それぞれの譲れないもの
横腹に走る鈍い痛みに、スカーレットは思わず小さく息を吐いた。
――効いている。
杖で殴られた箇所が、まだ疼いている。呼吸をするたびに、痛みが広がる。
その事実が、何よりも腹立たしかった。いや、屈辱だった。
魔導士同士の戦いで、杖で殴られるなど想定外もいいところだ。
魔法ではなく、物理的な打撃で傷を負わされるなど。まして、自分が後手に回るなど。
これまで何年も積み重ねてきた努力が、こんな下品な、こんな野蛮な戦法で覆されるなど――
「……くだらないわ」
スカーレットが、唇を歪めて吐き捨てるように言う。
「魔導士でありながら、そんな戦法」
杖を握り直す。その手は、わずかに震えていた。
怒りか、それとも――動揺か。自分でも、判然としない。
その視線の先で、エリアナは静かに構えていた。
息は荒く、肩が激しく上下している。白い制服は破れ、あちこちに焼け焦げた跡がある。
右腕からは赤い血が流れ、地面に滴り落ちている。立っているのがやっとだろう。
それでも――
その碧眼は、まだ諦めていなかった。まっすぐに、こちらを見据えている。
「……私は、確かに魔法が得意ではありません」
エリアナの声は、震えていなかった。傷だらけの体とは裏腹に、その声には確かな芯が通っていた。
「でも」
エリアナが、一歩前に出る。足を引きずりながらも、その一歩は確かだった。
「私を信じてくれる人がいます」
その言葉に、観客席の俺の胸が熱くなる。
(……お嬢様)
拳を握りしめる。爪が掌に食い込んでも、気にならなかった。
エリアナが、杖を強く握る。
「だから、諦めません」
スカーレットの眉が、わずかに動いた。それは、ほんの一瞬の表情の変化。
だが、確かに何かが揺らいだ。
「あなたが――」
エリアナが、真っ直ぐにスカーレットを見る。
その目には、静かな、だが消えることのない炎が燃えていた。
「カイトを無能だと言った時……」
その声には、静かな怒りが込められていた。感情的ではない。
だが、確固たる意志がある。
「それだけは、許せないと思いました」
エリアナは、理由を語らない。過去の経緯も、自分の想いも、長々と並べ立てたりしない。
ただ――
「だから今日、ここで勝ちます」
それだけを告げる。シンプルに。明確に。力強く。
スカーレットが、拳を強く握りしめる。爪が掌に食い込み、痛みが走る。
その脳裏に、姉の声がよぎった。
『魔法以外にも、もっと大切なことがあるのではなくて?』
『友人と過ごす時間とか』
――何が、友達よ。
スカーレットの心が、激しく叫ぶ。
私は、一人でやってきた。ずっと、ずっと。
誰にも頼らず、誰にも甘えず、自分の力だけで。姉を追いかけて。姉に認めてもらうために。朝も夜も、必死に魔法の練習をした。他の誰よりも努力した。
その努力を――私の全てを――こんな形で、否定されるわけにはいかない。
「……負けるなんて」
スカーレットの周囲で、魔力が激しく揺らぎ始める。
赤い光が、彼女を包み込む。空気が、熱で歪む。周囲の温度が、急激に上昇していく。
観客席が、ざわめく。何人かの生徒が、思わず席を立った。
「私自身が――」
スカーレットが、杖を高く掲げる。その瞳には、燃えるような決意が宿っていた。
「許さない」
その瞬間――
スカーレットの足元に、赤い魔法陣が展開される。
複雑な幾何学模様が、まるで生き物のように地面に浮かび上がる。炎の紋様が、地面を這うように広がっていく。
そして――
「……!」
俺は、息を呑む。
もう一つ。赤い魔法陣の上に、さらに魔法陣が重なった。
二重の魔法陣。
二つの魔法陣が、それぞれ異なる速度で回転し、複雑な魔力の流れを作り出している。
(中級魔法……!)
俺は、昔図書館で読んだ魔法の本の記憶を思い出す。
二重魔法陣は、中級魔法の証だ。初級魔法とは、威力も精度も段違い。そして、制御の難易度も桁違いに高い。
俺は、スカーレットの実力に驚愕する。
彼女は、本気だ。出し惜しみなど一切なく、全力で、お嬢様を倒しにかかっている。
だが――
その瞬間。
エリアナの足元にも、淡い緑色の魔法陣が浮かび上がった。
「……!」
俺は、目を見開く。
風が、四方八方から集まり始める。
エリアナの周りに、渦を巻き、螺旋を描く。髪が激しく揺れ、制服が風に煽られる。
そして、風は圧縮され――透明な球体へと変わっていく。
(お嬢様……魔法を……)
エリアナが、魔法を制御している。
あの暴走した時とは、明らかに違う。冷静に、丁寧に、一つ一つの魔力の流れを感じ取りながら、練り上げている。
(リリアとの特訓……成果が出ている……!)
俺は、拳を握りしめる。お嬢様は、やれる。必ずやれる。
スカーレットが、それを見て笑った。
「いいわ」
その笑みには、狂気が混じっていた。いや――違う。これは狂気ではない。覚悟だ。何かを捨てる覚悟。全てを賭ける覚悟。
「お姉様にも見せたことのない――」
スカーレットが、深く息を整える。杖を、真っ直ぐに前方へ構える。その手は、もう震えていなかった。
「私の"努力"を、見せてあげる」
赤い魔法陣が、一層強く輝く。眩いほどの光が、グラウンドを照らす。
炎が、魔法陣の中心に集まり始める。小さな火の粒が、無数に集まり、渦を巻き、圧縮され――巨大な火球へと変わっていく。
その大きさは、これまでの比ではない。
人の背丈ほどの――いや、それをはるかに超える大きさだ。直径二メートルはあろうかという、巨大な炎の塊。
観客席が、どよめく。
「一年生で、あんなの使えるのか……」
生徒たちが、驚愕と恐怖の入り混じった声を上げる。教師たちも、身を乗り出して状況を見守っている。
だが――
エリアナは、目を逸らさない。杖を握りしめ、真っ直ぐにスカーレットを見据える。足は震え、体は傷だらけだ。
それでも、その目は揺るがない。
(逃げない)
エリアナは、それだけを心に決めていた。
魔法が怖くても。相手が格上でも。ここで退けば、全てが終わる。カイトを守れない。リリアの期待に応えられない。自分自身に、嘘をつくことになる。
だから――逃げない。
スカーレットも、同じだった。
譲れない理由は、違う。戦う動機も、背負うものも、全く異なる。
エリアナは、大切な人を守るため。
スカーレットは、自分の努力を証明するため。
だが――退けない、という点だけは同じだった。
二人とも、この場所で――自分の全てを賭けている。
勝利か、敗北か。どちらかしかない。
時間が、止まったように感じられた。
観客席の誰もが、固唾を飲んで見守っている。呼吸をすることすら忘れたように。
「――来なさい!」
スカーレットが、叫ぶ。その声は、決意に満ちていた。
同時に――
エリアナも、杖を大きく振る。
二つの魔法が、解き放たれる。
緑と赤。風と炎。
巨大な火球と、圧縮された風の球体。
二つの魔法が、グラウンドの中央に向かって、互いに向かって、真っ直ぐに突き進む。
空気が震える。地面が揺れる。
そして――激突する。
一瞬、音が消えた。
世界から、全ての音が消え去ったように感じられた。
次の瞬間――
ドォォォンッ!!
轟音と共に、世界が真っ白に染まった。
爆発の衝撃波が、四方八方に広がる。観客席の窓ガラスが、ビリビリと震える。
土埃と炎と風が混ざり合い、グラウンドを完全に覆い尽くす。
何も見えない。
ただ、白い世界だけがある。
俺は、息を詰めて――その向こうを、見つめていた。




