08
クシャトカトラの望みはササラが少しでも長く生き延びることだ。行き擦りの食人鬼に狩られたり、何れ破滅するであろう二足獣の抵抗組織に拘束される様な事態は避けねばならない。ササラは周囲を警戒し、時に身を潜めながら歩いた。
足が真面に動かなくなった頃、日が昇る。随分と長く歩いた気がしたが、トルドフィメシス城は未だ視認可能な距離にあった。ササラは周囲を見渡す。見晴らしが良い場所である。近くに民家がないのが救いだ。しかし念の為、彼女は近くにある小さな森の中へ入った。
朝の森は肌寒かった。適当な所で腰を下ろしたササラは、外套を頭から被り膝を抱える。それでも冷気を完全には防ぎ切れなかったが、睡眠不足と疲労による眠気が勝った。然程時間を置かず、彼女は規則正しい寝息を立て始める。けれども、暫くして彼女の眠りは妨げられた。
「――さん、――ロさん」
何処からか間延びした声が聞こえる。
「おーい、スギシロさーん」
初めの内は判然としなかった言葉が、次第に聞き取れる様になる。だが、ササラのぼんやりとした頭はその意味を正しく認識出来なかった。
「うーん。『ササラ』さん、だったか? ササラさーん!」
記憶の中にない声が、記憶の中にある別人の声と重なる。
――ササラ。
「御主人様!」
クシャトカトラに呼ばれたと思ったササラは、慌てて上半身を起こす。ところが、目に映ったのは陽光に包まれた城内ではなく、昼間でも薄暗い樹木の世界だ。彼女は混乱したが、直ぐに自分が置かれている状況を思い出した。先程の声はクシャトカトラのものではない。こんな場所に彼がいる筈はないのだから。
「やあっと、起きたあ」
ややあって、歓喜と安堵の混ざった声が響く。ササラは息を呑み、次に恐る恐る声が聞こえた方を向いた。すると、知らない男性が傍らで片膝を突いて此方を見ていた。恐らく彼女よりは年上で、眼鏡と旅装を身に着けている。
「貴方は?」
戸惑いつつササラが尋ねると、男性は先に「ああ!」と声を上げて語り出した。
「名乗っていませんでしたかね。メルーゼルと申します。貴女のお友達と一緒に抵抗組織の建物にいたんですけど……覚えてます?」
「『抵抗』……あっ!」
彼のことは記憶にないが、ササラは「抵抗組織」という言葉に反応し、勢い良く立ち上がる。そして、メルーゼルとは逆側に飛び退いた。それを見たメルーゼルは困った顔をした。
「怖がらないで下さい。貴女が未だ浄種側にいるなら、僕は貴女の味方です。ほら、これを見て」
メルーゼルは自身の上唇を指で持ち上げ、歯を見せる。その内の数本は肉食動物の如く尖っていた。一般的な食人鬼よりは幾分か鋭さに欠けるが、凡そ同じ特徴と言えよう。
「貴方――貴方様は浄種様なのですか?」
「ええ、今は任務で二足獣の振りをして抵抗組織に潜入しています。牙も本来はもっと長く尖っているのですがね、今は偽装しておりまして。……そうそう、貴女が拠点から逃げられるよう鍵を開けたり道中の構成員を排除したりしたのも、実は僕なんですよ。上手く行って良かったです」
「気付きませんでした。申し訳御座いません。その節は大変お世話になりました」
ササラは身体から力を抜き、素直に謝辞を述べた。メルーゼルが食人鬼であるならば、ササラを助けた理由にも納得が行く。きっと同胞の中でも高い地位にあるクシャトカトラの財を損なうことを恐れたのだ。言動に整合性が取れており、尚且つ敵対する意思がない。ならば、彼はある程度信が置ける人物の筈だ。
一方、メルーゼルは対話の為の環境が整ったと判断し、ササラを座らせた後に漸く本題に入った。
「ところで、今日はどうされたんですか? てっきり城に戻ったものと思っていたのですが、途中で迷子になったとか? でも、来ている服が前とは違いますよね。クシャトカトラとはちゃんと合流出来ました?」
「はい。御主人様には見付けて頂けて一旦お城に戻ったのですが、追い出されてしまって」
「『追い出された』?」
眼鏡の下にある目元が歪む。ササラは首肯して話を続けた。
「『逃げろ』と言われました」
するとメルーゼルは軽く瞠目し、次に「成程、それは興味深い」と言って眼鏡の位置を調整した。
「事情は大体分かりました。僕はどう動けば良いのかな? 取り敢えず、家に来ます? ここでは誰かに見付かるかもしれませんので」
「あの、抵抗組織には……」
ササラは顔色を変える。凍り付く彼女を安心させようと、メルーゼルは穏やかな表情を作った。
「勿論、内緒にしておきますよ。騙して危害を加えるつもりもありません。貴女はクシャトカトラの所有物ですからね」
「有難う御座います。浄種様の仰せに従います」
トルドフィメシス城にて教わった通りに、ササラは格上たるメルーゼルの前で平伏した。
◇◇◇
メルーゼルの住まいは、馬で四半刻も掛からない場所にあった。先程までササラがいた森には索敵用の仕掛けが施されていたらしく、彼はその様子を見に来て偶然彼女を発見したのだと道中で語る。
建物の構造は嘗てササラが捕らわれていた抵抗組織の拠点と良く似ており、地上部分は民家、地下には多数の部屋が設けられていた。メルーゼルはササラを地下階の一室へと案内する。扉が閉じられる音を意識の端で聞きながら、彼女は室内を物珍し気に観察した。トルドフィメシス城とも抵抗組織の拠点とも似て非なる光景だ。そこはかとなく生活感があり、これが一般的な浄種の住まいか、と彼女は感動を覚える。実の所、彼女の推測はやや間違っていたのだが、傍から様子を窺っていたメルーゼルはそれを見抜きつつ苦笑するだけで終わらせた。そして、机の前に置かれていた椅子の一つを手前に引いて彼女に呼び掛けた。
「此方に座って待っていて下さい。お茶を入れて来ます」
はっと我に返ったササラは無礼な態度を取っていたことを自覚し、顔を引き締めてメルーゼルの方へと振り返る。
「大丈夫です。浄種様にそんな雑用はさせられません。私については、どうぞお気遣いなく」
「気にしないで下さい。組織からの客人が来る時は常にやっている『雑用』ですので」
「ですが……」
戸惑うササラに向かってメルーゼルは気さくな口振りで「良いから良いから」と言い、強引に着席させる。そうした後で、彼は部屋を離れて台所に向かった。
暫くして戻って来たメルーゼルの手には、茶器と茶請けが載った盆があった。クシャトカトラの居室で時折見掛た物よりは、幾らか質素な意匠である。
「有り合わせですが、お菓子も持って来ましたよ。一緒に食べましょう。あっ、甘い物は食べられますか?」
「大丈夫です」
「良かった。では、どうぞ。僕に遠慮せず頂いちゃって下さい」
「有難う御座います。頂きます」
躊躇いつつもササラは茶器に口を付け、舌の上で広がる苦味の為に顔を顰めた。机の向かい側に座ったメルーゼルは、そうしたササラの様子を人慣れしない兎に餌を与える気分で眺めた。
「クシャトカトラは貴女をとても大事に扱っていたのですね。他の二足獣に対しても同様なのかもしれませんが」
メルーゼルがしみじみと漏らした感想を聞いた、ササラは蒼褪めて茶器を置き姿勢を正す。
「失礼しました! 本来ならば辞退すべき所を厚かましく――」
だが、謝罪の言葉はメルーゼルによって中断させられる。
「いいえ、そういう話ではありません。貴女は先程『菓子』や『甘い物』といった言葉を疑問に思わなかったでしょう。つまり、貴女はそれらが何であるか知っていた、或いは過去に口に入れた経験があるということになる。一般的な家畜はね、甘味なんて知識すら与えてはもらえないんですよ」
「な、る、ほど」
「ああ、責めている訳ではありませんよ。勘違いなさらず。ただ、興味深いと思ったのです。二足獣の育成方法の正否は、専門家の間でも意見が分かれていますし」
そこでササラは物憂げな顔をした。
「御主人様には本当に大切にして頂きました。お城の外を知らない私でもそれが理解出来る程に。きっと他の家畜達も同じだった筈です。なのに、どうして皆は簡単にあの方を裏切れるのか……」
ササラは俯く。故にメルーゼルが一瞬厳しい表情を作ったのには気付き得なかった。ややあって彼は笑顔に戻るも、以前とは違って目元には憐憫が表れていた。
「貴女はクシャトカトラに好感を抱いているのですね」
メルーゼルが呟くと、ササラは面を上げて微笑む。
「大きな御恩がありますから」
今の彼女の振る舞いには一切の陰りがない。メルーゼルは何故か目を細め、勿体振った調子で「殊勝な方だ」と返した。
メルーゼルは再びササラに茶を飲むよう勧め、自らも茶と菓子を食す。自然と会話が途切れた。その後に、彼は別の話題を切り出した。
「さて、まずは僕の目的を先に告白しましょう。『僕の上にいる者達の』ではなく『僕個人の』最終目標について。壁際を見て下さい。あそこに置いてある物が何だか分かりますか?」
顔を横へ向けるメルーゼルに釣られて、ササラも同じ方向を見る。そこには剣や短弓、そして用途不明の金属製の道具が積まれていた。
「武器、と何でしょう。申し訳御座いません。無知なもので」
「あれらは全て形象機器です。形象機器が何かは分かりますか?」
「あれが全部! ……あっ、えっと、はい、分かります。魔法を生み出す道具、ですよね。浄種様しかお使いになれないとか」
嘗て耳にした話を想起しつつササラは答える。メルーゼルは頷いた。
「ええ、概ねその説明で合っています。但し、あれらの形象機器は一般に流通している物とは少し違っていましてね。僕が開発したのですけれども。二足獣のみが使用可能な形象機器なんです」
「『二足獣のみ』。二足獣が魔法を?」
ササラは目を見開いた。メルーゼルが実際には抵抗組織と敵対していると知っていても、これ等の兵器が反逆者と繋がっている事実が彼女に危機感を抱かせる。
「どうしてそんな物を……。浄種様はあれを抵抗組織に?」
「はい、お察しの通り彼等に提供しています。無論、彼等に利する為ではありませんよ。研究目的です。表では満足に検証も出来ませんからね」
ササラは咄嗟にトルドフィメシス城への帰り道を脳内に描く。クシャトカトラにこの件を伝えなければならない。直感的にそう思ったのだ。しかし、目は口程に物を言う。メルーゼルはササラの眼球の動きからその企みを読み取った。彼は笑みを消し、真摯な表情を作る。
「ササラさん、二足獣には食料以外の価値があります。ただ栄養となるだけが貴女達の能力ではないのです。形象機器の使用が可能なら、其方の役も割り振るべきだと僕は考えています。けれど、貴女達の可能性を証明するには――即ち別の運用やその為の研究を行うには、まず二足獣が急速に消費されている現状を変えなければなりません。故に、僕はクシャトカトラと協力関係を結びたい。彼が進めているイナサプテ計画は、二足獣の消耗を抑えるものなので。実はあの計画に関する情報が抵抗組織に流れないよう、工作も行っていたのですよ。彼等の横槍や戦意喪失を防ぐ為に」
時折情感を込めた口振りでメルーゼルは語ったが、ササラの反応は鈍かった。彼の思想は一介の家畜の身に余るものだ。
「あの、お話が難しくて私にはちょっと……」
ササラは困惑し、視線を反らす。だが、メルーゼルは逃さない。彼は身を乗り出してササラに詰め寄った。
「僕とクシャトカトラは利害が一致しているという話です。だから、仲間になりたい。ササラさんには彼との橋渡しをお願いしたいのです。要望を呑んで頂けるなら、僕は貴女への協力を惜しみません。二足獣であっても」
「私がですか? でも、私は食料用の家畜の一匹に過ぎません。御主人様に意見するのは難しいかと」
「表面上は貴女の言う通りなのでしょう。しかし、ササラさんに与えられていた環境や上の命令に逆らって逃がした所を見るに、彼が貴女に対し並々ならぬ情を抱いているのは確かです。最終的に合意に至るかは分かりませんが、少なくとも彼はササラさんの言葉に耳を貸す位はするでしょう」
「私は同意しかねますが」
クシャトカトラは二足獣にも優しいが、それでも所詮家畜は家畜だ。調子に乗って政治の話を持ち出せば、叱責を受けるのは目に見えている。けれども、メルーゼルは認めなかった。
「僕は試してみる価値があると思っているのですよ。とは言え、今は状況が芳しくありません。彼は襲撃の後始末に追われているでしょうし、此方も名家の当主相手に協力を申し込める態勢にはなっておらず、肝心の形象機器開発もまだ途上という有様です。従って、貴女には当面別の仕事を任せるつもりでいます」
「え?」
「今迄の言動から、ササラさんはただ養われるだけでは不安を覚える気質だと推察しました。また、貴女は現在死を望まれる身です。クシャトカトラの前に立つにしても、何らかの社会的価値を獲得しなければ命が危ういでしょう。よって、仕事を与えます。何、そう長い期間ではありません。危険過ぎたり貴女の立場が悪くなる様なこともさせませんので、安心して下さい」
メルーゼルは穏やかな笑顔を向ける。しかしながら、ササラが抱いたのは本能的な忌避感だった。彼女は適当な言い訳を吐いて、状況の打開を目論む。
「私、本当にお返しが出来るかどうか分からなくて。お役に立てるとも思えませんし」
「大丈夫ですよ。ちゃんと理解しています。全ては僕の判断に因るもの。縦え問題が生じても、それは僕が間違っていたというだけの話です。ササラさんの責任を問う意思は毛頭ありません」
そこでササラはふと気付く。メルーゼルの口元は確かに喜楽の形をしていたが、眼鏡を隔てた向こう側の目が笑っていないのだ。その冷たい眼差しがササラの心を静めた。彼女に拒否権はなかった。メルーゼルの言葉は提案ではなく命令なのだから。
「取り乱して反抗的な口を叩き、大変失礼致しました。私は家畜。身の振り方は私が決められるものではありませんでした。どうかお許し下さい」
ササラは恭しく頭を下げた。それに対するメルーゼルの反応は思いの外薄かった。
「協力して頂ける、ということで宜しいですかね。有難う御座います。なるべく万事上手く行くよう努めます。取り敢えず、今日は休んで下さい。下の階に空き部屋があるので其方で。仕事の詳細は明日話します。ああ、そうだ。ここには抵抗組織の者も時々遣って来ます。見付からないよう気を付けて下さいね。ササラさんの部屋のある区画には入れない筈ですが、念の為彼等の訪問があった時は室外に出ないでもらえると」
「畏まりました」
「では、部屋へ案内しますね。クシャトカトラの城とは比べ物にならない位、貧相な住まいで恐縮ですが。おっと、お茶とお菓子がまだ残っていますね。食べ終えてからにしますか?」
「差支えなければ」
「ええ、大丈夫ですよ。ごゆっくり」
そう言って、メルーゼルは僅かに浮かせた腰を再び下ろす。ササラは謝罪の後に温くなった茶に口を付けた。正直喉に物を入れる気にはなれなかったが、断る口実もなかったので我慢して流し込んだ。
◇◇◇
階段を降りてから目的の場所へと至る間には、広い作業室があった。ササラに与えられた部屋は、つい数日前まで仮眠室として利用されていたらしい。故に、急な来客である上に空き部屋と説明されていたものの、寝台は既に用意されている状態だった。
メルーゼルは毛布と敷布を交換した後、ササラに就寝するよう命じて退室した。ササラは言い付けを素直に守り、横になる。
「柔らかい」
提供された寝具はトルドフィメシス城の仮畜舎に設けられた寝床よりも上質だった。ササラは直ぐに寝入ってしまいそうになるのを必死に堪え、先程のメルーゼルの発言を脳内で反芻する。疲労で考えが纏まらない所為か、出現する言葉の時系列はばらばらだ。
――今は任務で二足獣の振りをして抵抗組織に潜入しています。
これは森で再会した際に発せられた言葉だ。抵抗組織に関する内容であるが、ササラは漠然と違和感を覚えた。
(浄種様達は強い。二足獣なんて簡単に倒せる筈。一体、何の為に潜入を?)
メルーゼルは露骨に胡散臭い男ではある。一方で――。
(あの方が浄種様なのは間違いない。間違いない、と思う)
彼が見せた牙が脳裏に浮かぶも、胸は不安で満ち満ちている。偽装出来なくもない、と今更ながら焦燥に駆られる。だが、何を狙いとした嘘なのか。ササラを介してクシャトカトラに接触し、害をなす為か。既に放逐された家畜を使っても、成功率は低かろうに。
(分からない。本当に信じても良いのかな)
結論を出すには余りにも情報が足りなかった。加えて体力も。
「明日聞いてみよう」
自分の他に誰も存在しない部屋でササラは呟いた。
(本来なら凄く無礼な行為なんだろうけど、判断を間違えて御主人様にご迷惑をお掛けしたくないから)
ササラは毛布を目深に被り、漸く思考を停止させた。




