第5話「王都を震撼させる夜」
黒い城に、鐘の音は届かない。
けれどその日、城の空気は「音のない鐘」に揺れた。
遠くで世界の秩序が軋み、誰かが祈りの名を借りて刃を研いでいる――そんな気配が、皮膚の内側にまとわりつく。
ユリアは胸元を押さえた。そこに、あの夜点った小さな光がまだ残っている。弱いのに、消えない。消えないから、余計に怖い。
「……来る」
アシュタルトが静かに言った。
窓の外、終焉の森の入口付近に、整然とした列が現れていた。白銀の甲冑。白い外套。紋章は王国ではなく、十字の意匠――教会直属の聖騎士団。
その先頭には、杖を持った男がいる。聖職者の衣を纏い、顔には薄い笑み。
ユリアは、その笑みを知っている気がした。人を救う顔をしながら、人を裁く目だ。
「……魔女狩り」
呟くと、アシュタルトの金の瞳が冷たく細くなる。
「貴様の“光”を嗅いだのだろうな」
扉が叩かれた。重い音。礼儀を装った暴力。
アシュタルトが指をひとつ動かすと、城を包む結界が一瞬だけ薄くなり、外の声が通った。
「終焉の森に巣食う邪悪よ! 聖告により命ずる!」
男の声はよく通る。祈りの響きで人の心を縛る声。
「魔力なき娘ユリア・ヴァン・クロムウェルは、禁忌の魔と交わり、王国と神に背いた! よって彼女を“魔女”と認定し、王都にて裁きを執行する!」
魔女。
その言葉だけで、ユリアの胃がひっくり返る。身体が、幼い頃の恐怖を勝手に思い出す。
一度貼られた烙印は、真実より強い。
「主」
アシュタルトがユリアの前に立った。背で外界を遮るように。
けれどユリアは震えながら首を振った。
「……だめ。行ったら、殺される」
「殺させぬ」
即答だった。
「でも……あなたが、みんなを……」
ユリアが言い終える前に、アシュタルトの指がユリアの頬に触れた。熱い。逃げ道を塞がれるように、安心が押し付けられる。
「主が望まぬなら、命は奪わぬ」
その言葉に、胸の奥が僅かに緩む。
しかし次の言葉が、空気を切り裂いた。
「だが、跪かせる。主に刃を向けた罪は、恐怖で償わせる」
結界の向こうで、聖職者がさらに声を張り上げた。
「抵抗するなら、討伐する! 神の名において――」
その瞬間、世界が暗転した。
結界が「壁」ではなく「王座」になったように、城から闇が滲み出し、森の空気を支配する。雨雲が裂け、光が吸い込まれていく。
聖騎士たちがざわめき、槍が揺れた。
「……黙れ」
アシュタルトの声は小さい。
けれどそれは命令ではなく、法だった。
聖騎士団の列が、いっせいに膝を折った。
甲冑が地面に当たる鈍い音が連鎖する。剣も槍も落ち、泥に埋もれる。祈りの言葉が喉で詰まり、呻きだけが漏れた。
先頭の聖職者だけが、歯を食いしばって立っていた。
彼は震えながら杖を握り、声を絞り出す。
「魔王……!」
その言葉で、ユリアの背筋が凍る。
教会はもう知っている。アシュタルトが「滅亡したはず」の存在ではないことを。
「主を魔女と呼んだ口で、私の名を呼ぶな」
アシュタルトは一歩、結界の外へ出た。
闇が彼に従い、足元の草が枯れては芽吹く。
「……アシュタルト」
ユリアは思わず名を呼んだ。止めたい。怖い。
それなのに、彼の背中から目が離せない。自分のために世界と対峙する背中を、初めて見たから。
アシュタルトは振り返らないまま言った。
「主。王都へ行く」
「……え?」
聖職者が勝ち誇ったように口元を歪める。
「連行に従う気になったか。さすがは――」
言い終える前に、闇の刃が足元を掠め、杖が真っ二つに折れた。
聖職者は悲鳴も出せず、尻餅をつく。
「連行ではない」
アシュタルトが淡々と言った。
「主を裁く場所など、この世界に存在しないと教えに行くだけだ」
ユリアの呼吸が乱れる。王都。
あの場所には、王の城があり、教会があり、処刑台がある。
そこへ行けば、戻れないかもしれない。
それでも――ユリアは一歩踏み出した。
「私も行く」
自分でも驚くほど、声ははっきりしていた。
アシュタルトが初めて振り返り、金の瞳がユリアを射抜く。
「主。怖いだろう」
「怖い」
即答した。怖い。心臓が潰れそうだ。
それでも、唇を噛み、続ける。
「でも、私だけ隠れてたら……また、奪われる」
自分の中で点った小さな光が、かすかに熱を持つ。
アシュタルトの目が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「……よい」
彼はユリアを抱き上げた。落とさない腕。逃がさない腕。
そして闇が道を作った。
森が割れ、空間が折り畳まれる。
瞬きひとつ分の間に、景色が変わった。
◇◇◇
王都は、夜だった。
まだ日が落ちる時間ではないはずなのに、空は重い鉛色に染まり、雲が低く垂れ込めている。
中央広場には人だかり。松明。十字の旗。高く組まれた処刑台。縄と杭。
「……間に合った」
ユリアの喉が鳴る。
処刑台の前に立つのは、聖職者たち。そして聖騎士団。
その後方に、見覚えのある紋章旗があった。
ヴァン・クロムウェル公爵家。
父がいる。姉がいる。母がいる。
彼らは「正義」の側に立った顔で、ユリアを見上げた。
父が叫ぶ。
「ユリア! そこで何をしている! 戻れ! お前は魔女だ!」
姉が笑う。
「やっぱり生きてたのね。よかったじゃない? 今度こそ、ちゃんと燃やしてもらえるわ」
ユリアの身体が震えた。
昔なら、その言葉で折れていた。
でも、今は――背中に熱がある。アシュタルトの気配が、世界より近い。
アシュタルトが処刑台の前へ進み出る。
群衆が悲鳴を上げ、逃げ惑う。聖騎士団が槍を構える。祈りの声が飛び交う。
「邪悪を討て! 神の名において――!」
その瞬間。
松明が、すべて消えた。
火が消えたのではない。
“夜”が上書きしたのだ。
空が裂け、黒い闇が落ちてくる。
王都の上空が、巨大な影の天蓋で覆われた。星も月も見えない。息を吸えば、暗さが肺に入るような濃密さ。
誰かが祈りの言葉を続けようとして、声にならない。
膝が折れる。剣が落ちる。人々が地面に額を擦りつける。
王都全体が、ひとつの命令で跪いた。
アシュタルトの声が、闇の中で響く。
「裁き?」
嘲りではない。事実確認のような冷たさ。
「貴様らが、誰を裁く」
彼は処刑台を見上げ、次に群衆を見渡し、最後に父たちへ視線を落とした。
「主は、貴様らの玩具ではない。貴様らの神の飾りでもない」
ユリアの胸の奥で、小さな光が脈打つ。
闇に沈まない。むしろ、闇の中で輪郭を得るように輝いた。
アシュタルトがユリアをそっと地面に下ろし、隣に立たせた。
そして、王都に宣告する。
「今宵から、この世界の“夜”は私のものだ」
闇がうねり、雲がさらに低くなる。鐘楼の鐘が鳴ろうとして、音が潰れた。
都市の灯りはすべて消え、呼吸と鼓動だけが耳につく。
ユリアは震える手を胸に当てた。
怖い。怖いのに、逃げなかった。
アシュタルトが、ユリアの肩に手を置く。
「主。望め」
その一言に、王都が息を止める。
群衆も、聖職者も、父も姉も――皆がユリアを見た。
望めば、世界が変わる。
望めば、誰かが壊れる。
ユリアは唇を震わせ、ゆっくりと口を開いた。
「……燃やさないで」
声は小さい。けれど、闇の王都に落ちたその言葉は、祈りより重かった。
「……誰も、殺さないで。私は……ただ、もう二度と、奪われたくない」
アシュタルトの金の瞳が、ほんの僅かに細まる。
「承知した、主」
彼は一歩前へ出て、闇を静かに収束させた。
だが消しはしない。天蓋は残る。逃げ場のない恐怖だけを、王都に刻み込むように。
「聞け」
声が落ちる。
「主に刃を向けた者は、今夜の闇を忘れるな。次は命ではなく、魂から光を奪う」
聖職者たちの顔が青ざめる。
父は言葉を失い、姉は膝をついたまま唇を噛み、母は震えて扇を落とした。
ユリアはそれを見て、胸が痛んだ。
それでも、目を逸らさなかった。
ここで逸らしたら、また自分を捨てることになる。
アシュタルトは、ユリアにだけ聞こえる声で言った。
「主。これで、貴様を“魔女”と呼ぶ口は減る」
ユリアはかすかに頷いた。
王都の夜は深い。深すぎて、誰も光を探せない。
けれどユリアの胸の奥の小さな光だけは、闇に沈まなかった。
その光が、次に呼び寄せるものを――ユリアはまだ知らない。
神の側から来る「本物の裁き」が、すでに空の向こうで形を成し始めていることを。




