第19話 それでも、前に進む
金曜の朝。
オフィスの空気は、いつもよりざわついていた。
昨日の経営会議で「野球部の活動費削減」が議題に上がったという噂は、
すでに社内のあちこちに広がっていた。
みのりは総務部の席で、落ち着かない気持ちを抑えながら仕事をしていた。
——今日、晴斗くんは来られるかな。
その不安は、昼過ぎに現実になる。
***
午後。
晴斗の部署から、怒号が聞こえた。
「三浦!この案件、どうなってるんだ!」
「納期がずれてるぞ!説明しろ!」
みのりは思わず立ち上がった。
晴斗の声は聞こえない。
ただ、周囲の空気が張りつめているのがわかった。
数分後。
晴斗が、疲れ切った顔で総務部の前を通りかかった。
「晴斗くん……!」
みのりが声をかけると、晴斗は足を止めた。
「……悪い。今日は練習、行けそうにない」
その声は、いつもの落ち着きがなかった。
「部署でトラブルがあって……
俺が対応しないと、収まらない」
みのりは胸が痛んだ。
「……無理しないで。
みんなには私から伝えるから」
晴斗は、かすかに頷いた。
「頼む。
……今日は、行けない」
そのまま、足早に去っていった。
みのりは、その背中を見つめながら思った。
——野球部の危機と、仕事の危機。
——両方が同時に晴斗くんにのしかかってる。
***
夕方。
グラウンドには、部員たちがぽつりぽつりと集まっていた。
中山が言う。
「三浦さん、今日は来ないんですか?」
みのりは頷いた。
「部署でトラブルがあって……
今日は対応に追われてるみたい」
村井は、少し寂しそうに笑った。
「……あの人、いつも誰より先に来てたのに」
田淵は、バットを肩に担ぎながら言った。
「三浦さんがいないと……
なんか、締まらないっすね」
みのりは、深く息を吸った。
「でも……
晴斗くんは“続けたい”って言ってた。
だから……今日は、みんなでやろう」
部員たちは顔を見合わせた。
「……俺らだけで?」
「奇策、できるかな……」
「いや、やるしかないだろ」
中山が、ゆっくりと頷いた。
「三浦さんがいない時こそ……
俺らが動かないと」
みのりは、胸が熱くなった。
「うん。
今日は“自分たちの練習”をしよう」
***
練習が始まる。
奇策の細かい指示は出せない。
だが、部員たちは自分たちなりに動き始めた。
中山は、歩数合わせを自主的に始めた。
村井は、数字で配球を読む練習を繰り返した。
田淵は、投手の癖を読む練習を仲間と一緒にやった。
みのりは、その光景を見て胸が震えた。
——晴斗くんがいなくても、みんな動ける。
——奇策は、もう“晴斗くんだけのもの”じゃない。
練習は短かったが、
その時間には確かな成長があった。
***
練習後。
部員たちは疲れながらも、どこか誇らしげだった。
「今日……悪くなかったな」
「三浦さんに見せたいっすね」
「明日、来られるといいけど」
みのりは、空を見上げた。
夕陽が沈み、グラウンドに長い影が伸びる。
「……晴斗くん。
あなたがいなくても、みんな動けるよ。
でも……あなたが戻ってきた時、
もっと強いチームになってるから」
その言葉は、誰に向けたものでもなく、
風に溶けていった。
***
夜。
みのりのスマホが震えた。
晴斗からのメッセージだった。
「今日は悪かった。
……明日、行けるようにする」
みのりは、静かに微笑んだ。
「待ってるよ。
みんなも、待ってる」
奇策は揺らいでいる。
会社も揺らいでいる。
晴斗自身も揺らいでいる。
だが——
揺らぎの中でしか見えないものがある。
それは、
“チームが自走し始めた瞬間”だった。




