第8話「最終決戦、世界を敵に回して」
終焉の森は、静かすぎた。
鳥も鳴かない。風も歌わない。
あるのは、遠くから押し寄せる“気配”だけ。祈りの波、鉄の列、魔力の整列。数の力が作る規則正しさが、森の不規則な闇をじりじりと侵食してくる。
黒い城の上で、ユリアは両手を握りしめていた。
胸の奥の小さな光は、もう“火花”ではない。薄い灯のように揺れ続け、時折、痛む。
「……来た」
誰に言うでもなく呟くと、背後でアシュタルトが答えた。
「来たな」
彼の声は静かだった。怒りを押し殺している静けさではない。
嵐の中心の無音に似ている。世界を壊せる者が、壊さないと決めたときの沈黙。
城壁の下、森の縁が裂けるようにして、軍が姿を現した。
王国軍の旗。教会の十字旗。聖騎士団の白銀。
そして、その上空――雲の切れ目から降りてくる、眩しすぎる影。
光翼の軍勢。
人の形をした“光”が、列を作って空に並んでいる。翼の羽ばたきは音にならないのに、空気だけが震える。見上げただけで、膝が勝手に折れそうになる圧があった。
「……すごい数」
ユリアの声は掠れた。
「恐れるな」
アシュタルトがユリアの隣に立つ。黒髪が風もないのに揺れ、金の瞳が戦場を見下ろす。
「数は力ではない。意志が力だ」
ユリアは唇を噛んだ。
意志。自分に、それがあるのか。怖いのに、逃げない意志が。
城の外周に、黒い霧が広がっていく。城が呼吸するように闇を吐き、森を塗り替える。
眷属たち――魔物の兵が、影から姿を現し、城壁の内側に列を作った。どれも恐ろしい姿なのに、ユリアを見ると頭を下げる。主に対する礼の形。
その光景が、ユリアの胸をきゅっと締め付けた。
自分はまだ、これに慣れていない。
――主。鍵。器。
思い出した神殿の記憶が、痛みと一緒に蘇る。
器にされた過去。奪われた光。引き裂かれた誓い。
そのすべての延長線上に、今の戦場がある。
空から、声が落ちた。
「終焉の魔王、アシュタルト。ユリア・ヴァン・クロムウェル」
光翼の存在――あの“神の使い”が、王都で見せた冷たい美しさのまま、空に立っていた。
だが今は一人ではない。後ろに、同じ光を纏った者たちが幾重にも控えている。
「神の秩序に背いた者ども。最後の勧告は終わった。ここより先は粛清のみ」
王国軍の前列が槍を構え、教会の聖職者たちが一斉に祈りを唱え始める。
祈りが“魔法陣”になる。空気に幾何学の文様が浮かび、光が収束し、巨大な槍の形を結び始めた。
ユリアの背中に冷たい汗が流れる。
「……あれ、城を壊す気だ」
アシュタルトが淡々と言った。
「壊すのではない。主を奪うつもりだ」
ユリアの喉が鳴った。
奪う。昔からずっと同じだ。名前だけが変わる。供物、汚点、魔女、聖女、器。どれも結局は“所有”の言葉だった。
アシュタルトがユリアの方を向く。
「主。今から私が解く封印がある」
ユリアは目を見開いた。
「……まだ、封印が?」
「神に刻まれたものではない」
アシュタルトの金の瞳が、微かに揺れる。
「私が刻んだものだ。お前を傷つけぬために。私自身の力を、私自身で縛っていた」
ユリアの胸が痛む。
そんなことまでしていたのか。ずっと自分のために。
「解けば、どうなるの」
問いかける声が震える。怖い。世界が壊れる光景が、頭をよぎる。
アシュタルトは、はっきりと言った。
「私が“終焉”になる」
息が止まる。
その言葉は脅しではなく、事実だった。
「だが、暴走させぬ。主が鍵だ。主の器を通せば、私の力は“主の形”になる。破壊ではなく、意志の刃になる」
ユリアは理解した。
自分は守られるだけの存在ではない。アシュタルトの力の行き先を決める“枠”だ。
だからこそ、神は自分を器として欲しがった。奪えば、魔王を制御できるから。
ユリアは指先を握り、薬指の輪の跡に触れた。淡い光が、震える。
「……私が、怖くなったら?」
アシュタルトの手が、ユリアの手の上に重なる。熱い。
「怖くなっていい」
低い声が落ちる。
「怖いと言え。私は止める。主を壊してまで勝つつもりはない」
その言葉が、ユリアの背骨を支えた。
勝つために犠牲になれ、と言われ続けた人生で、初めて“勝ってもいい、でも壊れるな”と言われた。
ユリアは小さく息を吸い、頷いた。
「……やる」
その瞬間、戦場が動いた。
聖槍が放たれる。
空を裂く白い光が、一直線に黒い城へ降り注いだ。音が遅れてくる。轟音ではない。骨が軋むような振動。世界そのものが拒絶の悲鳴を上げている。
闇の盾が立ち上がり、光とぶつかる。
衝突の境界で、空気が焼け、霧が蒸発し、森の木々が一斉に枯れては芽吹く。
「押せ! 魔王の巣を焼き払え!」
王国軍が怒号を上げる。
だが彼らの声は、闇に飲まれて薄くなる。誰も城へ近づけない。足が前に出ない。恐怖が筋肉を縛る。
光翼の軍勢が、空から次々と光の刃を落とす。
闇が盾になり、刃を弾く。弾かれた光が森に刺さり、地面が白く焦げる。
ユリアの視界の端で、眷属の魔物が呻き、影へ戻っていくのが見えた。
アシュタルトの闇が守っている。守っているが、削られている。
「主」
アシュタルトが呼ぶ。
「今だ。鍵を回せ」
ユリアは自分の心臓の音を聞いた。
怖い。痛い。けれど――逃げない。
ユリアはアシュタルトの手を握り返し、意識を“器”の底へ沈めた。
そこは広い。暗い。空っぽで、どこまでも続く。
でも、空っぽだからこそ、入ってくるものを形にできる。
アシュタルトの魔力が流れ込む。
闇ではない。闇より深い無色。重く、熱く、冷たい。矛盾の奔流。
ユリアはその奔流を、受け止めた。
受け止めた瞬間、薬指の輪の跡が熱を持つ。
輪郭が濃くなり、光が金に寄る。アシュタルトの指にも、同じ熱。
二つの輪が、共鳴した。
「……アシュタルト」
ユリアは名を呼んだ。
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
「私、望む」
胸の奥の灯が、炎になる。
器が“空”ではなく、“意志”の形を持つ。
「この城に近づかせない。私たちを奪わせない」
その言葉が落ちた瞬間、アシュタルトの全身から闇が立ち上がった。
違う。闇ではない。
“終焉”が、形になった。
黒い波が城から放たれ、戦場の地面を走る。波は兵を飲み込まない。殺さない。
ただ、境界線を引く。
そこから先へ、一歩も進めない境界。
王国軍の前列が、見えない壁にぶつかって倒れた。馬が嘶き、兵が悲鳴を上げる。
聖騎士団が突撃しようとして、膝から崩れ落ちる。自分の恐怖に押し潰されたように。
光翼の軍勢が一斉に光を放つ。
だが光は、境界で歪み、細い糸となって吸い込まれていく。
ユリアの器へ。
「……っ!」
胸が焼ける。光が痛い。
けれど今度は、王都のときよりも耐えられた。アシュタルトの無色の魔力が、背中から支えている。闇が盾になり、光を“受け止められる温度”に変える。
ユリアは歯を食いしばり、吸い込んだ光を、器の中で形にした。
冷たい光ではなく。
条件付きの赦しの光でもなく。
“自分で選んだ光”。
ユリアの掌に、淡い金の紋様が灯る。
それは聖女の印ではない。魔女の呪いでもない。
主としての印。
ユリアは前に出た。城壁の上、戦場に向けて。
群衆の視線が、槍のように刺さる。
怖い。怖いのに、声は出た。
「私は、器じゃない」
震える声が、戦場に落ちる。
「あなたたちの正しさのために、誰かを裏切らない。救いの名前で奪うなら、私は従わない」
教会の聖職者が叫ぶ。
「魔女の戯言だ! 神に逆らう者は――」
言葉は続かなかった。
ユリアの器が開き、祈りの魔力が糸になって吸い込まれたからだ。祈りが、言葉だけの空っぽになる。
彼らは初めて知る。祈りが万能ではないことを。奪えない相手がいることを。
光翼の存在が、空から冷たく言い放つ。
「器が、神の光を拒むなら――器ごと砕く」
空が裂ける。
巨大な光の輪が形成され、王都で見たものとは比べものにならない“神罰”が、城へ落ちようとした。
ユリアの全身が凍る。
砕かれる。器ごと。自分ごと。
その恐怖に、膝が折れかけた。
だが、その瞬間――アシュタルトがユリアの前に出た。
背中でユリアを隠し、空を睨む。
「主を砕く?」
低い声が、戦場の空気を押し潰す。
「ならば私は、神の秩序ごと砕く」
闇が、光へ伸びる。
だが、ただの闇ではない。終焉の刃だ。世界の“区切り”を切る刃。
ユリアは叫んだ。
「アシュタルト、だめ!」
自分のために怪物にならないで、と言った過去の自分が、今の自分の喉を引き裂く。
でも、止めたい。止めなきゃ。
アシュタルトは振り返らずに言った。
「なら、主が命じろ」
その言葉に、ユリアは息を呑んだ。
主従の形は偽装。けれど今だけは、本当の意味で必要だった。
ユリアは震える手を伸ばし、アシュタルトの背に触れた。
熱い。震えている。怒りで燃えているのではない。主を失う恐怖で震えている。
ユリアは、はっきりと言った。
「命令する」
声が戦場に落ちる。
祈りより重い。神の宣告より現実的。
「壊さないで。私たちの道は、“終焉”じゃなくて、“新しい始まり”にする」
アシュタルトの闇が、ぴたりと止まった。
刃が、盾に変わる。
そしてユリアは、空を見上げた。
落ちてくる神罰の光輪。
恐怖が喉を締める。けれど、目を逸らさない。
器を開く。
今までで一番大きく。
でも、奪うためではない。形にするために。
光輪が、ユリアへ引き寄せられた。
空が軋む。世界が拒む。人々が悲鳴を上げる。
それでも光は糸になり、器へ吸い込まれていく。
痛い。焼ける。涙が滲む。
でも、アシュタルトの手がユリアの手を握り、闇が背中を支える。
「主」
アシュタルトが低く言う。
「お前の形にしろ」
ユリアは唇を噛み、吸い込んだ光を、器の底でねじり直した。
“裁き”ではなく。
“赦し”でもなく。
「境界」
ユリアは呟いた。
「奪うものと、守るものの境界。私たちが選んだ場所を、踏ませない境界」
器の中の光が、金の輪になって広がる。
輪は外へ放たれ、城の周囲の闇の境界線に重なった。
次の瞬間、境界は“絶対”になった。
光翼の軍勢が、見えない壁に弾かれ、空で止まる。
王国軍も教会軍も、同じ場所から一歩も進めない。
攻撃は届かない。祈りは絡め取られる。神罰は形を変えられる。
戦場全体が、理解不能な沈黙に包まれた。
光翼の存在の顔が、初めて歪む。
「……器が、神の光を“上書き”した?」
アシュタルトが笑った。冷たく、誇らしげに。
「主は器ではない。主は“法”だ」
ユリアの膝が崩れそうになる。限界が近い。
それでも、倒れない。倒れたら境界が揺らぐ気がした。
そのとき、戦場の後方で誰かが叫んだ。
「撤退……撤退だ! 近づけない!」
王国軍の列が乱れ、教会の聖職者が泣き叫び、聖騎士団が歯を食いしばりながらも下がり始める。
光翼の軍勢も、空で後退するしかなかった。押し切れない。砕けない。
ユリアは息を吐いた。
勝った――のだろうか。
だが、空の裂け目の向こうから、冷たい声が最後に落ちた。
「覚えておけ。これは終わりではない」
光翼の存在が、遠い目でユリアを見下ろす。
「貴様は神の秩序に穴を開けた。穴は、必ず塞がれる」
光の軍勢が、雲の裂け目へと退いていく。
雲が閉じ、空の眩しさが消え、森に暗さが戻る。
戦場に残ったのは、進めない境界線と、撤退の混乱と、そして――黒い城の上で肩で息をするユリアだった。
「……終わった?」
ユリアがかすれ声で言うと、アシュタルトがユリアを支えた。
腕が強く、でも乱暴ではない。
「終わりではない」
彼はユリアの薬指を見た。
輪の跡が、今までで一番濃く光っている。まるで、形になる寸前の指輪のように。
「だが、戻れない地点には来た」
ユリアは視界が揺れる中で、彼の金の瞳を見上げた。
「……私、できた?」
アシュタルトは僅かに目を細める。笑みではない。
けれど確かな安堵が、そこにあった。
「できた。主は世界を止めた」
ユリアは息を吐き、目を閉じた。
怖かった。痛かった。
でも、逃げなかった。
次に目を開けたとき、もう“奪われるだけのゼロ”ではいられないと、はっきりわかった。
世界を敵に回したのは、破滅の始まりではない。
二人が、世界の外側から新しい秩序を作るための――始まりだった。




