第17話 それぞれの現実
水曜の夕方。
会社裏のグラウンドに、冬の冷たい風が吹き抜けていた。
昨日の“壁”の余韻が、まだ全員の胸に残っている。
部員たちは集まっている。
だが、声は小さく、動きも鈍い。
みのりは、その空気を見て胸が痛んだ。
「……みんな、疲れてるね」
中山は、グローブを握りしめたまま言った。
「昨日の夜勤……正直、まだ頭がぼーっとしてて……」
村井は、書類の束を抱えたまま。
「決算前で……今日も残業確定です」
田淵は、ネクタイを緩めながら苦笑した。
「客先トラブルで……正直、野球どころじゃないっす」
みのりは、胸が締めつけられた。
——これが、社会人の現実。
晴斗は、静かに全員を見渡した。
「……今日は、練習を分ける」
部員たちが顔を上げた。
「分ける……?」
晴斗は頷いた。
「体が動くやつは奇策の練習。
動かないやつは、軽い基本だけやる。
無理に合わせる必要はない」
その言葉に、部員たちの表情が少しだけ緩んだ。
みのりは、晴斗の横顔を見つめた。
——昨日の“壁”を、ちゃんと受け止めてる。
***
練習が始まる。
中山は、軽いキャッチボールだけを選んだ。
村井は、ストレッチと軽い捕球練習。
田淵は、素振りだけ。
奇策組は、少人数で動く。
だが——
その“分かれた練習”が、思わぬ空気を生んだ。
奇策組は、どこか気まずそうだった。
基本組は、どこか申し訳なさそうだった。
「……俺ら、足引っ張ってるよな」
「奇策組に悪いよ……」
「仕事が忙しいのはわかってるけど……」
その声は、誰も責めていないのに、
“自分を責める声”だった。
晴斗は、胸が痛んだ。
——これじゃ、チームが割れる。
みのりは、晴斗の横に立った。
「晴斗くん……
このままだと、みんなが自分を責めちゃうよ」
晴斗は、深く息を吸った。
「……わかってる」
だが、どうすればいいのかは、まだ見えていなかった。
***
練習後。
部員たちは疲れ切った顔で帰っていく。
中山は、晴斗に近づいた。
「三浦さん……
奇策、続けたいんです。
でも……仕事が忙しいと、ついていけなくて……
迷惑かけてる気がして……」
村井も言った。
「奇策はすごいです。
でも……“奇策組”と“基本組”に分かれると……
なんか、チームじゃないみたいで……」
田淵は、苦笑しながら言った。
「俺ら、社会人なんで……
どうしても限界あるんですよ。
でも……野球は続けたいんです」
晴斗は、何も言えなかった。
みのりは、晴斗の横顔を見つめた。
——晴斗くん、また一人で抱え込んでる。
***
部員たちが帰ったあと。
グラウンドには、晴斗とみのりだけが残った。
風が吹き、ネットが揺れる音だけが響く。
みのりは、静かに言った。
「……晴斗くん。
奇策はすごいよ。
でも……奇策が“負担”になったら、意味がないよ」
晴斗は、拳を握った。
「わかってる……
でも……奇策をやめたら、勝てない」
「勝つために奇策をやってるんじゃないよ」
みのりの声は、優しく、しかし強かった。
「続けるために奇策をやってるんだよ。
仕事があって、疲れてて……
それでも野球を続けたいから、奇策があるんだよ」
晴斗は、目を閉じた。
「……俺、間違ってたのか」
「間違ってないよ。
ただ……“奇策の形”を変える時期なんだよ」
晴斗は、ゆっくりと息を吐いた。
「……形を、変える……」
「うん。
奇策を“負担”じゃなくて、
“支え”にするんだよ」
晴斗は、空を見上げた。
曇り空は、どこか重く、どこか優しかった。
「……わかった。
奇策を……もう一度作り直す」
みのりは、静かに微笑んだ。
「うん。
それが一番いいよ」
奇策は壁にぶつかった。
チームも壁にぶつかった。
晴斗自身も壁にぶつかった。
だが——
壁は、壊すものではない。
壁は、“越えるために形を変えるもの”だ。




