第9話「永遠に解けない契約」
終焉の森に、音が戻ってきた。
撤退する軍の足音。折れた旗竿が引きずられる音。祈りを失った口が吐く、乾いた嗚咽。
境界の手前で止められたまま、彼らは振り返り、黒い城を見上げ、そして逃げるように背を向けた。
ユリアは城壁の上で、肩で息をしていた。肺が痛い。指先が冷たい。胸の奥が熱い。
吸い込んだ光が、まだ体内で静まりきっていない。器の底で、金色の輪がゆっくり回っている感覚がある。
「……下がった」
やっと絞り出した声は、風に消えかけた。
隣でアシュタルトが、視線を動かさずに答える。
「主が止めた。だから下がった」
それは称賛ではなく、事実の確認だった。
彼にとって、世界がどう評価するかはどうでもいい。主がここに立っている、それだけが現実の基準だ。
ユリアは膝が震えるのを感じた。限界が近い。
けれど、倒れる前にアシュタルトの腕が回り、背中が支えられる。
「……やっぱり、怖かった」
無意識に漏れた本音に、アシュタルトは答えなかった。
ただ、ユリアの体温が落ちないように抱き寄せる。その無言が、ユリアには返事より確かだった。
城壁の下、森の縁にひとつの影が残っていた。
撤退できずに膝をついたままの聖騎士が、震える手で剣を捨て、額を泥に押し付けている。
「……許しを」
声は掠れ、泣き声に近い。
「どうか……我らを……」
ユリアの心臓がきゅっと縮む。
許し。赦し。救い。
それはいつも、誰かが偉そうに“与える”ものとして語られてきた。与える側に立つと、同じ刃を握ることになる気がして怖い。
ユリアは息を吸い、アシュタルトの腕の中で、ゆっくりと口を開いた。
「……帰って」
声は小さい。だが境界に触れ、戦場に落ちると、不思議な重みを帯びた。
「今日は、帰って。……もう、ここに来ないで」
聖騎士は顔を上げた。怯えと安堵が混じった目で、何度も頷き、転がるように森を去っていく。
背後で、アシュタルトの気配が一段だけ鋭くなる。
「主。甘い」
ユリアは笑えなかった。
甘いかもしれない。けれど、甘さを選ぶことが、今の自分には必要だった。
「……私、奪われたくない。でも、奪う側にもなりたくない」
アシュタルトの腕が、僅かに強くなる。
「ならば、主の法を作れ」
低い声が落ちる。
「奪われぬ法。奪わぬ法。主が決めるなら、私は従う」
ユリアは頷いた。
従う、という言葉はまだ重い。けれど今は、鎖ではなく支えに聞こえた。
そのとき、城の外周に潜んでいた眷属たちがざわめいた。
魔物が怯えているのではない。別の“匂い”が近づいている。
ユリアが視線を向けると、森の奥から人影が現れた。
武器も旗も持たない。ぼろぼろの外套をまとった、やせた人々。数は十、いや、それ以上。
先頭にいた少女が、震えながら口を開く。
「……魔力が、ないんです」
声が折れそうだった。
「私たち……いらないって言われて。……ここに、来れば……生きられるって……」
ユリアの喉が詰まった。
それは、昔の自分の声だった。違うのは、今の自分には背中に熱があることだけ。
アシュタルトが一歩前へ出る。
人々が怯えて後ずさる。魔王の姿は、それだけで恐怖を呼ぶ。
ユリアは反射的に、アシュタルトの袖を掴んだ。
「……怖がらせないで」
アシュタルトがユリアを見下ろす。
金の瞳が一瞬だけ柔らかくなり、それから彼は人々へ向き直った。
「主が許す」
それだけだった。
けれどその一言で、城の結界の一部が静かに開き、通路が作られる。
人々は恐る恐る踏み出し、境界を越えた瞬間、泣き崩れた。
守られる場所があることに、身体が先に反応したのだ。
ユリアは、胸の奥の光が少しだけ落ち着くのを感じた。
器が満たされる感覚ではない。意志が形になる感覚。
――ここからだ。
戦いは終わりではない。けれど、始めることはできる。
◇◇◇
夜、城の最奥。
静かな部屋で、ユリアは湯気の立つ杯を両手で包んでいた。温かさが指先に沁みる。
アシュタルトは窓際に立ち、森の闇を見ている。
彼の背中はいつも通り揺らがない。けれど、ユリアにはわかる。今も張り詰めている。主を失う可能性だけが、彼を揺らす。
「……さっきの人たち、受け入れてよかった?」
ユリアが尋ねると、アシュタルトは即答した。
「主が望んだ。なら正しい」
正しい。
その言葉が、怖い。自分が“正しさ”を持ったとき、世界を裁けてしまうから。
ユリアは杯を置き、薬指の輪の跡を見つめた。
戦場で濃くなった輪郭は、今も淡い金で光っている。呼吸と同じリズムで脈打つ。
「……ねえ、アシュタルト」
名前を呼ぶと、彼が振り返った。
その瞬間、ユリアの胸の奥で何かがほどける。視線が合うだけで、世界が静かになる。
「私、思い出した」
言葉が震える。
神殿の白。冷たい声。器という命令。引き裂かれた誓い。
そして、手を伸ばしてくれた闇。
「私、昔……あなたに言った。『王でいて』って」
アシュタルトの金の瞳が細まり、痛みのような影が落ちた。
「言った」
短い肯定。
ユリアは息を吸った。
「今も同じ。……でも、もう一つ足したい」
アシュタルトが黙る。
ユリアは怖かった。足す言葉で、彼を縛ってしまう気がして。けれど、言わない方が自分を捨てることになる。
「私は、あなたの主でいたい」
言い切ると、胸が痛んだ。
主。そんな言葉を自分から選ぶなんて、昔の自分が聞いたら泣き出すだろう。
でも続けた。
「それは、あなたを下に置く意味じゃない。……私が、あなたを“終焉”にしない鍵でいるって意味。あなたが私を独りにしないみたいに、私もあなたを独りにしない」
アシュタルトの瞳が揺れた。
初めて会った夜のような余裕の笑みではない。言葉を受け止める顔だった。
「……主」
彼は一歩近づき、ユリアの前に跪くのではなく、同じ目線になるよう膝を折った。
その選び方が、ユリアの喉を詰まらせる。
「それが命令なら、私は従う」
ユリアは首を振った。
「命令じゃない。誓い」
その瞬間だった。
薬指の輪の跡が、眩しいほどに光った。
光は輪郭を持ち、形になり、金の指輪として指に固定される。抜けない。外せない。痛みもない。
ただ、確かな重みだけがある。
ユリアは息を呑んだ。
「……指輪」
アシュタルトも、自分の薬指を見た。
同じ金の指輪が、そこにもある。闇ではない。光でもない。二つが溶け合った色。
ユリアの目から、熱いものが溢れた。
過去の誓いが、今の自分に追いついたのだと理解できたから。
アシュタルトが指輪に触れ、低く言う。
「永遠に解けない契約だ」
ユリアは涙のまま笑おうとして、うまく笑えないまま頷いた。
「……うん。逃げない」
アシュタルトは、ユリアの額にそっと指を当てた。
それは触れるだけの口づけみたいで、ユリアの胸が静かに満ちた。
◇◇◇
その夜、空が再び裂けた。
城の外、雲の向こうに白い亀裂が走り、冷たい光が滲む。
神の使いが、最後の“修復”を試みている。穴を塞ぎ、秩序を元に戻すために。
アシュタルトの気配が、刃のように鋭くなる。
「来るぞ」
ユリアは立ち上がった。怖い。でも、逃げない。
指輪の重みが、足元を支える。
空から落ちてきたのは、巨大な光の楔だった。
城を、境界を、ユリアの器ごと砕くための“確定”の一撃。
眷属が吠える。森が震える。
アシュタルトの闇が立ち上がり、世界を切ろうとする。
ユリアは息を吸い、はっきり言った。
「命令する」
指輪が熱を持つ。
「壊さない。……終わらせるのは、偽りのほう」
アシュタルトの闇が止まった。
刃が、盾へ変わる。ユリアを守るための形になる。
ユリアは器を開いた。
痛みを恐れない。痛みの向こうに、選び取った形があると知っている。
光の楔が、糸になって吸い込まれていく。
胸が焼ける。喉が裂けそうになる。視界が揺れる。
それでもユリアは、吸い込んだ光を“上書き”した。
冷たい裁きではなく。
条件付きの赦しではなく。
「……夜明け」
ユリアが呟くと、器の中の光が淡い金に変わり、境界へ流れた。
境界は闇の壁ではなく、柔らかな輪郭になる。ここから先は奪えない、けれど外を滅ぼさない――そういう線。
光の楔は、その線に触れた瞬間、形を失い、ただの“光”として空へ散った。
裂け目は閉じ、雲は静まる。
世界は、何も言わない。
ただ、神の声だけが消えた。
アシュタルトが低く息を吐く。
「……主が、神の手を退けた」
ユリアはふらつき、アシュタルトの胸に倒れ込んだ。
抱き留める腕が揺るがない。
「怖かった?」
彼が問う。
ユリアは頷いた。
「……怖かった。でも、もう、ひとりじゃない」
アシュタルトの腕が僅かに強くなる。
「永遠にだ」
その言葉が、誇張ではなくなる。指輪がある。契約がある。選び直した意志がある。
◇◇◇
数日後。
黒い城の広間には、玉座が置かれていた。
夜から削り出したような黒い王座と、その隣に、闇と光の境界を思わせる金の装飾が施されたもう一つの席。
眷属たちがひざまずき、人間の難民たちが恐る恐る頭を下げる。
誰もが同じように震えている。怖いからではない。これからの“法”が変わることへの戸惑いと期待だ。
ユリアは玉座の前に立った。
自分の足で。誰にも押されず。誰にも引きずられず。
アシュタルトが隣に立つ。
「主」
彼が囁く。
「望め。法を言葉にしろ」
ユリアは深く息を吸った。
過去の自分が喉を締め付ける。無価値だ、黙れ、従え。
けれど指輪が熱を持ち、その声を押し返す。
ユリアは言った。
「ここでは、魔力で価値を決めない」
広間が静まる。眷属も人間も、息を止めた。
「ゼロでも、満ちていても、足りなくても。生きていい。……役に立たなくても、生きていい」
言いながら、ユリア自身が救われていくのがわかった。
自分に許可を出しているのだと。
「奪うための祈りは、ここでは力を持たない。人を道具にする神の言葉も、ここでは通さない」
ユリアは一度、アシュタルトを見上げた。
金の瞳が、静かに頷く。
「そして――」
ユリアは薬指の指輪に触れた。
「私は、ヴァン・クロムウェルの令嬢じゃない。供物でも、魔女でも、聖女でもない」
胸の奥が熱くなる。
「私はユリア。アシュタルトの主で、隣に立つ者。……魔妃として、この場所に座る」
広間の空気が震えた。
眷属たちが、今までより深く頭を下げる。人々の中から、嗚咽が漏れた。救いという言葉のない救いに、身体が追いつかなかったのだ。
アシュタルトが、ユリアの手を取る。
「主。玉座へ」
ユリアは頷き、段を上がり、席に座った。
ふかふかの寝具とは違う。王座は硬い。責任の形だ。
隣にアシュタルトが腰を下ろす。
二つの指輪が、静かに共鳴した。
ユリアは前を見た。
窓の外には終焉の森。けれど、その暗さはもう“絶望”と同じ意味ではない。守るための夜があり、選び直すための境界がある。
アシュタルトが、ユリアにだけ聞こえる声で言った。
「これで、お前は捨てられぬ」
ユリアは小さく首を振り、同じ声量で返した。
「捨てない。……私が」
その言葉に、アシュタルトの口元が僅かに歪む。
それは、魔王の微笑ではなく、ただの安堵だった。
そして、黒い城に新しい法が灯る。
魔力ゼロの令嬢と、滅亡したはずの魔王。
世界が恐れた契約は、終焉ではなく――
二人が選び直した、“永遠に解けない誓い”として、静かに始まった。
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