第4話「失われたはずの『光』」
城の外は、相変わらず終焉の森だった。
枝は黒く濡れ、風が吹けば獣の唸りのような音を立てる。けれど黒い城の周囲だけは、空気の質が違っていた。雨は薄い膜で弾かれ、魔物は遠巻きに息を潜め、近づこうともしない。
ユリアは窓辺に立ち、森の暗さを見下ろしていた。
「……また、来るよね」
背後から低い声が返る。
「来る」
アシュタルトは椅子に腰掛け、指先でワイングラスを揺らしていた。赤い液体は入っていない。ただの水だ。彼にとって飲み物の意味は薄いのだろう。必要なのは、主の命の気配だけ。
「公爵家だけじゃない」
アシュタルトが続けた。
「王都も、教会も、神の眷属も。貴様の存在は、彼らにとって都合が悪い」
ユリアは窓ガラスに指先を当てる。冷たい。城の中は温かいのに、外の冷たさだけが現実みたいに突きつけてくる。
「……私が、弱いから」
その言葉は、昔の癖だった。責められる前に責める。価値がないと先に言えば、他人の言葉が少しだけ薄まる。
けれどアシュタルトは、当然のように否定する。
「違う。貴様は弱いのではない。貴様を弱いことにしておきたいだけだ、あいつらは」
ユリアは振り向いた。アシュタルトの金の瞳は揺らがない。慰めでも同情でもない、ただの断定だった。
「でも……私は、魔力がない」
言ってしまってから、胸が痛む。
それを口にするたび、幼い頃の冷たい床と、嘲笑と、叩かれた音が蘇る。
アシュタルトはグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。
「主。まだ“ゼロ”だと信じているのか」
「……だって、測定でも」
「測定器は、現代の魔力に合わせて作られている」
アシュタルトはユリアの前に立つと、指先で彼女の額に触れた。軽く、熱が伝わる。
「千年前……いや、数千年前の世界は、今より魔力が濃かった。空気に溶け、土に満ち、海に渦巻いていた。魔法は呼吸と同じだった」
ユリアは息を呑む。彼の語る“昔”は、教会が禁じた伝承と一致している気がした。だからこそ怖い。
「けれど今は薄い。枯れたわけではないが、量が違う。器が大きすぎれば、どれだけ注いでも“空”に見える」
ユリアの喉が鳴った。
「……器?」
アシュタルトは微かに目を細めた。
「貴様は“虚無の器”ではない。虚無に見えるほど、大きい器だ」
その言葉が、脳の奥で反響する。
大きい。器。
価値がないのではなく、満たされていないだけ。
そんな理屈があるなら、今までの苦しみは何だったのか。怒りが湧くより先に、怖さが来た。もし本当なら、自分は何者なのか。
ユリアが唇を開く前に、アシュタルトが言った。
「確かめる」
「……どうやって?」
「私の魔力を流す」
ユリアは一歩、無意識に下がった。
アシュタルトの魔力。
あの夜、封印が解けたときの闇の奔流。見ただけで息が止まりそうになった圧倒的な“終焉”。
そんなものを、自分に?
「怖い?」
彼は問う。責める響きはない。
ユリアは首を横に振ろうとして、止まった。
怖い。けれど、怖いと言ったら何も変わらない。
変わらないまま、また誰かに奪われる。
「……少しだけ」
そう言うと、アシュタルトは頷いた。
「なら、少しだけだ」
彼は広間の奥へユリアを導いた。床には何もないはずなのに、アシュタルトが指先を払うと、黒い線が走り、古い文様が浮かび上がる。魔法陣。けれど森の広場のそれと違い、城の魔法陣は整っていて、清潔で、鋭い。
「座れ」
ユリアは魔法陣の中心に座る。外套越しでも、床の冷たさはない。むしろ、ぬくもりが下から支えてくる。
アシュタルトはユリアの前に膝をついた。
第1話で見た光景が、もう一度重なる。違うのは、今度はユリアが震えて逃げなかったことだ。
「手を出せ」
ユリアが手を伸ばすと、アシュタルトは指先でその掌を包んだ。熱い。人間の熱と違う。炎に近いのに、焼ける気配はない。
「痛むなら止める」
「……うん」
アシュタルトが目を閉じる。
城全体が、ひと呼吸したように静まった。
次の瞬間、ユリアの体内に“何か”が流れ込んだ。
闇――ではない。
闇よりも深い、“無色”の奔流。重いのに、透明。冷たいのに、熱い。矛盾した感覚が一気に押し寄せ、ユリアは息を詰まらせた。
「……っ!」
喉が震え、肩が跳ねる。逃げ出したいのに、手が離れない。離したくないのかもしれない、と思ってしまってさらに怖い。
アシュタルトの声が、近くで響く。
「見ろ、主。抵抗するな。受け止めろ」
ユリアは目を見開いた。
視界が変わっていた。
空気の中に、細い糸のようなものが見える。
床にも、壁にも、天井にも、無数の“流れ”が走っている。魔力の流路。今まで見えなかった世界の血管。
その糸が、アシュタルトからユリアへ、太い川のように注ぎ込んでくる。
注ぎ込まれているのに、溢れない。
溢れないどころか――
足りない。
もっと欲しい、と身体の奥が叫ぶ。自分の意志とは別の場所で、器が空のまま口を開けている。恐ろしいほどに、広く、深い。
「……これが、私?」
ユリアの声が震えた。
アシュタルトは目を開け、金の瞳でユリアを見た。そこにあるのは確信と、ほんの僅かな苛立ちだった。今まで彼女を“ゼロ”だと断じた世界への苛立ち。
「そうだ」
アシュタルトはユリアの手を離さず、魔力の流れを少しだけ強くした。
ユリアの胸の奥で、何かが点った。
小さな火花。
闇ではない、淡い光。白にも金にも見える、透明な輝き。
それが胸から喉へ、頬へ、指先へと広がっていく。
「……あ」
ユリアの指先に、光が宿った。
本当に小さい。蝋燭の火にもならない。けれど確かに、そこに“魔力”がある。
ユリアは泣きそうになった。
嬉しいからではない。怖いからだ。
自分の中に、今までなかったはずのものが生まれてしまった。
「主」
アシュタルトの声は低い。
「まだだ。光は“満ちた器”の表層だ。貴様の本質は、その奥にある」
「奥……?」
アシュタルトはユリアの指先を見つめ、僅かに唇を歪めた。
「貴様は、魔力を“溜める”だけではない」
その言葉が終わる前に、ユリアの周囲の糸が、ふっと細くなった。
空気の流れが、吸い込まれるようにユリアへ向かう。
ユリアは何もしていないのに、世界の魔力が彼女へ寄ってきている。
まるで。
空の器が、周囲の水を勝手に引き寄せるみたいに。
「……や、やめて……!」
怖くなって声を上げると、アシュタルトがすぐに魔力の流れを断ち切った。
糸が戻り、空気が落ち着く。
ユリアは大きく息を吸い、肩で呼吸した。
「今の、なに……」
アシュタルトは立ち上がり、ユリアの額に軽く口づけるように指先を当てる。触れるだけ。けれど、その仕草が不思議に落ち着かせた。
「吸収だ」
「吸収……?」
「貴様の器は、空であることに耐えられない。満たそうとする。周囲から奪ってでも」
ユリアの背筋が冷える。奪う。
その言葉が、教会が語る禁忌と重なった。
「……私、魔女みたい」
呟くと、アシュタルトの金の瞳が細くなる。
「魔女ではない。主だ」
断言。
それでもユリアの不安は消えない。もし制御できなかったら? もし周囲の魔力を吸い尽くしてしまったら? もし誰かを傷つけたら?
ユリアは唇を噛み、震える声で言った。
「私、こわい。私のせいで、また誰かが……」
アシュタルトはユリアを抱き上げた。唐突で、乱暴ではない。壊れ物を扱うように、でも逃がさない強さで。
「主が怖いなら、制御を教える」
彼はユリアの耳元で言う。
「貴様の力は、貴様の罪ではない。貴様の生まれだ。生まれを罪にするのは神のやり方だ。私は違う」
ユリアはアシュタルトの胸に額を押し付けた。心臓の低い鼓動が、さっき乱れた呼吸を整えていく。
「……私、強くなれる?」
問うと、アシュタルトは迷いなく答えた。
「なれる。いや、なる」
その声は甘いのに、絶対だった。
「主が望むなら、世界は貴様の力を受け入れるしかない。受け入れないなら――壊して作り直す」
ユリアは笑えなかった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
“守られる”だけではなく、“共に立つ”道が見えた気がしたから。
そのとき。
城の遠くで、鈍い鐘の音のようなものが鳴った。
音ではなく、気配だ。空気が震える。誰かが“見た”。
ユリアは顔を上げる。
「……なに?」
アシュタルトの目が、窓の外の空へ向く。金の瞳が冷え、唇がわずかに吊り上がった。
「嗅ぎつけたな」
「誰が……?」
「教会だ」
アシュタルトはユリアを抱いたまま、静かに言い切る。
「主の中で点った“光”を。失われたはずのものを。――そして、私の復活を」
ユリアの胸の奥で、さっき生まれた小さな光が、かすかに脈打った。
それは希望にも見えたし、戦いの合図にも見えた。
城の外の闇が、さらに濃くなる。
世界が二人を、見つけ始めていた。




