第9話 奇策の揺らぎ
水曜の夕方。
会社裏のグラウンドには、冬の名残を含んだ冷たい風が吹いていた。
昨日までの熱気が嘘のように、空気はどこか重かった。
部員たちは集まっている。
だが、声が小さい。
動きも鈍い。
みのりは、その空気の違いをすぐに感じ取った。
「……みんな、疲れてるね」
晴斗は頷きもせず、スコアブックを閉じた。
「仕事が忙しいんだろう。
社会人野球は、こういう日が必ず来る」
その声は淡々としていたが、どこか自分に言い聞かせているようでもあった。
***
練習が始まる。
だが、奇策の動きが明らかに鈍い。
中山は落下点の歩数が合わず、何度もやり直す。
村井はワンバウンド捕球の構えが遅れ、ボールを弾く。
田淵は初球の見極めに集中できず、空振りを繰り返す。
「……すみません、昨日残業で……」
「今日もこのあと資料作らないと……」
「頭が回らなくて……」
部員たちの声は、言い訳ではなく“現実”だった。
晴斗は、黙って見ていた。
その沈黙が、逆に部員たちを追い詰めていく。
みのりは、耐えきれず声をかけた。
「晴斗くん……今日は、軽めにした方が……」
「軽くしても意味がない」
晴斗の声は冷たくはない。
だが、硬かった。
「奇策は精度が命だ。
精度が落ちたら、ただの奇抜な練習になる」
みのりは言葉を失った。
***
練習後。
照明が落ち、グラウンドが暗闇に沈む。
部員たちは疲れ切った顔で帰っていく。
誰も文句は言わない。
だが、背中には“迷い”があった。
みのりは、晴斗の隣に立った。
「……みんな、頑張ってるよ。
仕事もあって、疲れてて……
それでも来てくれてる」
晴斗は答えなかった。
みのりは続ける。
「奇策はすごいよ。
でも……奇策に合わせるために、みんなが壊れちゃったら……」
晴斗は、ゆっくりと息を吐いた。
「わかってる。
でも……奇策をやめたら、勝てない」
その言葉は、晴斗自身を縛っているように聞こえた。
みのりは、晴斗の横顔を見つめた。
「……晴斗くん。
あなた、また一人で背負ってる」
晴斗の肩がわずかに揺れた。
「背負わなきゃいけないんだ。
俺が言い出したことだから」
「違うよ」
みのりは、静かに言った。
「あなた一人の野球じゃない。
みんなの野球だよ。
奇策も、勝利も、負担も……
全部、みんなで分けなきゃいけない」
晴斗は、初めてみのりの方を向いた。
その目は、疲れていた。
そして、迷っていた。
「……どうすればいいんだ」
その言葉は、弱音ではなかった。
“助けを求める声”だった。
みのりは、そっと微笑んだ。
「一緒に考えよう。
奇策を続けるために、
“社会人だからこそできるやり方”を」
晴斗は、ゆっくりと頷いた。
その頷きは小さかったが、
確かに“変化の始まり”だった。
***
帰り道。
街灯が並ぶ歩道を、晴斗は一人で歩いていた。
奇策の精度。
部員たちの疲労。
仕事の壁。
自分の焦り。
すべてが胸の中で渦巻いていた。
——奇策は正しい。
——でも、このままじゃ続かない。
その矛盾が、晴斗の足を重くする。
ふと、スマホが震えた。
みのりからのメッセージだった。
「明日、少し話したいことがあります。
無理しないでね。」
晴斗は、画面を見つめたまま立ち止まった。
胸の奥で、何かが少しだけ軽くなる。
「……ありがとう」
小さく呟き、スマホをポケットにしまった。
夜風が吹く。
冷たいが、どこか心地よかった。
奇策は揺らいでいる。
だが、揺らぎの中でしか見えないものがある。
晴斗は、ゆっくりと歩き出した。
その歩みは、昨日よりも少しだけ前に進んでいた。




