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魔力ゼロの令嬢と終焉の魔王 〜百年の輪廻を越えて、再び溺愛される〜  作者: 綾瀬蒼


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第6話「偽りの神と、真の王」

王都を覆った闇の天蓋は、一夜にして消えなかった。


夜明けが来ても空は薄暗く、太陽は雲の向こうで怯えたように霞んでいる。街は沈黙し、広場の処刑台は半ば崩れたまま放置され、祈りの声だけが震えるように残っていた。


ユリアは、石畳の上で自分の手を見つめた。指先はまだ震えている。怖かった。今も怖い。けれど、逃げなかった。


隣に立つアシュタルトの気配が、夜より濃いのに、ユリアにはそれが唯一の足場だった。


「主」


低い声が耳元で落ちる。


「来る」


言い終えるより先に、空気が裂けた。


王都の上空、雲が左右に引き裂かれ、そこから“光”が降りてきた。松明の火とは違う。日の光とも違う。目が焼けるほど眩しいのに、肌には冷たい。


光は一本の柱になり、広場の中心へ突き刺さる。


人々が悲鳴を上げ、次の瞬間には膝をついた。祈りが一斉に始まる。聖職者たちは涙を流し、地面に額を擦りつける。


「神だ……!」


「救いが……!」


ユリアは喉を鳴らした。救い。そう言われるたび、胸のどこかが凍る。救いの名で、何度自分は踏みにじられてきたのか。


光の柱の中から、一人の存在が歩み出た。


人の形をしている。だが、人ではない。白銀の衣。背に広がる六枚の光翼。顔は美しいのに、瞳が冷たい。まるで、誰も見ていないような目だ。


その存在は、地上を見下ろし、声を落とした。


「――終焉の魔王、アシュタルト」


声は優しい。優しいからこそ残酷だった。聞いた者の思考を撫で、抵抗を奪う響き。


「滅びたはずの罪が、再び地上に染み出たか。神の名において命ずる。跪け」


聖騎士団の誰かが叫ぶ。


「神の使い様だ! 神の御使いが降臨された!」


群衆がさらに地に伏せる。恐怖と歓喜が混ざり、空気が熱くなる。


アシュタルトは動かなかった。跪かない。視線も逸らさない。闇の王が、光を前にしてなお、王座から降りない。


「神の名?」


アシュタルトが低く笑った。


「まだその偽りを使っているのか。……千年経っても、芸がない」


光翼の存在の眉が僅かに動く。怒りではない。機械的な反応だ。


「偽りを口にするのは、邪悪の証。貴様は、神の秩序を乱した」


そして、その視線がユリアへ滑る。


「ユリア・ヴァン・クロムウェル。虚無の器。異端。……いや、器は虚無ではないな」


ユリアの心臓が跳ねた。


「貴様の中に、失われた“光”が点っている。神は慈悲深い。貴様を赦す道を与えよう」


その一言で、周囲の祈りが一段強くなる。赦し。慈悲。救済。聞き慣れた言葉が、刃の形をして飛んでくる。


光翼の存在は、手のひらを差し出した。


そこに、一本の短剣が現れる。柄は白金、刃は透明。見ているだけで心が削がれるような、冷えた聖性。


「魔王を殺せ」


言葉は簡単だった。息を吸うように命じる。


「その契約を断ち切れ。そうすれば貴様は“聖女”となる。魔力を得、王国は貴様を迎え、教会は貴様を讃えよう。二度と泥に落ちずに済む」


ユリアの喉が詰まった。


聖女。讃えられる。迎えられる。

幼いころ、夢に見たことがないわけじゃない。自分も“普通”になれたら、と一度も考えたことがないわけじゃない。


けれど、その道の条件が――目の前にいる唯一の存在を、殺すこと。


ユリアは、短剣ではなく、アシュタルトを見た。


彼は無言だった。止めない。強要しない。

ただ、金の瞳がユリアを見ている。逃げ道も、支配もない目で。


その視線が、ユリアの胸の奥の何かをほどいた。


与えられる“救い”は、いつだって檻だった。

従え。裏切れ。捨てろ。そうすれば赦す。

それは赦しではない。命令だ。


ユリアは一歩前へ出た。足が震える。けれど止まらない。


「……いや」


声は小さかった。なのに、光翼の存在が僅かに目を細めた。


「何だと?」


ユリアは息を吸い直し、今度ははっきり言った。


「いや。……それは救いじゃない」


群衆がざわめいた。聖職者の誰かが叫ぶ。


「聖女になる機会を! なぜ拒む!」


ユリアはその声に一瞬だけ怯みかけた。身体が縮こまり、昔の癖が顔を出す。黙れ。従え。逆らうな。


その瞬間、アシュタルトの手がユリアの肩に触れた。


熱。確かな重み。

ユリアの背骨が、真っ直ぐになる。


「私を“聖女”にするために、この人を殺せって言うなら……私は、いらない」


ユリアは光翼の存在を見上げた。


「私が泥の中にいたとき、あなたは来なかった。私がゴミって呼ばれて、供物にされて、捨てられたとき、あなたは何もしなかった」


言葉を吐くたび、胸が痛い。けれど、痛いからこそ本当だ。


「今さら、条件付きの赦しなんていらない。……この人は、私を最初から“価値がある”って言った。私を独りにしなかった」


光翼の存在の表情が、初めて歪んだ。理解できないものを見る顔。


「魔王に惑わされている。契約の鎖が貴様の魂を縛っているのだ」


「違う」


ユリアは首を振った。


「縛ってるのは、あなたたちの言葉だよ。聖女になれ、救われろ、正しくなれ。……でも、その“正しさ”は、私を殺してきた」


息が震える。泣きそうになる。けれど泣かない。


ユリアはアシュタルトの手を取った。指先が触れ合う。そこに契約の熱が走り、胸の奥の小さな光がかすかに脈打った。


「私は、この人の主」


その宣言に、広場が凍った。


光翼の存在が冷たい声で言う。


「ならば、貴様も邪悪だ。神の秩序に背く者として、裁かれる」


光が、刃になった。


光翼が広がり、王都の空気が一斉に震える。聖なる輝きが槍の雨のように降り注ごうとする。祈りが歓喜に変わり、群衆が叫ぶ。


「裁きだ!」


「神の光だ!」


アシュタルトが一歩前へ出た。闇が膨れ、夜が牙を剥く。光と闇がぶつかる刹那、世界が割れるような圧が広場を押し潰す。


――だが、衝突は起きなかった。


ユリアの胸の奥が熱くなり、息が止まる。


自分の中の器が口を開けた。

光を、吸う。


降り注ぐはずの聖なる輝きが、ユリアへと引き寄せられ、細い糸になって胸へ流れ込む。痛い。焼けるように痛いのに、拒めない。器が、満たされようとする本能が止まらない。


「主!」


アシュタルトの声が鋼になる。ユリアの身体を支えようとするが、ユリアは首を振った。


「だいじょうぶ……っ」


本当は大丈夫じゃない。

でも、今やめたら、彼がこの光とぶつかってしまう。彼が怒りで世界を壊してしまう。

それだけは嫌だった。


ユリアは歯を食いしばり、光翼の存在を睨んだ。


「……あなたの光、冷たい」


吐き捨てるように言った瞬間、光翼の存在の瞳が揺れた。

吸い込まれた光が、ユリアの胸の奥で震え、やがて薄い白から、淡い金に変わっていく。

同じ“光”でも、形が違う。温度が違う。


ユリアの器は、ただ奪うだけではない。

通して、変える。


アシュタルトがユリアの背に手を回し、声を落とす。


「無理をするな」


「……無理じゃない」


ユリアは震えながら、笑おうとして失敗した。


「私、今……自分で選んでる」


その言葉が、アシュタルトの闇を僅かに鎮めた。

闇が刃ではなく、盾になる。ユリアを包み、焼ける痛みを和らげる。


光翼の存在が、初めて後退した。


「……器が、干渉する?」


その声に、苛立ちと困惑が混じる。


「神の光を拒むなど……貴様は何者だ、ユリア・ヴァン・クロムウェル」


ユリアは答えた。


「捨てられたゼロ。……でも、今は」


アシュタルトの手を握りしめる。


「この人の主。だから、あなたの言う“神”には従わない」


光翼の存在の目が、冷え切った。


「ならば宣告する。王国、教会、神の軍勢は、貴様らを滅ぼす。次は“勧誘”ではない。粛清だ」


光の柱が再び立ち上がり、存在はその中へ溶けるように消えた。

残ったのは、空に裂け目のような眩しさと、膝をついたまま震える人々の息遣いだけ。


しばらく誰も動けなかった。


やがて、ユリアの膝が崩れた。吸い込んだ光が胸の奥で暴れ、熱と寒さが交互に押し寄せる。


アシュタルトがすぐに抱き留める。


「主……」


声が低く震えていた。怒りではない。恐怖に近い。


「私のせいで、つらい?」


ユリアが掠れ声で聞くと、アシュタルトは眉を寄せた。


「違う。主が傷つくのが、耐えられない」


それは命令でも契約でもない響きだった。

ユリアは少しだけ目を閉じ、彼の胸に額を預ける。


「……私、後悔してない」


痛い。怖い。

でも、あの短剣を取って彼を刺す未来よりは、ずっとましだ。


アシュタルトはユリアの髪に触れ、静かに言った。


「なら、私も後悔しない。世界が敵なら、世界を退ける。だが――次からは、私が先に受け止める」


ユリアは小さく首を振った。


「一緒に受け止める。……私だけ守られるの、もう嫌だ」


その一言に、アシュタルトの金の瞳が僅かに細まり、どこか痛そうに揺れた。

まるで遠い記憶が胸を刺したみたいに。


「……そう言ったな、昔も」


聞き取れるかどうかの小さな呟き。


「え?」


ユリアが問い返す前に、アシュタルトはいつもの低い声に戻った。


「行くぞ、主。ここはもう、戦場になる」


王都の空はまだ薄暗い。

けれど今、ユリアの胸の奥には、偽りの神の冷たい光とは違う、別の輝きが確かに残っていた。


それは救いではない。

選び取った痛みと、選び取った絆の証だった。


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