第1話「泥に咲く、絶望の花」
降りしきる雨は、ユリアの薄汚れたドレスを重く冷たく、肌に張り付かせていた。裾は泥を吸って鉛のように重い。指先はかじかみ、息を吸うたび胸の奥がひりつく。
馬車の扉が乱暴に開かれた。
「おい、ここでいい。さっさと降りろ」
御者の冷酷な声に背中を押され、ユリアは踏み台も使わせてもらえないまま外へ突き飛ばされた。肩から地面に落ち、泥水が跳ねる。顔を拭おうとしても、指は思うように動かない。
見上げた先には、立ち入りさえ禁じられた「終焉の森」の入り口が口を開けていた。黒々とした樹々が密に絡み、奥は昼でも夜のように暗い。森の中からは、獣とも何ともつかない低い唸りが、雨音に混じって聞こえてくる。
馬車の窓が、きぃ、と僅かに開いた。
「ユリア」
父――ヴァン・クロムウェル公爵の声は、石のように冷たかった。彼は娘を見る目を持っていない。見ているのは、家名に付いた汚れだけだ。
「公爵家の娘として最後に役に立ちなさい。魔物への供物として死ぬことが、お前の唯一の存在意義だ」
ユリアは唇を噛んだ。血の味がした。反論の言葉は山ほどあるはずなのに、喉は凍ったように動かない。幼い頃から叩き込まれてきたのは、言葉を持つことは許されないという事実だった。
「……お父様……」
声は雨に溶けて消えた。窓の向こう、姉の視線が一瞬だけこちらを掠め、すぐに興味を失ったように逸れる。母はそもそも顔すら見せなかった。
扉が閉まり、馬車が軋む音を立てて動き出す。泥を跳ね上げながら、無情にも遠ざかっていく。
ユリアは取り残された。
魔力がすべての世界「アルカディア」。そこでは、魔力を持たぬ者は人として数えられない。名門の血に生まれながら、ユリアは魔力が一欠片も存在しない「虚無の器」だった。測定具が何度壊れたと噂されても、結果は変わらない。ゼロは、ゼロ。
存在してはいけないもの。
雨が強くなる。冷えが骨まで染み、歯が勝手に鳴った。その瞬間、森の奥で何かが木をへし折る音がした。低い咆哮が、背中に爪を立てるように迫る。
――来る。
ユリアは反射的に立ち上がり、森へと足を引きずった。逃げる理由は、正直わからない。死にたくないわけではない。けれど、あいつらの言いなりになって「供物」として死ぬのだけは嫌だった。最後の最後まで、自分の足で選びたかった。
枝が頬を裂き、腕を掠める。足元は滑り、泥に足を取られる。それでも前へ。後ろで何かが唸るたび、心臓が喉まで跳ね上がった。
どれほど走っただろう。森の暗さに目が慣れてくるころ、不自然に開けた広場へ出た。雨がそこだけ薄い。空は見えないのに、黒い天蓋の下にいるようだった。
そして、地面に刻まれたものが目に入る。
苔に覆われた巨大な魔法陣。幾重にも重なった幾何学模様。溝には古い血の色が沈み、長い歳月で黒く固まっている。触れた瞬間、指先がじんと痺れた。
「……なに、これ……」
声が震えた。恐ろしいのに、目が離せない。まるで呼ばれているみたいに。
ユリアは後ずさろうとして、足を滑らせた。膝が地面に当たり、痛みが走る。掌をついた瞬間、尖った石で皮膚が裂けた。
血が滲み、雨に薄まって流れる。
それが、魔法陣の溝へと落ちた。
――キィィィィィィィン!
鼓膜を突き刺すような高音が響き、大地が激しく揺れた。ユリアは思わず耳を塞ぐ。揺れは止まらない。魔法陣の溝が赤く脈打ち、黒い霧が噴き出した。
光ではない。夜そのもののような闇の奔流。
雨の音が消えた。森のざわめきが凍りつく。代わりに、広場の空気が圧倒的な重みを帯び、息ができなくなる。
低い声が、闇の奥から響いた。
「……我が封印を、解いたのは誰だ」
言葉なのに、地面が喋っているようだった。声が骨に触れ、身体の芯を揺らす。
闇が裂け、そこから一人の男が現れた。
漆黒の長髪は雨を弾き、額から伸びる二本の禍々しい角が、薄暗い空間に影を落とす。金色の双眸は獣のように鋭く、それでいて冷たい星のように澄んでいた。彼がただ立っているだけで、周囲の草が枯れ、別の草が異常に芽吹き、生命と死が同時に蠢いた。
森の奥で唸っていたはずの魔物たちが、恐怖の悲鳴を上げて逃げ出す気配がする。
男はユリアへ視線を落とし、ゆっくりと歩み寄った。足音は静かなのに、地面が沈むような圧がある。
「貴様か。……魔力の一欠片も持たぬ、矮小な人間よ」
ユリアは震えた。喉が鳴る。逃げなければ、と思うのに足が動かない。膝が泥に沈み、全身が冷たく重い。
――終わりだ。
そう思った瞬間、奇妙に心が静まった。
「……そうよ」
自分の声が、驚くほどはっきり聞こえた。
「私には何もない。だから、殺すなら、ひと思いにやって」
雨の冷たさより、恥の熱さが頬を刺した。強がりでもなく、諦めでもない。ただ、これ以上誰かの玩具になるのが耐えられなかった。
男は意外そうに目を細めた。怒るでも嘲るでもない。むしろ観察するように、ユリアの顔を覗き込む。細い指先が顎に触れ、軽く持ち上げられた。
「ふむ……魔力はゼロ」
金の瞳が、ユリアの奥を貫く。
「だが、魂の輝きだけは、あの忌々しい神共より眩しいな」
ユリアは言葉の意味を理解できなかった。魂? 輝き? 自分が?
男はふっと口角を上げた。その笑みは、恐ろしいほど美しく、同時に獣のように危うい。
そして次の瞬間、彼は驚くべき行動に出た。
泥の上に、優雅に、厳かに跪いたのだ。
「……え?」
ユリアの口から間の抜けた声が漏れた。男はユリアの汚れた手を取り、自らの額をそこへ当てる。冷たいはずの角の影で、熱が伝わってきた。
「契約は成った。貴様の血は、私の渇きを癒し、魂を繋いだ」
男が顔を上げる。
「私はアシュタルト。かつてこの世界を支配し、神に抗った終焉の魔王だ」
ユリアの背筋が凍った。終焉の魔王。数千年前に封印され、滅んだはずの存在。教会が語るお伽話の怪物。
だが、目の前の存在は、お伽話ではなかった。圧倒的な実在。
「……主よ」
アシュタルトは、当たり前のようにその言葉を口にした。
「貴様を虐げた連中をどうしたい? 望むなら、今この瞬間に王都ごと消し飛ばしてやってもいいのだぞ?」
その声音は甘い。優しいと言ってもいいほどに滑らかだ。けれど、その甘さの底には、世界を壊すことをためらわない冷酷さが澄んでいる。
ユリアの胸の奥で、何かが崩れた。
王都が消える。家族が消える。自分を踏みにじった者たちが、恐怖の中で終わる。想像しただけで、苦い快感が喉元までせり上がる。
けれど、それ以上に――
ユリアは、自分が今、震えながらも彼から目を逸らせない理由を悟ってしまった。
この男は、自分を「ゴミ」と言わない。
「家の汚点」と吐き捨てない。
生まれて初めて、“価値がある”ものとして扱っている。
涙が、熱く頬を伝った。雨と混ざっても、熱は消えない。
「私を……独りにしないで……」
声がかすれた。願いはみっともないほど幼い。復讐でも、栄光でもない。けれど、今のユリアには、それしかなかった。
アシュタルトは一瞬だけ目を見開き、それから喉の奥で愉しげに笑った。
「ククッ……そんな簡単なことでいいのか」
彼は立ち上がり、ユリアを壊れ物を扱うように、慎重に抱き上げた。腕の中は熱い。怖いほどに強いのに、揺れは一切ない。落とされない確信があった。
「これより、貴様が私の唯一の法だ。主の意思が、私の世界となる」
ユリアは言葉を飲み込んだ。唯一の法。そんなもの、重すぎる。けれど同時に、胸の奥で小さな灯がともる。
――もう、捨てられない。
そう思ってしまった自分が、怖い。
アシュタルトは闇に手を伸ばし、広場の周囲に渦巻く黒い霧を従える。森の気配が、彼の意志ひとつで膝を折るように静まった。
「さあ、行こうか」
彼は雨の降りしきる森へ一歩踏み出す。
「まずは貴様に相応しい、最高の寝床を用意せねばな。主が凍えれば、私の怒りは世界を焼く」
冗談のような口調だった。だが、ユリアは笑えなかった。なぜなら、それが冗談ではないと理解できてしまうほど、彼の存在は現実だったから。
絶望の森に、かつてないほどの巨大な魔力が渦巻く。
それは、世界が再び恐怖し、そしてユリアという少女が初めて「自分」を生き始める――逆転劇の始まりだった。




