第3話「招かれざる再会」
目覚めたとき、ユリアは自分がどこにいるのか、一瞬わからなかった。
天蓋から落ちる柔らかな布。白い寝具。肌を撫でる、乾いて温かな空気。
雨の匂いもしない。泥の冷たさもない。
――夢?
胸がざわつき、ユリアは勢いよく起き上がった。
その瞬間、ベッドの端に置かれていた黒い外套が、するりと滑るように持ち上がり、ユリアの肩へそっと掛かった。
まるで、主を守るためだけに生きている生き物みたいに。
「……っ」
息を呑む。
扉の向こうに気配がある。昨夜と同じ、重く、絶対的で、なのに不思議と怖くない気配。
「起きたか」
扉が開く。
アシュタルトが入ってきた。黒髪は光を吸い、金の瞳は朝の色を知らないのに、ユリアの顔を見た瞬間だけ、わずかに温度を帯びた気がした。
「……おはよう」
ユリアの挨拶はぎこちなかった。
言葉が、口の中で迷子になる。誰かに「おはよう」を言うこと自体、久しぶりだった。
アシュタルトは少し首を傾げ、それでも答える。
「……ああ。おはよう、主」
主。
その呼び方に、胸の奥がくすぐったく痛む。
昨夜、眠れと命令されて眠った。
目覚めても、ここは消えていない。
それが嬉しいのに、怖い。
「食事を用意させた」
アシュタルトが指を鳴らすと、扉の外から静かな足音が聞こえた。
入ってきたのは、人間ではなかった。背の低い、角のある小さな魔物たちが、恐る恐る盆を運んでくる。ユリアを見ると怯え、しかしアシュタルトの視線を感じると必死に頭を下げた。
「……この者たちは?」
「私の眷属だ。貴様に害はない」
盆の上には温かなパンと、甘い香りの粥、湯気の立つ茶が並んでいた。
ユリアはそれを見て、また胸が詰まる。
“用意させた”という言葉に、罪悪感が浮かんだ。
自分は何もしていない。何もできない。
それなのに、与えられている。
「……私、働かないと」
口をついて出たのは、いつもの防衛だった。
役に立たなければ捨てられる。
それが、この世界のルールだ。
アシュタルトの目が細くなる。
「働く?」
「……家では、そうだったから。役に立てないと、存在してはいけないって」
言った瞬間、舌が冷たくなる。
言うべきじゃなかった。恥ずかしい。惨めだ。
けれどアシュタルトは、恥も惨めも感じない者のように、淡々と言った。
「ここは私の城だ。私のルールで動く。主の存在が役目だ」
「……存在が?」
「主が生きている。それだけで、私は満たされる」
言葉の意味が理解できず、ユリアは目を瞬かせた。
そんな理屈、聞いたことがない。
けれど、理解する暇はなかった。
城の外――森の方角から、遠く、金属の擦れる音が聞こえた。
人の気配。複数。整然とした歩み。魔物ではない。
アシュタルトの瞳が、わずかに冷える。
彼は何も言わず、窓の方へ視線を向けた。
次の瞬間、城全体が小さく震えた。
外壁を叩く衝撃。
誰かが結界に触れたような、鈍い反発音。
ユリアの心臓が跳ねる。
嫌な予感が、喉を締め付ける。
「……来た」
思わず漏れた声に、アシュタルトがユリアを見る。
「誰だ」
「……私を、連れ戻しに」
それは最悪の言葉だった。
けれど、否定できない。
生贄として捨てたはずの“ゼロ”が生きていると知れば、あの家が黙っているはずがない。
捨てた汚点が、外で生きている。それは彼らの面子に関わる。
アシュタルトは静かに立ち上がる。
床に影が伸び、部屋の温度が一段下がったように感じた。
「主はここにいろ」
「……でも」
「命令だ」
昨夜の優しい命令とは違う。鋼のように揺らがない命令。
ユリアは言葉を飲み込み、頷くしかなかった。
アシュタルトが扉へ向かう。
その背に、ユリアは衝動的に声を投げた。
「……アシュタルト!」
彼が振り返る。
ユリアは指先を握りしめ、喉の奥から絞り出した。
「……殺さないで。お願い。……私のせいで、誰かが死ぬのは、いや」
自分が何を言っているのかわからなかった。
あいつらは、自分を殺そうとした。
それでも、死んでほしいと願うと、自分が壊れてしまいそうだった。
アシュタルトは数秒、ユリアを見つめた。
金の瞳が、獣のように鋭いまま、どこか困ったように細くなる。
「……主が望むなら」
彼は短く言った。
「死は与えぬ。だが――主に触れる者は、例外なく砕く」
扉が閉まる。
気配が遠ざかり、代わりに城の外の空気が張り詰めていくのがわかった。
ユリアは立ち上がりたかった。けれど足が震えて動かない。
窓へ近づき、そっと外を覗く。
森の広場の端に、甲冑の列が見えた。
王都の騎士ではない。公爵家の私兵。紋章旗が雨上がりの空気に揺れている。
その先頭に、見慣れた馬車があった。
ヴァン・クロムウェル家の紋章。
胃の奥が、冷たく沈む。
馬車の扉が開き、父が降りた。
隣には姉。母もいる。
彼らは森に入るのを嫌がっていたはずなのに、今は顔をしかめながらも、こちらへ歩いてくる。
結界の前で彼らは止まり、父が声を張り上げた。
「ユリア! そこにいるのだろう! 戻ってこい!」
その声は、命令だった。
昔と同じ。
ユリアの身体が勝手に縮こまる。
姉が笑う。
「ほんと、しぶといわね。供物のくせに」
母は口元を扇で隠し、汚いものを見る目をした。
「森で野垂れ死にしてくれていたら、どれほど助かったか」
ユリアは息ができなくなる。
胸がきしむ。
ここが安全だとわかっているのに、言葉だけで身体が縛られていく。
そのとき。
空気が、沈んだ。
アシュタルトが彼らの前に現れたのだ。
音もなく。影から染み出るように。
私兵たちが一斉に槍を構えた。
だが次の瞬間、槍の先が震え、男たちは顔面蒼白になる。
アシュタルトが何かをしたわけではない。
ただ、視線を向けただけだった。
魔王の金の瞳が、列をなぞる。
そこに“命”の重さを量る光はない。
あるのは、主を脅かすものを排除する当然の理だけ。
「……誰だ」
低い声が森に響く。
父が一歩引き、すぐに威厳を装って胸を張った。
「私はヴァン・クロムウェル公爵だ! その女は我が娘! 返してもらう!」
アシュタルトが口元を歪めた。
「主に対して、娘だと?」
父の眉が跳ねる。
「主? 何を馬鹿な。あれは魔力ゼロの出来損ないだ。家の汚点だ。戻して処分する。お前のような魔物に渡す理由など――」
言い終える前に、父の足元の地面が割れた。
闇が裂け、黒い鎖が伸び、父の足首に巻き付く。
父が悲鳴を上げた。
私兵が駆け寄ろうとして、動けない。膝が勝手に折れ、地面に額を擦りつけるように伏せてしまう。
恐怖で、体が言うことを聞かないのだ。
姉の顔が引きつる。
「な、なによそれ……! やめ――」
アシュタルトの視線が姉に移った瞬間、姉は言葉を失った。
喉から変な音が漏れ、膝が崩れる。
「……主を“汚点”と呼んだな」
アシュタルトの声は静かだった。
静かだからこそ、凶悪だった。
「貴様らに主を語る資格はない。主は貴様らの所有物ではない」
父が泥の上でもがく。鎖が締まり、喘ぎ声が漏れる。
「ユリア! 戻ってこい! 命令だ! 私がお前の父だぞ!」
その言葉に、ユリアの喉が詰まった。
身体が、従おうとする。長年の刷り込みが叫ぶ。逆らうな。逆らうと痛い目に遭う。
――違う。
ユリアは歯を食いしばった。
ここには、あの家のルールはない。
それでも足が動かない。
震える。
そのとき、背後の扉が開いた。
誰もいないはずの部屋に、気配が増える。
アシュタルトの気配だ。
いつのまにか戻ってきたのか、ユリアの隣に立っていた。
「主」
彼はユリアの肩に、そっと手を置いた。
熱が伝わり、震えが少しだけ収まる。
「見せてやる。貴様がもう“彼らの世界”のものではないと」
アシュタルトが一歩前へ出る。
窓の外の風景が歪んだ。
闇が城の外壁に沿って走り、結界が薄い膜から、鋼の壁のように変質していく。
彼の声が、森全体に響く。
「聞け、人間ども」
父も姉も、私兵も、息を止めた。
「この城に迎え入れられた者は、私の主だ。私が膝をつき、忠誠を誓った唯一の存在だ」
言葉が、世界の宣言になる。
それほどの重みがあった。
「ユリアは私のものだ」
その一言に、ユリアの胸が強く脈打った。
所有される言葉なのに、なぜか怖くない。
怖いはずの“縛り”が、今は“守り”に聞こえる。
父が震えながら叫ぶ。
「ふざけるな! あれは――」
アシュタルトの指が軽く動いた。
鎖が跳ね上がり、父の身体を宙へ引きずり上げる。
首が絞まる寸前で止まり、父は醜く喘いだ。
アシュタルトは冷たい声で言う。
「主は“殺すな”と望んだ」
そして、ほんの僅か、唇が歪む。
「だから殺さぬ。だが――二度と主の名を口にするな。次は“望み”がなくとも、息を奪う」
姉が泣きそうな声を上げた。
「ユリア! 戻ってきなさいよ! あなたは私たちの――」
ユリアの身体がびくりと反応する。
けれど、肩に置かれた手の熱が、心臓を落ち着かせた。
ユリアは唇を開く。
声は震える。
けれど、逃げない。
「……違う」
自分の声が、森に落ちた。
父が目を見開く。
「ユリア……?」
「私は……あなたたちの供物じゃない」
言った瞬間、涙が滲んだ。怖い。怖いのに、言えた。
初めて、自分の言葉で否定できた。
アシュタルトの手が、優しくユリアの肩を押す。
背後へ守るように立たせる。
そして彼は、さらに冷酷な宣告を下した。
「帰れ」
ただそれだけで、空気が刃になる。
私兵たちは震えながら後退し、誰も抵抗しようとしない。できない。恐怖が思考を奪っている。
父は泥の上に落とされ、咳き込みながら立ち上がった。
屈辱に顔を歪め、それでも命惜しさに唇を噛む。
「……覚えていろ」
吐き捨てるように言い、馬車へ引き返す。
姉と母も、震えながら後に続いた。
森の奥へ去っていく紋章旗を、ユリアはただ見つめていた。
身体の力が抜け、膝が折れそうになる。
アシュタルトがすぐにユリアを抱き留める。
「よく言った」
その言葉が、胸の奥に落ちて、熱になる。
ユリアは小さく息を吐き、かすれた声で言った。
「……私、怖かった」
「知っている」
アシュタルトは即答する。
「怖くていい。主が震えるなら、私はその震えごと守る」
ユリアは彼の胸に額を押し付けた。
鼓動が、低く、確かに響いている。
それが、この世界で一番安全な音に思えた。
けれど同時に、ユリアはわかっていた。
今の出来事は、終わりではない。
公爵家は引き下がらない。王都も教会も、いずれ嗅ぎつける。
そして何より――“魔王が復活した”という事実は、この世界の秩序そのものを揺るがす。
アシュタルトは窓の外の森を見たまま、静かに言った。
「主。いずれ、この世界は貴様を奪いに来る」
ユリアの喉が鳴る。
「……どうしたらいいの」
アシュタルトは振り返り、金の瞳でユリアを見下ろした。
そこにあるのは、絶対の確信。
「簡単だ」
彼はユリアの頬に触れ、冷たい涙の跡を拭う。
「奪わせねばいい。世界ごと、ひれ伏させる」
その言葉は恐ろしくて、同時に甘かった。
ユリアは笑えないのに、なぜか胸の奥が満たされていくのを感じた。
――招かれざる再会は、終わった。
そして、もっと大きな波紋が、すでに世界へ広がり始めていた。




