第8話 過去が歩いてくる
火曜の夕方。
会社裏のグラウンドに、いつもとは違う空気が漂っていた。
部員たちは練習の準備をしているが、どこか落ち着かない。
みのりも、胸の奥にざわつきを感じていた。
「……今日、誰か来るの?」
「うん。練習試合の申し込みがあってな」
晴斗は淡々と言った。
だが、その声には微かな緊張が混ざっていた。
みのりは気づく。
「晴斗くん……知ってる相手?」
晴斗は答えなかった。
その沈黙が、すべてを物語っていた。
***
グラウンドの入口に、黒いジャージ姿の男が現れた。
背が高く、鋭い目つき。
歩くだけで空気が変わる。
部員たちがざわつく。
「誰だ……?」
「なんか、強そう……」
みのりは息を呑んだ。
晴斗が、わずかに肩を強張らせたからだ。
男は晴斗の前に立つと、薄く笑った。
「久しぶりだな、三浦」
晴斗の表情が固まる。
みのりは、その横顔を見て震えた。
晴斗が“怯えている”のを初めて見た。
男は続ける。
「俺は今、東都メタルズのコーチをやってる。
お前の奇策が噂になってな。
どんなもんか、見に来た」
部員たちがざわつく。
「え……あの強豪の……?」
「なんでうちに……?」
みのりは、晴斗の手がわずかに震えているのに気づいた。
「……どうして来たんですか」
晴斗の声は低く、硬かった。
男は笑う。
「簡単な話だ。
“お前がまた野球を始めた”って聞いてな。
興味が湧いたんだよ」
その言葉に、晴斗の目が揺れた。
みのりは、胸が締めつけられるのを感じた。
***
練習が始まる。
だが、部員たちは落ち着かない。
外野の中山はフェイクの動きで転び、
村井はストレートを捕り損ね、
田淵は初球を見極めるどころか空振りした。
ひよりが焦ったようにメモを取る。
「みんな……どうしたんだろ……」
みのりは、晴斗の横顔を見つめた。
晴斗は、男の視線を意識している。
その視線は、まるで“過去の傷”を抉るようだった。
男は腕を組み、冷たく言った。
「奇策ねぇ……
そんな小手先で勝てるほど、野球は甘くないぞ」
部員たちの動きがさらに乱れる。
みのりは耐えきれず、晴斗に近づいた。
「晴斗くん……大丈夫?」
晴斗は答えない。
ただ、男の方を見つめていた。
その目は、恐怖と怒りと後悔が混ざった色をしていた。
***
練習後。
部員たちは疲れ切って帰っていく。
ひよりは晴斗に駆け寄る。
「三浦さん!
今日の練習、私……もっと分析してみます!
絶対、奇策は通用します!」
その声は明るい。
だが、どこか“必死”だった。
みのりは、その様子を見て胸が痛んだ。
晴斗はひよりに軽く頷いた。
「ありがとう。助かる」
ひよりの顔がぱっと明るくなる。
みのりは、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
***
ひよりが帰った後。
グラウンドには、晴斗とみのりだけが残った。
風が吹き、ネットが揺れる音だけが響く。
みのりは、勇気を振り絞って言った。
「……さっきの人、誰?」
晴斗はしばらく黙っていた。
そして、低い声で言った。
「……高校の時のチームメイトだ。
俺が……野球を捨てるきっかけになった人間だ」
みのりは息を呑んだ。
「……あのエラーの時の……?」
晴斗は目を閉じた。
「そうだ。
あの日、俺がエラーした時……
あいつは俺に言ったんだ。
“お前のせいで負けた。
野球をやる資格なんてない”って」
みのりの胸が痛んだ。
「そんな……」
晴斗は続ける。
「だから……今日、あいつが来た時……
体が勝手に固まった」
みのりは、そっと晴斗の手に触れた。
「晴斗くん……
あなたは、あの日のままじゃないよ。
今のあなたは……
みんなを変えてる。
私も……変えてる」
晴斗は、みのりの手を見つめた。
その手は温かかった。
みのりは、静かに言った。
「……あの人に、負けないで」
晴斗は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとう」
夜風が吹き、二人の影が寄り添うように揺れた。
その影の先に、
晴斗の“過去”と“未来”が交差し始めていた。




