった。
星は顔を出し、今この時を懸命に煌めいた。
月は優しく光り、全てを包み込んでいた。
「……晴司……」
「……え……」
そんな、月が優しく光る夜、初めて月乃と出会った公園で……
……月乃は、俺にキスをした。
俺の頬は、俺のじゃない涙で濡れていた。