第3話 奇策のはじまり
夜のグラウンドに残った土の匂いが、まだ空気に漂っていた。
昨日、晴斗が「今日から全部変える」と宣言したその余韻が、部員たちの胸に重く沈んでいる。
翌日の夕方。
仕事を終えた社員たちが、疲れた足取りでグラウンドに集まってきた。
声は出ている。
だが、昨日とは違う。
どこか“探るような”声だった。
晴斗は、バックネット裏で腕を組んで立っていた。
みのりが隣に立つ。
「……みんな、緊張してるね」
「当然だろ。昨日までの練習を全部否定されたんだ」
晴斗の声は淡々としていた。
だが、その目は鋭かった。
みのりは小さく息を吸う。
「今日、何をするの?」
晴斗は答えず、グラウンドへ歩き出した。
***
部員たちが整列する。
夕陽が沈みかけ、影が長く伸びていた。
晴斗は、ゆっくりと視線を巡らせた。
「昨日言った通りだ。
今日から、全部変える」
部員たちの喉が、ごくりと鳴る。
晴斗は、一本のバットを持ち上げた。
「まずは……走り込みをやめる」
ざわめきが起きた。
「え?」「走らないの?」「野球って走るスポーツじゃ……」
晴斗は手を上げ、静かに制した。
「走り込みは“疲れるための練習”だ。
疲れた状態で練習しても、技術は身につかない。
社会人は時間も体力も限られてる。
だから、無駄は全部切る」
部員たちは顔を見合わせた。
その表情には、驚きと戸惑いと……少しの期待が混ざっていた。
晴斗は続ける。
「次。声出しも禁止だ」
さらにざわめきが広がる。
「声を出しても、技術は上がらない。
声で自分を誤魔化すな。
必要なのは“再現性”だ」
みのりが横で小さく頷いた。
「……晴斗くんらしいね」
晴斗は、バットを地面に置いた。
「今日やるのは、たった一つだけだ」
部員たちが息を呑む。
「“自分の役割を一つだけ極める”練習だ」
営業部の外野手が手を挙げた。
「役割って……守備とかですか?」
晴斗は首を振った。
「違う。
お前は“落下点に入る歩数”だけを極めろ。
外野の守備範囲は広い。
だが、歩数が正確なら、足が遅くても追いつける」
経理部の捕手が戸惑いながら言う。
「じゃあ俺は……?」
「お前は“ワンバウンド捕球”だけを極めろ。
肩が弱いなら、暴投を止める方が価値がある」
製造部の若手が手を挙げる。
「バントが苦手なんですけど……」
晴斗は即答した。
「なら、バントは捨てろ。
お前は“初球の見極め”だけを極めろ。
バントが下手なやつにバントをさせるのは、戦術じゃなくて虐待だ」
部員たちの表情が変わっていく。
驚きから、理解へ。
理解から、希望へ。
みのりは、その変化を見て胸が熱くなった。
晴斗は、最後にこう言った。
「社会人野球は、時間がない。
だからこそ、全部やろうとするな。
“一点突破の職人”になれ。
それが……弱者が強者を倒す唯一の方法だ」
夕陽が完全に沈む。
照明が灯り、グラウンドが白く浮かび上がる。
晴斗は手を叩いた。
「じゃあ始めるぞ。
今日から、お前たちは“専門職”だ」
部員たちが動き出す。
その動きはぎこちないが、昨日までとは違う“意志”があった。
みのりが晴斗の隣に立つ。
「……すごいね。
本当に全部変えちゃった」
晴斗は、少しだけ笑った。
「変えなきゃ勝てない。
勝てなきゃ……守れないものがある」
みのりはその横顔を見つめた。
夕闇の中で、晴斗の目は静かに燃えていた。
壊すための野球は、
この日、初めて“形”になり始めた。




