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12/30

学院生活の始まり

入学式の朝、お嬢様はいつになく早起きをしていた。まだ外は薄暗い時間帯にも関わらず、既に制服に身を包み、鏡の前で念入りに髪を整えている。その姿には、今日という特別な日への期待と緊張が滲み出ていた。


「カイト! 早く早く!」


お嬢様の声には、いつもの落ち着きはなく、少女らしい高揚感が満ちている。


「はい、お嬢様。まだ時間には十分な余裕がございますよ」


俺は穏やかに答えながら、お嬢様の様子を微笑ましく見守っていた。


「でも、遅刻したら大変ですもん!」


お嬢様の瞳は期待で輝いている。ずっと夢見ていた学院生活。幼い頃から憧れ続けてきた、その場所での日々が、今日から始まるのだ。


「それでは、参りましょうか」


「はい!」


俺たちは馬車に乗り込んだ。学院への道中、お嬢様はずっと窓の外の風景を眺めていた。まるで、これから始まる新しい世界の全てを目に焼き付けようとするかのように。


「あ、あそこに学院が見えますよ!」


お嬢様が指差す先に、荘厳な学院の建物が姿を現した。


「ええ、もうすぐですね」


お嬢様の足が落ち着きなく動いている。緊張と期待が入り混じり、心が高鳴っているのだろう。俺は静かに見守りながら、お嬢様のこれからの日々に思いを馳せていた。


学院の正門には、新入生たちが続々と集まっていた。みな立派な制服に身を包み、生まれ持った貴族らしい気品を自然と漂わせている。その光景は、まさに貴族社会の縮図とも言えるものだった。


「すごい人……」


お嬢様が小さく呟く。その声には、わずかな不安の色が混じっていた。


「カイト、やっぱり緊張します……」


お嬢様が振り返り、不安げな表情で俺を見上げる。


「大丈夫ですよ、お嬢様」


俺はお嬢様の肩にそっと手を置いた。


「お嬢様なら、きっと大丈夫です」


「……はい」


お嬢様は深呼吸をひとつ。そして、決意を新たにした表情で、学院の正門をくぐった。


入学式は、学院の大講堂で執り行われた。学院長の長い挨拶から始まり、来賓の祝辞、そして新入生代表による宣誓へと続く。厳かな雰囲気の中、式は粛々と進んでいった。


俺は講堂の後方、使用人用の待機エリアから、お嬢様の後ろ姿を静かに見守っていた。この学院では、執事や護衛が生徒席に同席することは許されていない。それが規則であり、越えてはならない一線だった。


確かに、物理的な距離はある。しかし、視線は届く。そして俺の心は、常にお嬢様のそばにある。


(……ここが、お嬢様の新しい場所か)


お嬢様がこれから過ごす世界。俺はただ、その成長を見守ることしかできない。それでも、俺にできることを全力で尽くそう。そう心に誓いながら、式の終わりを待った。


入学式が終わり、新入生たちはそれぞれのクラスへと移動を始めた。お嬢様は一年A組になった。


「ここですね……」


教室の前で、お嬢様の足がわずかに止まる。扉の向こうには、新しい仲間たち、新しい日々が待っている。


「頑張ってください。俺は廊下で待ってますから」


「はい……行ってきます」


お嬢様が扉を開けると、教室内の視線が一斉にこちらに集まった。新しい生徒の到着を確認する、好奇心に満ちた視線だ。


(……やはり、貴族ばかりだな)


没落貴族とはいえ、格は格。この独特の空気に慣れるには、それなりの時間が必要だろう。俺は廊下で待機しながら、教室の様子を注意深く観察していた。


しばらくして、担任教師が教室に入ってきた。三十代半ばと思われる男性だ。眠そうな目と、気だるげな雰囲気が印象的な人物である。


「はいはい、ホームルーム始めるぞー」


教室がざわつく。


「俺は担任のロバートだ。形式張ったのは苦手なんでな、堅苦しいのは抜きにしよう」


「それじゃあ自己紹介といこう。前から順番に、名前だけでいいぞ」


貴族らしい格式ある名前が、次々と告げられていく。そして――


「エリアナ・フォンブルクです」


お嬢様の順番が来た。その名が告げられた瞬間、


「……ああ」


ロバート先生が、手元の名簿から顔を上げた。


「ギルド経由で学院に報告が来ていたな。入学前に中級ダンジョンで顕著な成果を挙げた新入生というのは、君のことか」


その言葉に、教室が一気にざわめいた。


「中級ダンジョン?」


「新入生で?」


「ライノスと……アイアンゴーレム?」


周囲の生徒たちの視線が、一斉にお嬢様に集中する。


「い、いえ……私一人の力ではなくて……」


お嬢様は身を縮めながら否定しようとするが、


「まあ、詳細な話は後でいい。事実として正式な報告が上がっているのだから。新入生で中級ダンジョンの討伐というのは珍しいからな」


ロバート先生はそう言って、話を切り上げた。


ホームルームが終了すると、お嬢様の周囲に複数の生徒が集まってきた。


「ねえ、本当なの?」


「どうやって倒したの?」


「武器は何を使ったの?」


質問が次々と飛んでくる。


「え、その……」


お嬢様の戸惑いの声が聞こえる。


「カイト……」


助けを求めるような視線が、廊下の俺に向けられる。しかし、俺は教室の入口から一定距離より先に入ることはできない。使用人が教室内で前に出ることは、学院の規則で厳しく禁止されているのだ。


(……くそ)


歯がゆさに、思わず拳を握りしめる。


その時――


「ちょっと、あなた」


鋭い声が、教室の空気を一瞬で凍りつかせた。


生徒たちの人波が割れ、赤髪の少女が前に出てくる。その瞳には、冷たい光が宿っていた。


「あなたがエリアナ・フォンブルク? 学院にも正式に入学する前に、中級ダンジョンの討伐?」


少女は腕を組み、冷徹な視線でお嬢様を見据える。


「体系的な訓練も受けていない新入生が、中級ダンジョンを攻略? 普通に考えて、ありえないわよね」


「……」


お嬢様は言葉を失っている。


「誰かに功績を譲ってもらったの? それとも、強化薬でも使ったのかしら」


その言葉は静かだが、刃物のように鋭く、容赦なくお嬢様を切り裂こうとしている。


「そ、そんなこと……」


お嬢様は否定しようとするが、声が震えている。そして、ついに俯いてしまった。


「……努力してきた人間ほど、こういう話は信じられないものよ。だから……あなたみたいな不正は、絶対に許せない」


少女の声には、確固たる信念が込められていた。


「失礼します」


俺は規則の許す範囲ぎりぎりまで、教室内に足を踏み入れた。


「次の授業の準備をする時間となりました」


お嬢様の肩にそっと手を置く。


「カイト……」


お嬢様の表情に、安堵の色が浮かぶ。


「参りましょう、お嬢様」


俺たちは教室を後にした。背後から、あの赤髪の少女の冷たい視線を感じながら。


廊下に出ると、お嬢様は大きく息を吐いた。緊張から解放された証だ。


「……とても緊張しました」


そして、無理に笑顔を作ろうとする。


「でも、皆さん……悪い人ではなさそうで……」


(……一人を除いては、か)


あの赤髪の少女の目。そこにあったのは、単純な嫉妬だけではない。それは、この学院という場所が持つ価値観、そして貴族社会の厳格な序列意識そのものだった。


努力こそが全て。正統な手順こそが正義。そういった信念を持つ者にとって、お嬢様の存在は異質に映るのだろう。


(……嵐の予感しかしないな)


俺は小さく溜息をついた。


お嬢様の学院生活は、まだ始まったばかりだ。これから、様々な困難が待ち受けているだろう。しかし、俺は必ずお嬢様を守り抜く。


その決意を新たにしながら、俺はお嬢様と共に次の教室へと向かった。

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