第1話 廃部通達
朝のオフィス。
蛍光灯の白い光が、まだ眠気の残る社員たちの顔を均一に照らしている。
コピー機のローラー音だけが、静かなフロアに規則的に響いていた。
その静けさの中で、ひそひそ声だけが浮いていた。
「野球部、終わりだってよ」
「まあ、あれじゃな……」
三浦晴斗は、聞こえないふりをしてパソコンを立ち上げた。
画面の光が瞳に映る。
その奥に、一瞬だけ“痛み”が走った。
すぐに消える。
消した。
***
午前十時。
総務部長に呼ばれ、会議室へ向かう。
ドアを開けた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
数字の匂いがする。
経営企画部の男が、資料をめくる音だけが響く。
「野球部は、今期をもって廃部とする方向です」
淡々とした声。
まるで“不要な備品の処分”を告げるような口調だった。
桐谷みのりが、静かに息を吸う。
その肩の震えを、晴斗は横目で捉えた。
「せめて……都市対抗予選までは」
「無理です」
みのりの言葉を切り捨てるように、男は言った。
「勝てない部に予算を割く理由はありません。
社員の不満も出ています。
存在意義が薄いんですよ」
存在意義。
その言葉が、晴斗の胸に刺さった。
会議室の空気は、誰の感情も許さないまま終わった。
***
廊下に出た瞬間、みのりが晴斗の腕を掴んだ。
その手は、震えていた。
「三浦くん……お願いがあるの」
人のいない角へ連れていかれる。
みのりは深く頭を下げた。
「野球部のコーチをやってほしい」
晴斗の呼吸が止まった。
「……無理です。俺はもう——」
「知ってる」
みのりは顔を上げた。
目は涙ではなく、覚悟で濡れていた。
「あなたが野球を捨てた理由も。
あの日、何があったのかも」
晴斗の喉が、音にならない息を漏らした。
みのりは一歩近づく。
「でもね……あなた、本当に捨てた人の目じゃなかった。
さっきの会議で、野球部の話が出た時の顔……
あれは、まだ野球を見てる人の顔だった」
晴斗は視線を逸らした。
逃げるように。
「やめてください」
「やめない。
あなたが苦しんでるの、ずっと見てきたから」
その声は、優しさではなく“覚悟”だった。
晴斗は何も言えなかった。
***
夕方。
気づけば、会社裏のグラウンドに立っていた。
照明は半分しか点かず、影が長く伸びている。
土は固く、ネットは破れ、風が吹くたびに金属音が鳴った。
そこに、仕事帰りの部員たちがいた。
声だけは大きい。
内容は空っぽ。
走り込みは惰性。
バント練習は失敗ばかり。
怒鳴る先輩の声は、疲労でかすれている。
スポ根の残骸だけが、そこに転がっていた。
晴斗は呟いた。
「……これじゃ勝てるわけがない」
その背後から、静かな声がした。
「でも、勝ちたいんです」
振り返ると、みのりがいた。
夕陽が彼女の横顔を照らし、影が長く伸びている。
「勝てないって言われても、廃部って決まっても……
それでも、みんな……野球が好きなんです」
晴斗は黙っていた。
みのりは続ける。
「あなたが来てくれたら、変わる。
変えられる。
私はそう信じてる」
その声は、揺れていなかった。
***
「……無理です」
晴斗は、夕陽を見たまま言った。
「俺はもう野球をやらない。
あの時、全部終わったんです」
みのりは一歩近づく。
「終わってない。
あなたが終わらせただけ。
でも……私は、あなたが戻ってくるのをずっと待ってた」
その言葉は、夕陽よりも熱かった。
晴斗は背を向けた。
「すみません。期待に応えられません」
みのりの声が、背中に刺さる。
「三浦くん。
あなたが逃げても、野球はあなたを許さないよ」
晴斗は立ち止まりかけた。
だが、そのまま歩き去った。
***
夜。
部屋の天井を見つめる。
静寂の中で、過去の映像だけが鮮明に蘇る。
——あのエラー。
——あの怪我。
——あの言葉。
——あの涙。
「……もう、関わりたくないんだよ」
だが、みのりの声が消えない。
“本当に捨てた人は、そんな顔しないよ”
胸の奥で、何かが微かに揺れた。
***
翌朝。
出社した晴斗は、総務部の前で立ち止まった。
みのりが、今日も同じ場所で待っていた。
まるで、彼が来ることを知っていたかのように。
「おはよう、三浦くん」
晴斗は深く息を吸った。
そして、静かに言った。
「……一つだけ条件があります」
みのりの瞳が揺れる。
「俺のやり方に、口を出さないこと。
スポ根も、根性論も、形だけの礼儀も、全部捨ててもらう。
野球の常識を全部壊す。
それでもついてくるなら、やる」
みのりは、迷わず頷いた。
「あなたが壊すなら、私が守る。
その両方が必要なんだと思う。
あなたのやり方で勝とう」
晴斗は初めて、みのりの目を正面から見た。
「じゃあ……今日から始めましょう。
廃部寸前の野球部を、勝てるチームに」
朝の光が、まだ眠るグラウンドを照らしていた。
その光の中で、
壊すための野球が静かに動き出した。




