その蛙はすべてを知っていた
ある日、両親と喧嘩しました。
些細なことが原因だったのかもしれないし、僕がとんでもないことをしてしまったことが原因だったのかもしれない。その後にたくさんのことが起きたから、そこの記憶は曖昧です。
よく覚えているのは、両親が叱るのにうまく言い返せなくて、「死ね」と言ったこと。まだ子どもだった僕は、たくさんの感情をすべてぐちゃぐちゃにしたその言葉しか出せませんでした。
その夜、二人に責め立てられた僕はなんだかすごく悔しくて、普通に眠ることもできなかったから、夜の一時ごろ、黙って家を出ました。
田んぼの隙間に作られたようなこの町の夜は、カエルがきろきろとただうるさいんです。少ししたら、家に帰ろうと思いました。街灯のひとつもないものだから、懐中電灯一つでは、足を踏み外して田んぼに突っ込んでしまいそうでした。
ただ、草が奔放に伸びた道を歩きました。生まれてから十四年、慣れ親しんだ小さな町です。
迷うはずがなかったのに、なぜだか、いつの間にか、自分がどこにいるのかわからなりました。住宅も、いつの間にやら消えている。自分が今の今まで、何を見て、何を考えて歩いていたのか、まったく思い出せなかったんです。更に暗く感じるようになったのは、きっと焦りと、周りを木々に囲まれていたからだと思います。
ぶん、と耳元で羽音が聞こえて頭を振りました。困った。どうしようか。
来た道を戻ろうと後ろを振り返ると、二つに分かれた道がありました。どちらから来たかなんて、何も覚えていません。
カエルの声だけがいつも通りでした。
懐中電灯の光に蛾がぱらぱらと集まってきたころ。もとの道に行ける確立は二分の一です。でも、間違えたなら、戻ればいい。
左の道を行きました。
どうやら間違えたみたいだ、と思ったのはすぐでした。段々と草の背が高くなり、先の方に並ぶ大きな木。森に入っている。引き返そう、と立ち止まったときです。
懐中電灯が、小さな子どもを照らしました。慌てて後ろに下がり、目を凝らしました。でもどう見ても、やはり子どもです。
「こんな時間に、何してるの?」
子どもが夜中に、こんなところにいるなんて。少し声を張って聞きました。
「探してる」
「何を?」
「カエル」
カエルを探している、と言います。
普通の返答があったことにまず安堵しました。例えば、何か怖い漫画やテレビの幽霊のように、私の足を探しているの、なんて言われたならどうしようかと思っていましたから。
ふとそのとき、その子どもの顔に見覚えがある気がしました。だけど、何も思い出せなかった。
七、八歳くらいだろうか、と思ったと思います。半袖に短パンに、小さな靴は、どこも泥にまみれていました。
「なんでこんな時間に?」
「わかんない、今何時?」
「僕も、わかんないけど……でももう夜中だよ」
「じゃあ早く、カエルを見つけなくちゃ」
「いや、それより、家に帰らないと。いつから探してるの?」
「夕方」
どう考えてもおかしいでしょう。子どもが帰っていないなんて、この町ならすぐに知らされるのに。それに、誰も探していない。かなり放任的な家なのかもしれないとも、考えました。
「そんなの、また明日探せばいいよ。今日は帰ろう。家はどこ?」
自分の家もわからなくなっているのに、送ってあげるとでも言うような言い方に、自分でもおかしくなりますが。
「わかんない。道に迷っちゃった」
困ったように、眉を下げて言いました。どうやら、帰れなくなったのはこの子も同じなようでした。
「実は、僕も迷ったんだよね」
「え、いっしょだ」
目を丸くして、それから、にか、と笑う子。
「眠くないの?」
「全然眠くないよ」
もう諦めて、明るくなったら帰ろう。それに、流石に小さい子を放っておけない。そう思ったので。
「じゃあ、僕も一緒に探すよ。そのカエル」
「いいの?」
そう提案すると、その子は一気に顔を輝かせました。
「いいよ。どんなカエル?」
「ちょっとおっきくて、白い」
「白い?」
「そう、超レアなんだよ。なのに、俺、友達のを間違えて逃がしちゃって。それで、喧嘩した。早く見つけて返さなくちゃ」
僕も昔、カエルを捕まえて遊んでいたなと思い出しました。遊びの少ない田舎では、小学生の男は皆、誰がどれだけレアな虫やカエルやらを捕まえられるか競うことばかりしているんです。
「わかった。じゃあ早く見つけよう」
「うん」
とは言っても、暗い中、草木をかき分けて小さい生き物を見つけるというのは難しいことでした。
小一時間探しただろうかと思った頃です。
「うわあ!」
その子の上げた、驚きと恐怖がのったような声が、もっと奥の方から聞こえました。見ないうちに、彼はずいぶん先に行ってしまったらしかった。
「どうしたの?」
慌てて、声のした方へ走りました。かなり傾斜がきつくなっていて、息が切れるほどです。
ガサガサと、茂みから音がしました。急いで向かうと、むき出しになった木の根を、両手で必死に掴むその子がいました。這い上がろうともがいていました。
そこはまるで罠のように、急に崖になっていて、その下はずっと遠く、真っ暗でした。
「ちょっと、ちゃんと、掴まれ!」
必死に根を掴むその手を掴み、落ちないようにするも、彼の握力は限界のようでした。私の手も、焦りでじわりと出る汗ですべりそうになるんです。
彼の左手が離れていく。右手首を掴む僕の両の手の握力も、すぐに限界がきた。
死ぬ。この子が、死ぬ!
「もう、俺、無理!」
泣きそうに言うその子。
「頑張れ、離すな!」
「無理!」
「くそっ」
ああ、もう、本当に、駄目だ!
「ユウヤに、タクマがごめんねって言ってたって、言って!」
ユウヤ、タクマ。
急に言われた二つの名前に、息が止まりました。
手から力が抜けて、子どもが下に落ちていく。放り出した懐中電灯の光が点滅する。
ああ、そうか。
君は、たくまか。
「ユウヤ、ゆうや、悠也!」
僕の名前を呼んでいる。目を閉じているのに、明るかった。
目を開ける。
「悠也、あぁ、よかった……」
安心したように言う父と母の声。見上げた二人の顔は、逆光でよく見えなかったけれど、きっと泣いていたと思います。
僕は、あの二つに分かれた道の前で発見されました。朝、僕がいないのに気が付いた両親が、近所の人と一緒に探してくれていたのです。
良かった、と笑う大人たち。僕は見つけてもらえました。僕は生きていました。
でも、たくまは、見つけてもらえなかった。
僕のいなくなったカエルを探して、とうとう、たくまもいなくなってしまった。
もっと幼かった僕は、記憶に蓋をしたのだと思います。あのときの、宝物だった白いカエルを逃がされて、喧嘩をして、頭に血がのぼって、咄嗟に「死ね」と言ってしまった相手が、本当に消えてしまったから。きっとそのショックで、白いカエルも、たくまも、僕の頭からは消されていました。
「ねえ、母さん」
たくまがきっと、そこにいる。
僕の話を聞いた人たちは皆、夢だろうと言ったけれど、でも、本当にいました。
左の道を行った先の、崖の下。あの後、探してくれた大人たちが見つけました。
あの日の拓真は、もう骨になっていました。
「悠也に、拓真がごめんねって言ってたって、言って!」
ごめん。拓真。謝るのは僕もだ。
君に「死ね」なんて、言うんじゃなかった。ああ、まさか、本当に死んじゃうなんて。
その数週間後、僕も、あの崖にもう一度行きました。
明るいときに見ても、やっぱり下は暗かった。
拓真は、僕のカエルを探して、ここから落ちてひとり死んだ。
そう思うと、僕はどうすればいいのか、わからなくなりました。
その帰り道。小学校の近くに、何となく行ってみました。
ぶくぶくと太った大きな大きな白いカエルを見ました。
同級生の、斎藤が、ケースに入れていました。
カエルの背中の茶色い丸の柄は、かつて僕が持っていたものと同じ個体であることを示していました。
僕は怒鳴って、尋ねました。
「そのカエルはいつ手に入れたんだ?」
「ごめん、実は、拓真が逃がした後、すぐ捕まえた。拓真が探してるの知ってたけど、俺も欲しくて……ごめん、返すから」
最早白いカエルなどどうでもよかったんです。ただ、僕は許せなかった。
僕は拓真が死ぬ様子を見ているから。拓真が死んだ理由を知っているから。だから、僕は、斎藤に「死ね」と言いました。本当に、これは心からの命令でした。両親や、かつて拓真に言ってしまった「死ね」とは違う。
これが、僕が斎藤を殺した理由です。
わかってくれますか。




