第18話 会社という“もう一つの戦場”
木曜の朝。
オフィスの空気は、いつもより張りつめていた。
コピー機の音、電話の呼び出し、誰かの短い溜息。
そのすべてが、どこか刺々しく聞こえる。
みのりは総務部の席で、異変を感じていた。
——今日は、何かある。
その予感は、昼前に現実になる。
***
昼休み前。
総務部長が、みのりの席に歩いてきた。
「桐谷さん、午後の経営会議の資料、急ぎでまとめてくれる?」
「はい。内容は……?」
部長は、少し言いにくそうに言った。
「……野球部の活動費についてだ」
みのりの心臓が跳ねた。
「活動費……削減、ですか?」
部長はため息をついた。
「会社全体でコスト見直しが入ってる。
野球部は“成果が見えにくい”と判断されてるらしい」
みのりは、言葉を失った。
——昨日、あんなに頑張ってたのに。
——奇策も、みんなの努力も、まだ始まったばかりなのに。
部長は続けた。
「経営陣の中には、“廃部”を提案する人もいる。
資料は客観的にまとめてくれ。感情は入れなくていい」
みのりは、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
だが、胸の奥はざわついていた。
***
夕方。
グラウンドに集まった部員たちは、昨日よりもさらに疲れていた。
中山は、工具油の匂いをまとっていた。
「ラインが止まって……今日はもうヘトヘトです」
村井は、書類の束を抱えたまま。
「決算の数字が合わなくて……頭が回らないっす」
田淵は、ネクタイを緩めながら言った。
「客先トラブルで……正直、今日は来るか迷いました」
晴斗は、静かに全員を見渡した。
「……今日は、軽く動くだけでいい」
その声は、どこか遠かった。
みのりは、晴斗の横顔を見つめた。
——言わなきゃいけない。
——でも、どう言えばいい?
練習が始まる。
だが、誰も集中できていなかった。
中山はフライを落とし、
村井はワンバウンドを弾き、
田淵は初球を見逃す。
奇策の精度以前に、
“心”がどこかに置き去りになっていた。
みのりは、意を決して晴斗に近づいた。
「……晴斗くん。
今日、言わなきゃいけないことがあるの」
晴斗は、少しだけ顔を向けた。
「……なんだ」
みのりは、深く息を吸った。
「今日の経営会議で……
野球部の活動費の削減が議題に上がったの」
晴斗の表情が固まった。
「……削減?」
「ううん……
“廃部”の意見も出たって」
晴斗は、ゆっくりと目を閉じた。
風が吹き、ネットが揺れる音だけが響く。
「……そうか」
その声は、驚きでも怒りでもなく、
“覚悟していた現実”を受け入れるような静けさだった。
みのりは、胸が痛んだ。
「ごめん……
私、もっと早く言うべきだった」
晴斗は首を振った。
「お前のせいじゃない。
会社がそう判断しただけだ」
「でも……」
「わかってる。
続けたいんだろ?」
みのりは、涙をこらえながら頷いた。
「うん……
みんな、こんなに頑張ってるのに……
まだ何も始まってないのに……
ここで終わるなんて、嫌だよ」
晴斗は、空を見上げた。
曇り空は、どこか重く、どこか優しかった。
「……俺もだ」
その言葉は、静かで、強かった。
「奇策がどうとか、勝てるかどうとか……
そんなことより……
“続けたい”って気持ちがあるなら、続けるべきだ」
みのりは、胸が熱くなった。
「じゃあ……どうする?」
晴斗は、ゆっくりと答えた。
「会社に……“野球部の価値”を示す。
奇策でも、勝利でもない。
社会人としての価値を」
みのりは息を呑んだ。
「……それって?」
晴斗は、少しだけ笑った。
「明日、話すよ。
奇策より難しい“戦い方”だ」
みのりは、その笑顔を見て胸が震えた。
奇策は壁にぶつかった。
チームも壁にぶつかった。
そして今度は——
会社という“巨大な壁”が立ちはだかった。
だが、晴斗の目には、
昨日までになかった強さが宿っていた。
壁は、壊すものではない。
壁は、“越える理由”を見つけるためにある。




