第2話 野球を捨てた男
朝の光が差し込むオフィス。
昨日と同じはずなのに、晴斗にはどこか違って見えた。
みのりと交わした“条件付きの約束”が、胸の奥で重く沈んでいる。
パソコンの画面に映るメールの文字が、妙に遠い。
集中できない。
心が、どこか別の場所に置き去りになっているようだった。
「三浦くん、大丈夫?」
隣の席の先輩が声をかける。
晴斗は慌てて姿勢を正した。
「はい、大丈夫です」
大丈夫じゃない。
だが、言えるはずがなかった。
***
昼休み。
社員食堂のざわめきの中で、晴斗は一人、窓際の席に座っていた。
トレーの上の冷めた味噌汁。
箸を持つ手が止まる。
——本当に、やるのか。
——また、あの場所に戻るのか。
胸の奥で、過去の影が揺れる。
その時、向かいの席にトン、とトレーが置かれた。
「ここ、いい?」
みのりだった。
笑顔は作っているが、目の奥は真剣だった。
「昨日の話だけど……本当に、やってくれるの?」
晴斗は答えられなかった。
みのりは静かに続ける。
「あなたが怖がってるの、わかるよ。
でもね……怖がってるってことは、まだ終わってないってこと」
晴斗は箸を置いた。
みのりの言葉は、逃げ場を塞ぐように胸に刺さる。
「俺は……」
言いかけて、言葉が喉で止まった。
みのりは、少しだけ微笑んだ。
「今日、練習あるから。
来てくれたら嬉しい。
来なくても……私は待ってる」
そう言って席を立った。
背中は小さく見えたが、決意だけは揺れていなかった。
***
夕方。
仕事を終えた社員たちが帰路につく中、晴斗は会社裏のグラウンドの前で立ち止まった。
フェンス越しに見える部員たち。
声だけは大きい。
内容は空っぽ。
昨日と同じ光景。
だが、昨日とは違うものが一つあった。
みのりが、フェンスの向こうでこちらを見ていた。
気づいていたのか、ただの偶然かはわからない。
だが、その視線はまっすぐだった。
晴斗は、深く息を吸った。
——戻るのか。
——また、あの場所に。
足が、一歩だけ前に出た。
その瞬間、部員の一人がバットを叩きつけた。
「クソッ! なんで当たんねぇんだよ!」
金属音が夕暮れに響く。
道具が転がり、土埃が舞う。
晴斗の足が止まった。
みのりが慌てて駆け寄る。
「ちょっと! 道具を粗末にしないで!」
だが、部員は苛立ちを隠さない。
「うるせぇよ! どうせ廃部なんだろ!
こんな練習して何になるんだよ!」
その言葉が、晴斗の胸に刺さった。
まるで、過去の自分が叫んでいるようだった。
みのりは必死に言い返す。
「廃部になるかどうかは、まだ——」
「どうせ無理だよ!
勝てねぇし、時間もねぇし、仕事もあるし!」
部員の叫びは、現実そのものだった。
晴斗は、フェンスに手をかけた。
指先が震えている。
——これが現実だ。
——これが、俺が戻ろうとしている場所だ。
みのりがこちらを振り返った。
その目は、助けを求めていた。
晴斗は、ゆっくりとフェンスの扉を開けた。
金属の軋む音が、グラウンドに響く。
部員たちが振り向く。
みのりの目が大きく開く。
晴斗は、静かに言った。
「道具を叩くな」
その声は、怒鳴り声ではなかった。
だが、誰よりも強かった。
部員たちが息を呑む。
晴斗は、バットを叩きつけた部員の前に歩み寄った。
「礼をするなら、道具を叩くな。
感謝するなら、怒鳴るな。
礼儀は“形”じゃなくて“態度”だ」
夕陽が、晴斗の横顔を照らす。
部員は言葉を失い、バットを拾い上げた。
みのりが、そっと晴斗の隣に立つ。
「……来てくれたんだね」
晴斗は答えなかった。
ただ、グラウンドを見つめていた。
「今日からだ」
その一言で、空気が変わった。
「今日から、全部変える。
スポ根も、根性論も、無意味な練習も。
勝てない理由を全部捨てる。
勝つために必要なのは……頭だ」
部員たちが息を呑む。
みのりは、静かに微笑んだ。
夕陽が沈む。
夜が来る。
だが、グラウンドには新しい光が灯り始めていた。
壊すための野球が、確かに動き出した。




