お嬢様、追い詰められる
依頼を受理した俺たちは、ギルドの前に集まっていた。
朝の空気は冷たく、まだ街全体が目覚めきっていない時間帯だった。だが、俺たちにはこれから向かう場所がある。中級ダンジョン。アイアンゴーレムが待つ、危険な場所へ。
「では、参りましょうか」
クラリスが杖を手に取り、堂々と歩き出す。その背筋は真っ直ぐで、自信に満ちている。長い縦ロールの髪が、朝日を受けて金色に輝いていた。
お嬢様も、それに続こうとする。だが、その足取りは重く、身体全体が小刻みに震えている。握りしめた杖を持つ手も、緊張で力が入りすぎているのが分かった。
俺は二人の後ろを、静かについていく。護衛として、使用人として。そして、お嬢様の秘密を守る者として。
街の通りを歩き始めると、すぐに人々の視線を感じた。
「あれ、昨日の新人だ」
「またダンジョンに行くのか」
「今度は誰かと一緒だな」
朝の市場に向かう商人たち、店の準備をする人々、道端で話し込む住民たち。皆が、俺たちの方を見ている。
「あの縦ロールの子、ヴァンフリートのお嬢様じゃないか?」
「マジで? 名門貴族が、没落貴族と一緒に?」
「何か裏があるんじゃないか」
「いや、本当に実力者なのかもしれないぞ」
噂は、瞬く間に広がっていく。人から人へ、まるで風に乗って伝わっていくように。
お嬢様の背中が、さらに小さく震え始めた。
「カイト……」
お嬢様が俺を振り返り、小声で囁く。その声は不安で満ちていた。
「みんな、見てる……」
周囲の視線が、お嬢様を突き刺す。期待、好奇心、疑念、様々な感情が混じった視線。
「気にしないでください。お嬢様は堂々となさって」
俺は努めて穏やかに言うが、内心では冷や汗をかいていた。
(……これ、本当にどうする)
アイアンゴーレム。ライノスよりも遥かに格上の魔獣。しかも、今回はクラリスという鋭い目撃者がいる。名門貴族の出身で、実力も確かな彼女の目を誤魔化すことは、容易ではない。
どうやって、バレずにお嬢様を守る?
俺は必死に策を練るが、明確な答えは出てこない。状況は、刻一刻と悪化していく予感がした。
街を抜け、ダンジョンへと続く街道に入った。
舗装された道から、徐々に土の道へと変わっていく。周囲には木々が増え、鳥のさえずりが聞こえてくる。文明から離れ、自然の領域に踏み込んでいく感覚。
クラリスは余裕の表情で、軽やかに歩を進めている。時折、お嬢様に視線を向けては、何かを観察しているようだった。その目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭い。
「ねえ、エリアナ様」
クラリスが、歩きながら話しかけてくる。
「ライノスを倒した時、どんな魔法を使いましたの?」
「え、えっと……それは……」
お嬢様が言葉に詰まる。顔色が一瞬で青ざめた。
「火魔法? 氷魔法? それとも、雷魔法? 気になりますわ」
クラリスの声は明るいが、その目は笑っていない。完全に、お嬢様を試している。
「ま、魔法……ですわ……」
お嬢様が、何とか絞り出すように答える。その声は震え、額には汗が浮かんでいた。
クラリスは、それ以上追求しなかった。だが、その目はさらに鋭くなった。まるで、「やはり怪しい」と確信したかのように。
(……完全に疑ってるな)
俺は、クラリスの横顔を見る。彼女は、お嬢様の嘘を見抜こうとしている。そして、その証拠を掴もうとしている。今回のダンジョン行きは、彼女にとってお嬢様の実力を見極める絶好の機会なのだ。
「そういえば、エリアナ様」
しばらくの沈黙の後、クラリスが再び口を開く。
「あなたは、どこで魔法を学ばれたんですの?」
「え……?」
お嬢様の足が、一瞬止まりかける。
「だって、フォンブルク家は没落貴族。魔法の家庭教師を雇う余裕もなかったはずですわよね? それなのに、中級ダンジョンを攻略できるほどの実力……不思議ですわ」
クラリスの言葉は、表面上は疑問の形を取っているが、その実は追及だった。
お嬢様の顔が、みるみる青ざめていく。
「それは……その……」
「独学? それとも、誰かに教わったの? もしかして、優秀な師匠がいらっしゃるとか?」
「わ、わたくしは……」
お嬢様が、藁にもすがる思いで俺を見る。助けを求める目。だが、俺は何も言えない。ここで口を挟めば、逆に不自然だ。
「……独学、ですわ」
お嬢様が、必死に震える声で答えた。
「まあ! 独学で中級ダンジョン攻略なんて、本当にすごいですわね。天才なのかしら」
クラリスの声には、明らかな皮肉が混じっている。
お嬢様は、それ以上何も言えず、俯いて黙り込んだ。
重い沈黙が、三人の間に流れる。風が木々を揺らす音だけが、やけに大きく聞こえた。
(……お嬢様、辛いだろうな)
嘘をつき続けるのは、精神的に辛い。特に、お嬢様のように優しく、正直な性格の人間には。罪悪感が、彼女の心を少しずつ蝕んでいくのが、俺には分かった。
街道の途中、小さな泉のある場所で休憩することになった。
木々に囲まれた静かな場所。透明な水が湧き出る泉の周りには、柔らかい苔が生えている。鳥のさえずりが、森の静寂に溶け込んでいた。
お嬢様は泉の側に座り、手で水をすくって飲んでいる。その動作は緩慢で、疲労が滲み出ていた。まだダンジョンにも着いていないのに、既に心が消耗している。
俺は少し離れた場所で、周囲を警戒している。この辺りは比較的安全だが、油断は禁物だ。魔獣が現れる可能性もある。
クラリスが、お嬢様の隣に座った。
「ねえ、エリアナ様」
「は、はい……」
お嬢様が、緊張した面持ちでクラリスを見る。
「実はね……わたくしも、没落貴族出身なの」
「え……?」
お嬢様が、驚いた顔でクラリスを見る。その目には、予想外の告白への戸惑いが浮かんでいた。
「ヴァンフリート家は今でこそ名門ですけど、わたくしの家系は分家の分家。本家からは見向きもされず、ほとんど平民と変わらない生活をしていましたの」
クラリスが、遠くを見るような目をする。その表情には、過去を思い出す痛みが滲んでいた。
「父は事業に失敗して借金を抱えて、母は病気で亡くなって……わたくしは、十歳の時から一人で生きていかなければならなかった」
「……そう、だったんですの……」
お嬢様の声が、小さくなる。
「だから、わたくしはダンジョンに潜ったの。毎日、毎日、必死に魔獣と戦って……最初は下級ダンジョンの最弱の魔獣にも苦戦したわ」
クラリスの声が、少し震える。
「何度も死にかけたわ。腕を折られたこともある。魔法が暴走して、自分の身体を焼いたこともある。でも、諦めなかった。努力して、努力して……毎日魔法の練習をして、戦術を学んで、失敗を繰り返して……」
クラリスの拳が、強く握られる。
「そして、ようやく学院に入学できたの。毎日ダンジョンに潜って、稼いだお金で魔法書を買って、独学で学んで……」
「……」
「今では本家に認められて、ヴァンフリートの名を名乗ることを許されている。でも、それは全部……わたくしが自分の力で掴み取ったものよ。誰の助けも借りずに」
クラリスが、お嬢様をまっすぐに見る。その目には、誇りと、そして何か別の感情が混じっていた。
「だから、あなたにも期待してるの。同じ境遇の人が、本物の実力者なら……わたくしも嬉しい。仲間ができたような気がするから」
「クラリス様……」
お嬢様の目に、涙が浮かぶ。
「でもね」
クラリスの目が、一瞬だけ冷たくなる。
「もし嘘なら……それは、努力してきた人たちへの侮辱よ。わたくしは、それだけは許せない。絶対に」
その言葉は、静かだが、刃のように鋭かった。
お嬢様が、息を呑む。身体が硬直している。
クラリスは立ち上がり、杖を持って歩き出す。
「さあ、そろそろ行きましょうか。ダンジョンまで、あと少しですわ」
お嬢様は、その場に座ったまま動けないでいた。顔は青ざめ、手が震えている。
俺は、お嬢様の隣に座った。
「お嬢様……」
「カイト……わたくし……」
お嬢様の目に、涙が浮かんでいる。今にもこぼれ落ちそうなほど、大粒の涙。
「わたくし……嘘をついてる……クラリス様は、あんなに努力したのに……わたくしは……何もしていない……」
お嬢様の声が、震える。
「お嬢様」
俺は、お嬢様の肩に手を置いた。
「今は、前に進みましょう。考えるのは、後でいい」
「でも……」
「大丈夫です。俺が、必ずお嬢様をお守りします」
俺はそう言うが、自分でも確信が持てない。アイアンゴーレムは、ライノスとは格が違う。本当に守り切れるのか。しかも、クラリスの目を誤魔化しながら。
お嬢様が、俺を見る。その目には、不安と罪悪感が混じっている。
「……ありがとう、カイト」
お嬢様が、小さく微笑む。だが、その笑顔は、どこか悲しげだった。まるで、何かを諦めたような、そんな表情。
俺たちは立ち上がり、再び歩き始めた。
クラリスの背中が、前方に見える。
ダンジョンまで、あと少し。
お嬢様の秘密が暴かれる瞬間が、刻一刻と近づいていた。




