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魔力ゼロの令嬢と終焉の魔王 〜百年の輪廻を越えて、再び溺愛される〜  作者: 綾瀬蒼


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第2話「魔王様の甘すぎる『奉仕』」

雨は、いつのまにか遠ざかっていた。


正確には、雨音だけが遠い。ユリアの頬にも髪にも、冷たい滴はもう落ちてこない。

アシュタルトに抱き上げられたまま森を進む間、彼の身体の周囲だけ、透明な膜が張られたように雨が弾かれていた。


「……ねえ」


ユリアは恐る恐る声を出した。喉が乾いて、言葉が掠れる。


「どうして、そんなことするの」


「主だからだ」


即答だった。迷いも照れもない。

ユリアはその二文字に胸の奥をくすぐられるような、ひどく落ち着かない感覚を覚えた。


主。自分が。

そんなはずがないのに。


森は暗い。濡れた枝が腕を叩き、足元では泥が吸い付くように重い。けれどユリアは歩かなくていい。痛む爪も、裂けた掌も、もう地面に触れない。


「契約は等価だと言っただろう」


アシュタルトの声は淡々としているのに、耳に触れると妙に甘い。


「貴様の血で封印は解けた。私の魂は貴様に縛られ、貴様の命は私が守る。主が倒れれば、私も終わる。ゆえに、守る。単純だ」


単純。

その言葉が、ユリアには怖かった。


守る理由が、優しさではなく契約だと言われた方が、安心できる。

期待してしまうことが、今まで何より危険だったから。


でも――それでも。


ユリアはちらりと彼の横顔を盗み見る。濡れない黒髪。金の瞳。額の角。

“魔王”という言葉が似合いすぎて、現実感が薄れるのに、腕の熱は確かに本物だった。


「……私、利用されるの?」


気づけば、口が勝手に動いていた。


アシュタルトの足が止まる。

森の闇が一段深くなった気がした。


「利用?」


彼はゆっくりと問い返した。


「貴様の世界では、何かを与える者は、必ず見返りを求めるのか」


ユリアは答えられない。

答えは、もちろん「そう」だ。けれど、それを口にした瞬間、何かが壊れそうだった。


アシュタルトはユリアの顔を見た。そこにあるのは怒りではなく、理解しがたいものを見る目――そして、微かな苛立ちだった。


「……くだらん世界だ」


低く呟き、彼は再び歩き出す。


「神どもは、与えるふりをして奪う。人間も同じか。だが私は違う。私は主に忠誠を誓った。忠誠は取引ではない」


忠誠。

ユリアはその言葉の意味を、頭では理解できても、身体が信じられなかった。


やがて森の奥、視界が開けた。

そこには本来、何もないはずだった。岩と泥と、倒木があるだけの、ただの広場。


なのに。


アシュタルトが片手を軽く上げた瞬間、空気が鳴った。

闇が濃くなり、黒い霧が渦を巻く。霧は地面に吸い込まれ、次の瞬間、形を持って噴き出した。


柱が立つ。壁が伸びる。屋根が組み上がる。

まるで巨大な見えない手が、夜そのものを積み木のように積み上げているみたいに。


「……城?」


ユリアの声は、自分でも情けないほど小さかった。


黒い城が、そこに“完成”していた。

禍々しいのに、どこか静謐で。森の不気味さとは違う種類の威厳がある。雨音は城の周囲で薄い膜に弾かれ、外界が遠のいた。


「主に野宿はさせぬ」


アシュタルトは当然のように城門を開く。重い扉が音もなく滑り、内部の暗闇が口を開ける……はずなのに、ユリアの目は不思議と闇に怯えなかった。


壁に灯るのは、火ではない。

星屑みたいな淡い光が空気に浮かび、道を示している。


足を踏み入れた瞬間、ユリアの皮膚がひやりとした。

違う。冷たいのではない。澄んでいる。森の湿気とは別の、乾いた清浄さ。


「ここ……こわい」


思わず漏れた本音に、ユリアは自分で驚いた。

“こわい”と言ったら殴られる。嫌だと言ったら捨てられる。そういう世界で生きてきたはずなのに。


アシュタルトは立ち止まり、横顔だけでこちらを見る。


「恐怖は命令だ」


言い切る。


「主が怖いと言うなら、私が取り除く。どうすればいい」


どうすれば。

ユリアは答えられない。そんな質問をされたことがない。


「……わ、わからない」


唇が震えた。

言った瞬間、体がすくむ。怒られる、と思った。


けれどアシュタルトは怒らなかった。

ただ、短く息を吐く。


「なら、まず温める」


彼はユリアを下ろさず、広間を抜け、奥の部屋へと向かった。扉が開くと同時に、温かい匂いが押し寄せる。湯気と香草と、柔らかい油の匂い。


机の上に、湯気を立てる椀が並んでいた。


白いパン。澄んだスープ。小さく切られた肉。果実水。

見ただけで喉が鳴る。けれど、ユリアの指は動かない。


「……これ、私に?」


「他に誰がいる」


アシュタルトはユリアを椅子に座らせると、どこからともなく現れた黒い外套を肩に掛けた。外套は重くないのに、掛けた瞬間、冷え切っていた体が内側から温まっていく。


ユリアは椀に手を伸ばしかけて、止まった。

胸の奥の、古い恐怖が引っ張る。


与えられるものには必ず代償がある。

食べたら、何かを奪われる。

優しくされたら、後で倍にして返せと言われる。


ユリアの震えに気づいたのか、アシュタルトの眉が僅かに寄った。


「……主。貴様は、食事も“許可”がなければ取れぬのか」


ユリアは俯いた。

答えの代わりに、喉がひくついた。


アシュタルトは椀を一つ手に取り、スープを軽く冷ます。

それから匙ですくい、ユリアの口元へ差し出した。


「熱い。ゆっくりだ」


「……わ、私、自分で……」


言った瞬間、しまったと思った。拒んだら怒られる。

けれどアシュタルトは即座に匙を引いた。


「なら、そうしろ」


その一言が、恐ろしいほど自然だった。

押し付けない。命令しない。

ユリアはそれが一番怖かった。優しさは、いつも罠だったから。


それでも、腹の奥が痛いほど空いている。

ユリアは震える手で椀を持ち、ほんの少し口に含んだ。


温かい。

それだけで、涙が出た。


「……おいしい」


声がかすれる。

自分の口から出た言葉なのに、遠く感じた。


アシュタルトは一瞬だけ目を丸くし、すぐに視線を逸らす。

まるで、感情の扱い方がわからないみたいに。


「そうか」


短い返事。けれど、そこに確かな安堵が混じっていた。


ユリアは少しずつ食べた。

パンは柔らかく、肉は塩気がちょうどいい。果実水は甘く、喉の痛みが溶ける。


食べながら、ふと気づく。

この部屋には、誰もユリアを見下ろす視線がない。

笑い声も、侮蔑も、命令もない。


その静けさが、逆に胸を締め付けた。


食事の後、アシュタルトは浴室へ案内した。

扉の向こうには白い湯気が満ち、湯船の水面が滑らかに揺れている。


「洗え。血と泥のまま眠るな」


それは命令に聞こえた。

でも、ユリアは拒まなかった。拒む理由が見つからない。拒んだら戻ってしまいそうだった。冷たい泥の世界へ。


浴室に一人になると、急に膝が震えた。

湯が贅沢すぎる。匂いが優しすぎる。

夢みたいで、いつか殴られて目が覚める夢みたいで。


服を脱ぐ指が、止まる。

背中に刻まれた古い傷が、湯気の中で浮かび上がる。

こんなもの、誰にも見せたくなかった。


ユリアは湯に足を入れた。


熱い。

熱くて、痛いほどで――それでも、その痛みは“生きている”痛みだった。


肩まで沈めた瞬間、嗚咽が漏れた。

声を押し殺そうとしても、止まらない。胸の奥の何かが、湯と一緒に溶け出してしまう。


浴室の外から、低い声がした。


「主」


扉の向こうに、アシュタルトがいる。気配だけでわかる。

近いのに、入ってこない。覗いてこない。


「……泣くなとは言わぬ。だが、独りにするつもりもない。扉の外にいる。必要なら呼べ」


ユリアは湯の中で、息を呑んだ。

そんな言葉を、誰かに向けられたことがなかった。


「……へんなの」


小さく呟く。

自分が、こんなことで救われそうになっている。


湯から上がると、ベッドのある部屋へ案内された。

見たこともないほど大きく、白い寝具がふかふかに整えられている。部屋の温度はちょうどよく、空気は乾いて柔らかい。


ユリアは足を止めた。


「……寝ていいの? 私が」


「いい」


アシュタルトは当然のように言う。


「主が眠る場所だ。主が寒ければ、城ごと燃やして温める。主が怖ければ、世界を黙らせる」


言葉は過激なのに、口調は穏やかだった。

ユリアの胸の奥で、恐怖と安心がぐちゃぐちゃに混ざる。


「……私が、望んだら……あなたは、本当に、全部するの?」


ユリアが尋ねると、アシュタルトは少しだけ首を傾げた。


「主の望みは、私の法だと言った」


そして、金の瞳が僅かに柔らかくなる。


「だが、私は主に“望ませたくない”ものもある。復讐は甘い。甘い毒だ。主がそれで壊れるなら、私は世界より先に主を守る」


ユリアは言葉を失った。

守る。世界より先に。

そんな優先順位を、誰も自分に与えたことがない。


ユリアはベッドの端に腰掛け、指先で白い布を撫でた。柔らかい。信じられない。

涙がまた滲みそうになって、慌てて瞬きをする。


「……ねえ、アシュタルト」


名前を呼ぶと、彼が視線を寄こす。


「なにか、命令して」


自分でも意味がわからなかった。

命令される方が慣れている。命令がある方が安心する。

自由は、怖い。


アシュタルトはしばらく黙っていた。

それから、静かに言う。


「なら、命令する」


ユリアの心臓が跳ねた。


「……眠れ。今日は、生き延びた。それで十分だ」


命令なのに、叱責ではない。

許しのような言葉だった。


ユリアは布団に潜り込む。ふわりと包まれる感覚に、胸が痛む。

目を閉じるのが怖い。目を閉じたら、全部消えてしまいそうで。


けれど、扉の外にいる気配が、確かにユリアを繋ぎ止めた。


「……独りにしないって、言ったよね」


小さな声で確認する。

子どもみたいで恥ずかしいのに、止められない。


扉の向こうから、低い声が返った。


「言った」


短い。だが揺らがない。


「主が望むなら、永遠にだ」


ユリアのまぶたが、ゆっくりと重くなる。

怖いのに、温かい。

その矛盾の中で、ユリアは初めて、安心して眠りへ落ちた。


そして、城の外。


終焉の森に潜む魔物たちは、黒い城を遠巻きにし、決して近づかなかった。

その中心にある気配が、“滅亡したはずの魔王”であることを、本能で理解していたからだ。


――世界は、まだ何も知らない。


魔力ゼロの令嬢が、魔王の「主」として迎えられたことを。

その小さな眠りが、やがて王都を、教会を、神さえも揺らす始まりになることを。

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