第7話「契約の真実」
王都から戻るまでの道のりを、ユリアはほとんど覚えていなかった。
アシュタルトの腕の中。闇が折り畳まれ、景色が剥がれ、空気が裏返る。そんな感覚だけが断片的に残っている。
胸の奥では、吸い込んだ“光”がまだ暴れていた。冷たい刃のような聖性が、器の内壁を擦り、熱と痛みを交互に置いていく。
黒い城に着いた瞬間、膝が崩れた。
「主!」
床に落ちる前に、アシュタルトが抱き留める。彼の腕は強い。けれど、その強さが震えているのがわかった。
「……だいじょうぶ」
ユリアはそう言った。言ったつもりだった。
声は掠れ、息は浅く、指先は冷たい。大丈夫の形をした嘘が、舌の上で割れる。
アシュタルトが広間の奥へ運び、寝台に横たえた。外套がユリアを包み、城の光が柔らかく灯る。眷属たちが怯えた目で距離を取り、息を潜めていた。
「呼吸を整えろ」
アシュタルトはそう言うと、ユリアの胸元に手を当てた。
触れた瞬間、闇がじわりと広がり、暴れる光を押さえ込もうとする。だが光は抵抗した。冷たさが増し、痛みが鋭くなる。
ユリアは歯を食いしばり、喉から漏れそうな声を噛み殺した。
「……痛いか」
アシュタルトの声が低く沈む。
「少し……でも、平気」
平気じゃない。
でも、ここで自分が折れたら、彼が怒りで世界を壊す。そんな確信だけがあった。恐ろしいほどに、彼の怒りは“ユリアのため”にしか向かない。
アシュタルトの金の瞳が細まる。怒りではない。焦りだ。
「……神の光は毒だ。主の器が拒むなら、私は――」
「拒んでない」
ユリアは息を吸って言った。胸が焼ける。
「……吸った。吸えた。だから、きっと……」
言いかけた瞬間、視界が白く弾けた。
眩しい。光翼の存在の光とは違う。
もっと古く、もっと温度のある光。目が眩むのに、怖くない。むしろ懐かしい。
ユリアの意識が、ふっと沈む。
◇◇◇
夢ではなかった。
そこは、白い石でできた神殿だった。天井は高く、空がそのまま丸く切り取られている。空気に魔力が濃く溶け、呼吸をすると胸が満たされる。
ユリアはその場に立っている。いや、“ユリア”ではない。
長い髪が背中を流れている。衣は白。手の甲に、淡い紋様が光っていた。
周囲には人々がいた。祈り、跪き、泣いている。彼らの目は“救い”を求める目だ。だが、それは同時に“捧げもの”を見る目でもある。
「器を差し出せ」
誰かが言った。声の主は見えない。天井の向こうから降ってくるような、冷えた声。
「光を満たし、神へ返せ。それが貴様の役目だ」
胸の奥が凍る。
役目。器。返せ。
その言葉を聞いた瞬間、ユリアは理解してしまう。自分は最初から“人”ではなく、“器”として生まれたのだと。
「……いや」
声が出る。震えた声。だが、確かに拒否だ。
「私は……誰かの道具じゃない」
群衆がざわめく。聖職者が怒号を上げる。
「神に逆らう気か! お前が光を満たさねば、世界は枯れる!」
そのとき、神殿の扉が轟音と共に開いた。
闇が、流れ込む。
夜を引き裂くように現れたのは、一人の男だった。
漆黒の長髪。額の角。金の双眸。見た瞬間、胸の奥が熱を持つ。
――アシュタルト。
名前が、自然に浮かぶ。
そして同時に、記憶が刺さる。これは“初めて”ではない。ずっと前から、何度もこの眼差しを知っている。
男はまっすぐこちらへ歩いてきて、神殿の中央で止まった。
群衆が怯え、聖職者が聖句を唱える。けれど彼は止まらない。
そして――跪いた。
白い床に膝をつき、こちらの手を取って額を当てる。
第1話と同じ仕草。違うのは、ここではユリアの手が泥に汚れていないことだけ。
「……遅い」
自分の声が聞こえた。泣きそうな声。怒っているのに安心している声。
男が顔を上げる。
「遅くなった」
その声は低い。だが、優しい。優しいからこそ胸が痛い。
「貴様を“器”にするなど、許さぬ」
彼は立ち上がり、背後の空気を睨む。天井の向こう――神の気配に向けて。
「神は、世界を救う名で奪う。奪って、足りないと泣く。ならば私は奪う側を滅ぼす」
闇が膨れ上がり、神殿の光を押し潰しかける。
その瞬間、ユリアは衝動的に彼の袖を掴んだ。
「……だめ」
自分が言う。必死に。
「世界を壊さないで。……私のために、あなたが怪物にならないで」
彼の金の瞳が、揺れた。
「貴様が傷つくよりは、世界が滅ぶ方がましだ」
「それでも、だめ」
ユリアは首を振る。涙が落ちる。
「……あなたは、私の“王”でいて。神の影で、怒りだけの魔王にならないで」
その言葉に、男の表情が初めて崩れた。苦しそうに歪む。
けれど、次の瞬間、彼は決意した目で言う。
「ならば契約だ」
闇が絡み、光が抗い、二つが交差する。
指先に、輪の感触が生まれる。指輪。外れない誓約。
「貴様を主とし、我が魂を縛る。貴様が生きる限り、我は貴様から離れぬ」
息を呑む。
その誓いは、愛だ。けれど同時に、牢でもある。
ユリアは震えながら、頷く。
「……私も、あなたを捨てない」
そう言った瞬間。
天井の向こうから、冷たい声が落ちた。
「ならば引き裂く」
光が刃となり、神殿を貫く。
腕が、身体が、心が、引き裂かれる感覚。
彼が叫ぶ。
「やめろ!」
闇が暴れる。だが間に合わない。
自分の胸の奥の“器”が開き、光が無理やり注ぎ込まれる。器が満たされるのではない。器が“神の道具”に塗り替えられていく。
視界が白く燃え、最後に見えたのは――
アシュタルトが必死に手を伸ばす姿。
その指に、同じ指輪が光っている。
「必ず迎えに行く!」
叫びが響く。
「何度生まれ変わろうと、貴様を探す! 主よ――!」
そこで、世界が途切れた。
◇◇◇
ユリアは息を吸って跳ね起きた。
「……っ!」
胸が痛い。汗が冷たい。指先が震える。
けれど、視界は城の天井だった。淡い灯り。静けさ。遠くで眷属の足音。
そして、目の前にアシュタルトがいた。
ユリアの起き上がりに合わせて、すぐに腕を伸ばし、抱き留める準備をしている。
「見たな」
短い言葉。確認ではない。断定だった。
ユリアは喉を鳴らし、かすれ声で言う。
「……私、あの神殿を知ってる」
アシュタルトの金の瞳が、痛みを孕んで細まる。
「忘れさせられていた。神に」
「じゃあ……あなたと私は……」
言い終えられなかった。
怖い。嬉しい。信じたい。信じたら、今の自分が消えてしまいそうで。
アシュタルトは、ユリアの手を取った。
掌を開き、指をゆっくり伸ばす。
その薬指に、淡い光が輪を描いていた。薄い、薄い紋様。
まだ指輪ではない。けれど“輪の跡”だ。
「契約は初めてではない」
アシュタルトは静かに言った。
「お前の魂は、何度も奪われ、何度も生まれ直した。私はそのたびに探した。……今回、ようやく辿り着いた」
ユリアの胸の奥の小さな光が、かすかに震える。
あの神殿で、彼に言った言葉が、痛みと一緒に蘇る。
――あなたは、私の王でいて。
「でも……私はユリアだよ」
震える声で言う。
“別の誰か”の名前を押し付けられるのが怖い。聖女になれ、器になれと同じように、何かに塗り替えられるのが怖い。
アシュタルトは首を振った。
「知っている。ユリアはユリアだ」
その言葉に、ユリアの喉が詰まる。
「だが魂は同じだ。神はお前を“器”として使うため、記憶を削り、魔力を奪い、ゼロとして生まれさせた。満たされぬ器にすれば、従順になると思ったのだろう」
「……ひどい」
呟くと、アシュタルトの指先がユリアの髪を撫でる。慰めるようで、怒りを押し殺すようでもある。
「神は“救い”という言葉で奪う。お前が王都で吸った光は、その残滓だ。だから記憶が繋がった」
ユリアは息を整えながら、問いを搾り出した。
「じゃあ、契約って……主従って……」
アシュタルトの口元が僅かに歪む。
「偽装だ」
短く言い切る。
「神と教会は、“愛”や“対等な誓い”を恐れる。だから私は、主従の形に落とした。主が命じ、私が従う――そう見せれば、神は油断する」
ユリアは驚いた。
主従は、守りの形だったのだ。鎖ではなく、盾。
「……じゃあ、あなたは私を縛ってるんじゃなくて」
「縛っているのは私だ」
アシュタルトは即答する。
「お前が消える方が怖い。だから私が縛った。自分を。お前のそばに在るように」
ユリアの目から、熱いものが溢れた。
嬉しい、だけではない。怒りと悲しみと、やっと言葉にできた痛みが混ざっている。
「私、ずっと……何もないって言われて」
息が詰まり、言葉が途切れる。
「でも本当は、奪われてただけだったんだね」
アシュタルトの指が、ユリアの涙を拭う。
「奪い返す」
声が低く落ちる。
「お前の魔力も、記憶も、尊厳も。……そして、お前を“器”と呼ぶ世界の言葉を折る」
ユリアは涙のまま笑おうとして、うまく笑えなかった。
でも、頷けた。
「……一緒に?」
アシュタルトの金の瞳が、揺らがずに答える。
「一緒にだ、主」
その瞬間、ユリアの薬指の輪の跡が、ほんの僅かに強く光った。
アシュタルトの指にも、同じ場所に淡い光。
二つの輪が、離れていた時間を埋めるように、弱く共鳴する。
城の外で、空気が鳴った。
遠い。けれどはっきりと、世界の“動き”が伝わってくる。軍勢の気配。祈りの集合。光の刃の準備。
神と教会と王国が、今度こそ“粛清”として来る。
アシュタルトは窓の方へ視線を向け、静かに言った。
「始まるぞ」
ユリアは胸の奥の光に手を当てた。
恐怖はある。けれど、もう名前のない恐怖ではない。理由のある恐怖だ。戦うべき相手が見えた恐怖だ。
「……うん」
ユリアは立ち上がる。足はまだ少し震える。
それでも、前を向けた。
失われた契約の真実は、悲劇ではない。
今の二人が、もう一度選び直すための、始まりだった。




