姉と妹
模擬戦の前日。
ローズウェル家の屋敷。王都でも有数の名門貴族の邸宅は、夜になっても豪華なシャンデリアの光で満たされている。
広大な食堂。長いテーブルが、まるで二人の距離を象徴するかのように、部屋の中央に置かれていた。
その両端に、二人の少女が座っている。
一人は、赤髪を高く結い上げた、凛とした雰囲気の少女。ヴィクトリア・ローズウェル。王立魔法学院の生徒会長にして、次期当主候補。
そして、もう一人は――その妹、スカーレット・ローズウェル。
姉と同じ赤い髪を持つが、その表情には姉のような自信はない。
夕食の時間。本来なら、家族が集まり、和やかな会話が交わされる時間のはずだった。
だが、二人の間には、長いテーブルの距離がある。物理的にも、心理的にも。
カチャ、カチャ。
食器の音だけが、静かに響く。
「……」
スカーレットは、黙々と食事を続ける。フォークを口に運び、噛み、飲み込む。その動作は機械的で、まるで味を感じていないかのようだった。
向かいの姉は、優雅にナイフとフォークを動かしている。一つ一つの動作が洗練されていて、まるで絵画のようだ。
静寂。
ただ、食器の音だけが響く。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
スカーレットは、時折姉の方をチラリと見る。だが、すぐに視線を逸らす。
何か話したい。でも、何を話せばいいのか分からない。
そんな葛藤が、彼女の表情に浮かんでいた。
「スカーレット」
ヴィクトリアが、静寂を破って口を開く。
「……はい、お姉様」
スカーレットが、ビクリと体を震わせて顔を上げる。その目には、わずかな緊張が浮かんでいる。
「明日、模擬戦があるのでしたわね」
「はい」
スカーレットが、短く答える。
ヴィクトリアは、妹の表情を見る。緊張、不安、そして――期待。様々な感情が、妹の目に混じっていた。
「お姉様は……」
スカーレットが、言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「……見に、来られますか?」
その声には、わずかな期待が込められていた。まるで、子供が親に褒めてもらいたくて、何かを見せようとするような。そんな純粋な期待。
ヴィクトリアは、少し考えるそぶりを見せる。フォークを置き、ナプキンで口元を拭う。その一連の動作が、妙に長く感じられた。
「……生徒会の仕事が忙しくて」
ヴィクトリアが、申し訳なさそうに言う。
「見に行けないかもしれませんわ」
「……そうですか」
スカーレットが、俯く。その表情には、明確な失望の色が浮かんでいた。握っていたフォークが、わずかに震える。
ヴィクトリアは、妹の様子を見て、心配になる。
(……やはり、無理をしているわね)
最近の妹は、明らかに訓練のしすぎだ。朝、まだ日が昇る前から訓練場に向かう妹の姿を、何度も見た。
睡眠時間も削って、ひたすら魔法の練習。
「スカーレット」
「……はい」
スカーレットが、顔を上げる。その目は、どこか虚ろだった。
「あなた、最近少し無理をしていないかしら」
ヴィクトリアが、心配そうに言う。
「無理なんて、していません」
スカーレットが、きっぱりと否定する。その声は、強く、しかし――どこか無理をしているようにも聞こえた。
「ただ、魔法の訓練をしているだけです」
「それは分かっていますけれど」
ヴィクトリアが、優しく言う。その目には、妹を心配する色が浮かんでいる。
「あなたには、魔法以外にももっと大切なことがあるのではなくて?」
「……大切なこと?」
スカーレットが、顔を上げる。その目には、困惑の色。
魔法以外に、大切なこと?それが、何なのか分からない。
「ええ。例えば――」
ヴィクトリアが、言葉を選ぶ。
「友人と過ごす時間とか、趣味を楽しむ時間とか……」
ヴィクトリアは、妹に普通の女の子として生きてほしかった。名門ローズウェル家の重圧に押しつぶされず、ただ、自分らしく生きてほしい。
「……」
スカーレットが、黙り込む。その表情が、みるみる曇っていく。
ヴィクトリアは、続ける。
「魔法の訓練も大事ですけれど、あなたにはもっと――」
「お姉様」
スカーレットが、姉の言葉を遮る。その声は、震えていた。
ヴィクトリアが、驚いて妹を見る。スカーレットの目には、悲しみが浮かんでいた。
「私が……」
スカーレットの声が、小さくなる。
「期待されていない、ということですか?」
「え?」
ヴィクトリアが、驚いた顔をする。
期待していない?そんなこと、一言も言っていないのに。
「お姉様に比べたら、私なんて才能なんかない」
スカーレットの声が、震える。その目には、涙が浮かんでいた。
「魔法の制御も下手で、威力も弱くて……それは、私が一番よく知っています」
スカーレットが、拳を握る。その手が、小刻みに震えている。
「スカーレット、そんなことは――」
「だから、お姉様は私に魔導士なんて諦めてほしいんですよね」
スカーレットが、姉を見る。その目には、深い悲しみと――諦めの色があった。
「……え?」
ヴィクトリアが、困惑する。
違う。そんなことは、言っていない。言いたかったのは、そんなことじゃない。
「でも!」
スカーレットが、声を上げる。その声は、広い食堂に響き渡った。
「それでも、私は今まで努力してきました!」
スカーレットの目から、涙がこぼれそうになる。だが、彼女は必死に堪えていた。
「毎日、毎日、魔法の訓練をして――」
彼女の声が、途切れる。
「お姉様に、少しでも近づけるように――」
スカーレットが、俯く。
「……頑張ってきたんです」
静寂が、広間を包む。
ヴィクトリアは、何も言えなかった。妹の目に浮かぶ涙を見て、胸が締め付けられる。
(……違う)
そんなことを言いたかったわけじゃない。妹の努力を否定したかったわけじゃない。
「……スカーレット」
ヴィクトリアが、必死に言葉を選ぶ。
「私は、あなたに魔法を諦めてほしいわけでは――」
「分かっています」
スカーレットが、立ち上がる。椅子が、床を擦る音が響く。
「お姉様は優しいから、そんな風に言ってくださるんですよね」
「……」
ヴィクトリアが、言葉を失う。
違う。違うのに。どうして、伝わらないのか。
「でも、本当は思っているんでしょう?」
スカーレットが、姉を見る。その目には、深い悲しみが浮かんでいた。
「才能のない妹が、必死に頑張っている姿を見るのは――」
彼女の声が、震える。
「……痛々しい、って」
「そんなこと、思っていないわ!」
ヴィクトリアが、立ち上がって否定する。思っていない。そんなこと、一度も思ったことはない。
だが、妹は聞いていない。
スカーレットは、深々と頭を下げた。
「ごちそうさまでした」
その声は、冷たく、そして――どこか遠かった。
スカーレットが、部屋を出ていこうとする。
「スカーレット! 待って!」
ヴィクトリアが、声をかける。だが、妹は振り返らなかった。
ドアが開く音。そして、閉まる音。
ヴィクトリアは、ただ黙って見送るしかなかった。
長いテーブルに、一人残される。妹が座っていた椅子が、空いている。その空虚さが、やけに大きく感じられた。
「……私は、何を言っているんだ」
ヴィクトリアが、小さく呟く。
伝えたかったのは、そんなことじゃない。
妹は、妹のままでいいのに。それが――どうして、こんなにすれ違ってしまうのか。
「……」
ヴィクトリアは、椅子に座り込んだ。そして、頭を抱える。
シャンデリアの光が、冷たく輝いている。温かいはずの食堂が、今はひどく寒く感じられた。
スカーレットは、自室のベッドに座り込んでいた。部屋の明かりは消してあり、月明かりだけが窓から差し込んでいる。
「……やっぱり」
彼女が、小さく呟く。
「お姉様は、私に期待していない」
その声は、虚ろだった。
才能がない。努力しても、姉には届かない。どれだけ頑張っても、姉の背中は遠い。
「……」
スカーレットの目に、涙が浮かぶ。でも、すぐに拭う。
「泣いてる場合じゃない」
彼女は、自分を奮い立たせる。拳を握り、深呼吸をする。
明日、模擬戦。エリアナ・フォンブルク。あの少女を倒す。
魔法が下手で、制御もできないくせに。中級ダンジョンを討伐したと言われている。
信じられない。きっと、何か裏がある。ずるをしているに違いない。
「……絶対に勝つ」
スカーレットは、拳を握る。
そして――お姉様に、証明する。
自分にも、力があることを。才能がなくても、強くなれることを。
「……」
窓の外を見る。月が、冷たく輝いている。その光が、彼女の赤い髪を照らしていた。
明日、戦いの日が来る――。




