秘策
グラウンドに、二人の少女が姿を現した。
一人は、エリアナ・フォンブルク。
金色の髪を風になびかせ、白い制服に身を包んだ彼女は、緊張した面持ちで杖を握りしめている。
もう一人は、スカーレット・ローズウェル。
赤い髪を後ろで束ね、冷徹な表情を浮かべた彼女は、まるで獲物を見定める猛禽のような鋭い眼差しを向けていた。
観客席が、水を打ったように静まり返る。
学生たちの誰もが息を詰め、グラウンドに視線を注いでいた。この決闘が、単なる実技試験ではないことを、誰もが理解していた。
スカーレットが、射抜くような視線をエリアナに向ける。
その瞳には、明確な敵意と、そして絶対的な自信が宿っていた。
「……っ」
エリアナの体が、わずかに後ずさる。
白い手袋に包まれた手が、小刻みに震えているのが見えた。
(……頑張れ、お嬢様)
観客席から、俺は拳を強く握りしめた。
爪が掌に食い込むほどに。
エリアナが目を閉じ、深く息を吸い込む。
胸が大きく上下し、肩の力が少しずつ抜けていく。
そして――
(リリアと、あれだけ特訓した……)
(だから、大丈夫。私は、やれる)
エリアナが顔を上げる。
その碧眼には、もう怯えの色はなかった。代わりに、静かな決意の炎が灯っていた。
「あなたがいくら努力したところで」
スカーレットが、氷のように冷たい声で言い放つ。
「私には、勝てないわ。才能の差は、努力では埋められない」
「……」
エリアナが、杖を両手でしっかりと握りしめる。
木製の杖が、かすかな軋み音を立てた。
「私は、あなたに勝ちます」
エリアナが、はっきりとした声で宣言した。
その声には、迷いがなかった。
「そして、あの日――」
エリアナが、まっすぐにスカーレットを見据える。
「カイトを侮辱したこと、謝ってもらいます」
スカーレットの目が、一瞬大きく見開かれる。
予想外の言葉に、わずかに動揺したようだった。
そして――
「ふん」
鼻を鳴らし、嘲笑するような表情を浮かべる。
「やってみなさい。口だけなら、誰でも言える」
審判を務める教師が、二人の間に歩み出る。
厳格な表情で二人を見渡した。
「準備は良い?」
「はい」
「はい」
二人が同時に頷く。
そして、それぞれグラウンドの対角線上に位置する開始地点へと向かった。
観客席が、さらに静まり返る。
咳払いひとつ聞こえない。俺も固唾を飲んで、グラウンドを見守った。
教師が、ゆっくりと手を上げる。
全員の視線が、その手に集中した。
「――始め!」
手が振り下ろされた瞬間。
最初に動いたのは、エリアナだった。
「【風刃】!」
杖を大きく振り抜く。
魔力が収束し、鋭い風の刃が形成される。それは空気を切り裂く音を立てて、スカーレットに向かって一直線に飛んでいく――
だが。
シュッ。
風の刃は、スカーレットの体の横を通り過ぎ、背後の防護壁に当たって霧散した。
「……当たらなければ、意味がないわ」
スカーレットが、冷ややかに言い放つ。
動じた様子は微塵もない。
そして――
「【火球】」
スカーレットが、軽く杖を一振りする。
それだけで、瞬時に赤く輝く火球が形成された。その詠唱の速さは、エリアナとは比較にならない。
火球は唸りを上げて、エリアナに向かって放たれた。
「――ッ!」
エリアナが、目を見開いて慌てて防御魔法を展開する。
「【防壁】!」
透明な魔力の壁が、エリアナの前方に浮かび上がる。
ドガァンッ!
火球が防壁に激突し、激しい爆発音が響き渡る。
衝撃波が広がり、エリアナの体が後方に大きく押し流される。足が地面を滑り、なんとか踏みとどまる。
「くっ……」
エリアナが、歯を食いしばる。
額に汗が滲んでいた。
だが、スカーレットの攻撃は止まらない。
「【火球】」
次々と火球が形成される。
一つ、二つ、三つ――まるで曲芸のように、スカーレットの周囲に火球が浮かび上がる。
そして、一斉にエリアナに向かって発射された。
「――ッ!」
エリアナが、必死に防壁を維持する。
杖を握る手に、さらに力が込められる。
ドガァンッ!
ドガァンッ!
ドガァンッ!
連続して火球が防壁に激突する。
透明な壁に、蜘蛛の巣のようなヒビが入り始める。
「はあ……はあ……」
エリアナが、荒い息を吐く。
額からは汗が流れ落ち、顔色が青ざめていく。
魔力の消耗が激しいのだろう。
明らかに、スカーレットの方が優勢だった。
魔法の速度、威力、精度――全てにおいて、スカーレットが圧倒的に上回っている。
(……まずい。このままでは)
俺は、焦りを感じた。
拳をさらに強く握りしめる。
スカーレットが、さらに大きく魔力を込める。
杖の先端が赤く輝き、これまでとは比較にならない大きさの火球が形成されていく。
直径が一メートルはあろうかという、巨大な炎の塊だ。
「これで、終わりよ」
スカーレットが、冷たく言い放ち、火球を放つ。
ゴオオオッ!
火球が、轟音を立ててエリアナに向かって迫る。
防壁に激突し、巨大な爆発が起こる。
炎と土埃が舞い上がり、グラウンドを覆い尽くす。
視界が、真っ白になる。
「……!」
土煙の向こうに、エリアナの姿が見えない。
「エリアナ……!」
隣でリリアが、思わず立ち上がる。
普段は冷静な彼女の声に、初めて焦りの色が滲んでいた。
俺も、思わず身を乗り出す。
(……お嬢様!)
スカーレットが、土埃の向こうを見つめる。
そして、勝負がついたと判断したのか、教師の方を向いた。
「勝負はついたわ」
スカーレットが、淡々とした口調で言う。
「勝利宣言を、お願いします」
だが――
教師は、何も言わない。
じっと、土埃の向こうを見つめたまま、動かない。
「……?」
スカーレットが、怪訝そうな表情を浮かべる。
その時。
「まだ――」
土埃の中から、か細い声が聞こえた。
「まだ、勝負はついていません!」
風が吹き、土埃が少しずつ晴れていく。
そこには――
エリアナが、立っていた。
制服は破れ、あちこちに焼け焦げた跡がある。
右腕からは赤い血が流れ、足元はふらついている。
だが、その碧眼は――まだ、諦めていなかった。
まっすぐに前を見据え、杖を握りしめていた。
「……!」
スカーレットが、明らかに驚いた表情で目を見開く。
エリアナが、走り出す。
魔法ではない。
詠唱もしない。
ただ、足で――
必死に地面を蹴って、スカーレットに向かって一直線に駆けていく。
「――ッ!」
スカーレットが、慌てて防御魔法を展開する。
「【防壁】!」
透明な壁が、スカーレットの正面に浮かび上がる。
だが――
エリアナは、魔法を唱えていない。
ただ、走っている。
スカーレットに向かって――いや、違う。
エリアナの軌道が、わずかにずれる。
そして――
スカーレットの横を、駆け抜けた。
「え……?」
スカーレットが、困惑の声を上げる。
何が起きたのか、一瞬理解できない様子だった。
エリアナが、スカーレットの背後に回り込む。
そして――
大きな木製の杖を、思いっきり振りかぶった。
まるで野球のバットを振るように。
「――ッ!」
スカーレットが、気配に気づいて振り返る。
一瞬、二人の視線が交わった。
スカーレットの目に、初めて恐怖の色が浮かぶ。
だが、遅い。
エリアナが、全力で杖を振り下ろす。
ドガッ!
鈍い音が、グラウンドに響き渡る。
杖が、スカーレットの横腹に直撃した。
「ぐっ――!」
スカーレットが、苦悶の声を上げる。
防御魔法は、正面にしか展開していなかった。
背後は、完全に無防備だった。
スカーレットの体が、横に大きく吹き飛ばされる。
地面を二回、三回と転がり――なんとか手をついて、立ち上がる。
「はあ……はあ……」
スカーレットが、横腹を押さえながら荒い息を吐く。
その顔には、驚愕と――そして、明らかな痛みの色が浮かんでいた。
観客席が、一斉にどよめく。
「今の……!」
「杖で……殴った……?」
「魔法じゃなくて……物理攻撃……?」
「魔導士の決闘で、そんなこと……」
俺も、呆気に取られていた。
まさか、そんな方法で攻撃するとは。
(……今の、攻撃……)
その時、隣でリリアが小さく呟いた。
「……魔法が苦手なエリアナのための……秘策」
「……え?」
俺が、リリアを見る。
リリアが、小さく微笑む。
どこか誇らしげな表情だった。
「……魔法が下手なら……近づいて……殴ればいい」
(……秘策って、これか!)
俺は、思わず納得してしまった。
確かに、エリアナは魔法が苦手だ。
遠距離戦では、スカーレットに勝ち目はない。
だが――
接近戦なら、話は別だ。
魔法で距離を取られれば不利だが――
近づいてしまえば、物理的な攻撃が可能になる。
魔導士は、近接戦闘の訓練をあまり受けていない。
そこが盲点だ。
(……リリア、よく考えたな)
俺は、感心する。
そして――
(……お嬢様、よく決断した)
魔導士同士の戦いで、接近戦を挑むのは――
相当な勇気が必要だ。
魔法の弾幕をかいくぐり、相手に近づかなければならない。
一歩間違えれば、致命傷を負う。
リスクを承知で、スカーレットに肉薄し、一撃を入れた。
グラウンドで、二人が再び対峙する。
エリアナは、杖を構えている。
傷だらけで、呼吸も荒いが、その目はまだ輝いている。
スカーレットは、横腹を押さえながら、杖を握りしめている。
その表情には、もう余裕はなかった。
戦いは、まだ終わっていない――。




