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 メルーゼルが得た情報は正しく、サクサスバ書庫城北側にある城壁塔には魔法によって隠された入口があった。彼は自作の形象機器を使って仕掛けを解除した後、自分に付いて来るようササラに指示した。

 斯くして二人が扉を抜けると、下方へ向かう狭い階段が現れる。ところがこれもまた魔法による錯覚で、実は全く別の場所へ向かっているのだとメルーゼルは語った。「書庫城」という名の由来である大図書館は、本当は城内どころかこの世界の何処にも存在せず、世界の外側に作られた人工空間にあるのだと。

 やがて彼等は通路の果てまで行き着き、足を止める。正面には扉があり、直ぐ手前に金属製の板が立っている。入館管理用の形象機器だ。メルーゼルはその形象機器の前に立ち、懐から黒い札を取り出して翳す。すると、形象機器の表面に光の文字が浮かび上がった。メルーゼルは暫し文字列を眺め、続いて文字の内の幾つかに触れる。而して手続きを終えた彼が手を下ろした瞬間、扉が音を立てて横に滑った。

「開きました。入りましょう」

 振り返ったメルーゼルの顔は、何時になく緊張していた。分からないことだらけでつい呆けてしまっていたササラも、漸く我に返って気を引き締める。そして遅れて「はい」と答え、既に中に入ったメルーゼルを追った。

 部屋に入って、まず最初にあったのは暗闇だった。だが、少しして室内の照明が一斉に灯り、周囲の状況が明らかとなる。彼等は見渡す限りに広がる本の園の中にいた。床の上に等間隔に並ぶ本棚、入口部分を除く壁面全体、天井、透明な床板の向こう側――それら全てが本で埋め尽くされている。城の敷地とほぼ同程度の広さの大図書館に圧倒され、ササラは言葉を失った。その様を見たメルーゼルは、満足気に笑った。

「ね、驚くでしょう。僕も初めてここへ足を踏み入れた時は、今の貴女と同じ反応をしました」

「メルーゼル様は過去に此方へいらっしゃったことがあるのですか?」

「大昔の話ですけどね。ああ、勿論当時は隠し通路経由の不法侵入ではなく、ちゃんと正規の手続きを踏んで入れてもらったのですよ。いやあ、懐かしいなあ。あの頃は若かった」

 感無量といった風情で、メルーゼルは周囲を見回しながら直進する。そうして数歩先で彼は一度立ち止まり、脇に並ぶ本棚の間に入り込んで出て来なくなった。思いがけず放置される羽目になったササラは困惑し、彼が入った場所を覗き込む。案の定、メルーゼルは立ったまま本を読み耽っていた。ササラは恐る恐る「あの、メルーゼル様」と呼び掛ける。そこでメルーゼルははっと我に返り、苦笑しつつ持っていた本を元の場所に戻した。

「済みません。先を急ぐのでした。実はここには秘密書庫なんて物もありましてね。本命は其方なんです。入口は確か――」

 本棚の隙間から出て来たメルーゼルが、記憶を掘り起こしながら部屋の奥を向いた、その時だった。

「そこで何をしている!」

「おっと」

 突如響いた声は、ササラにとっては馴染み深いものであった。

「御主人様?」

 自信なさげに呟いて振り向くと、そこにはササラが思い描いた通りの人物がいた。クシャトカトラだ。後方にはルキセクエスもいる。

 クシャトカトラはササラの姿を認めて、一層苦々しい表情になった。

「ササラ、やはりお前だったのか。どうしてここに――」

「これはこれは! 何という幸運。まさか貴方が来て下さるとはね、クシャトカトラ」

 詰問の言葉を遮ったのはメルーゼルだ。彼はササラを自分の背後に隠し、クシャトカトラと向き合った。両者に目を遣ったクシャトカトラは、今迄とは別種の苛立ちを覚えてメルーゼルを睨んだ。

「何処かで見た顔だな」

 同じくメルーゼルを眺めていたルキセクエスが首を捻ると、クシャトカトラは即答する。

「アダルバスズだ」

 貴紳技師アダルバスズ――名家の出でありながら形象機器の開発者として名を馳せた変わり者だ。また、彼はフブフゲルグの敵対派閥に属していた官僚でもあった。ところが、政争に敗れた主家と共に失脚。以降は追われる身となり、行方を晦ましていた。

 クシャトカトラが最後にアダルバスズを見たのは少年の頃だ。既に記憶は曖昧で、手配書に描かれた肖像画の印象が強い。けれども描写は正確だったらしく、加えて事前に襲撃事件の黒幕に見当を付けていたこともあって、クシャトカトラは難なく相手の正体を看破出来た。

 少々奇妙に思ったのは、フブフゲルグやカカラティアクと同世代であるにも拘らず、彼が肖像画と同じ若い頃のままの姿をしている点だ。しかし、それも彼が生み出した未知の形象機器の効果なのかもしれないとクシャトカトラは結論付ける。強過ぎる探求心故に怪人と成り果てた男――。クシャトカトラの顔が自然と険しくなった。

 幾らか間を置いて、漸くアダルバスズについて思い出したルキセクエスは声を上げた。

「ああ、あいつか! ……って、何でこんな所に?」

 だが、クシャトカトラもメルーゼル――否、アダルバスズも返答しない。前者は質問に対する答えを持たず、後者はルキセクエスに興味がないからだ。アダルバスズはクシャトカトラを見る。落ち着き払って微笑んでいるものの、そこはかとなく相手と距離を置きたがっている気配もある。侮蔑している風にも見えた。

「覚えて頂けていたとは光栄です。貴方はササラさんを追って此方まで?」

 今度はクシャトカトラがアダルバスズを無視する。彼はササラに尋ねた。

「ササラ、この男に拾われたのか」

「はい。あの……」

 後ろめたそうにササラは俯く。クシャトカトラは固くなっていた表情を僅かに緩め、穏やかな声で話した。

「私の叱責を恐れなくて良い。お前は何も知らなかったのだから。一先ずその不審者から離れなさい。私の許へ――」

 クシャトカトラが手を差し出すと

「あの――あっ!」

 身を乗り出したササラをアダルバスズは再び自身の背後へと押し戻す。

「随分と彼女にご執心でいらっしゃる」

「貴様……」

 憤怒の形相に変わったクシャトカトラを見て、アダルバスズは思わず笑声を漏らした。これはもしや、と勘繰った。

 クシャトカトラは問う。

「人質のつもりか?」

「まさか。彼女は大切な協力者ですよ」

「『協力者』? 二足獣がか?」

 捨て置かれたルキセクエスが侮蔑の言葉を吐く。すると、冷たく鋭い声が返って来た。

「食って暴れるしか能のない動物は黙っていなさい。元より人語を使うことさえ烏滸がましいというものです」

「何だって?」

 ルキセクエスは冷笑を消し、足を踏み出す。その胴をクシャトカトラは片腕で押さえた。

「良いから黙っていろ。話が前に進まん」

「ええ……」

 不満を表すルキセクエスを他所に、クシャトカトラは愈々本題に入った。

「アダルバスズ、此度の件はお前が企てたものか?」

「外の騒ぎについて言っているなら、発案者は彼等自身ですよ。準備段階では私も多少協力はしましたが、大凡が彼等の手で行われている作戦です。尤も、外の騒動を利用させてもらったのは確かですけれども。この先にある秘密書庫の蔵書が見たくてね」

「つまり、お前は襲撃者の正体を知っているのだな?」

「貴方の城を襲った犯人と同じですよ。二足獣が浄種に抗う為に立ち上げた組織です」

 クシャトカトラとルキセクエスは息を呑んだ。一拍置いて、クシャトカトラは言う。

「随分と口が軽いのだな。さておき、お前の話が真実ならば一つ分かることがある。我が城は兎も角、現在サクサスバを破壊しているのはどう見ても魔法だ。しかし、形象機器を扱える浄種はここにいる。であれば、襲撃者の中には最低でももう一人浄種が存在する筈だが」

「貴方は私を敵と認識しているのでは? 信じるに足らない相手に対し、どうして素直に問うのです? まあ、相手が貴方なら情報を開示しても構いませんが。残念ながら、貴方の推測は外れています。彼の組織に入り込んでいる浄種は私だけです」

「嘘を吐くな。だったら、誰があの攻撃を放っているんだ? まさか魔法の資質を有する二足獣が現れたとでも言うのか?」

「私を覚えているなら、もう察しは付いているのでしょう? あの形象機器は二足獣用です。官僚時代に私が提唱した物です。開発に成功したのですよ。王宮から予算を貰わなくてもね。そうだササラさん、貴女が持っている物を彼等に見せてあげて下さい」

 突然話し掛けられたササラは一瞬固まるも、やがて慌てて腰巻鞄から短剣を取り出した。クシャトカトラは眼前に差し出された短剣には触れないまま透視を行う。結果、アダルバスズの話が真実であると理解した。

「まさか本当にやるとはな」

 実現可能とは思っていなかったという意味と、黒い欲望を自制出来なかったことへの非難を込めて、クシャトカトラはそう呟いた。けれども、アダルバスズは彼の言葉を片方のみの意味で受け取る。

「おや、貴方も机上の空論だと思っていたのですか? 傷付くなあ」

 理性なき研究者は軽い口調で返す。過去に彼が成した「悪行」など意に介さないといった風である。クシャトカトラは反吐が出そうになった。

 失脚前、アダルバスズは少なくない数の二足獣を実験台にして死亡させた。一度停止命令が出て、渋々ながら従っていたらしいが、王宮を離れてしまえば彼を止める者はいない。実際、彼は二足獣用形象機器を完成させている。恐らくは更に多くの二足獣を殺してきたのだろう。

 ふと、クシャトカトラはササラのことが気になった。彼女もまた二足獣だ。アダルバスズは「協力者」と呼んでいたが、彼女に何か危害を加えてはいないだろうか。武器を持たせ、作戦に同行させた理由も不確かだ。実験の一環か、使い捨ての護衛か、或いは――。

「ササラ、今直ぐその形象機器を捨てろ。罠が仕掛けられているかもしれない」

「え?」

 自爆攻撃の可能性に思い至り、クシャトカトラはササラに命じた。ササラは真意を測りかねて戸惑う。だが、何にせよ主人の命令だ。彼女は短剣を捨てようと手の力を抜く。すると、アダルバスズが自分の手を彼女の手の上に重ねて止めた。

「心配は要りませんよ、ササラさん。『僕』は貴女のことを協力者だと言ったでしょう。そもそも、今貴女が手に持っている形象機器には余分な仕掛けを組み込めるだけの大きさはありませんよ」

「ササラ!」

「止して下さいよ。飼い主の貴方に厳しく命じられたら、同じく浄種である私との間で板挟みになって、彼女が困ってしまうではありませんか」

 食人鬼達は睨み合う。アダルバスズの言った通り、ササラは何方の言葉に従えば良いか迷った。但し、それは短い間の出来事。彼女の中に根強く残る魔法が、彼女の方針を勝手に決めた。

「あっ……ご、御主人様、私、応援を呼んで来ますね。――痛っ!」

 嫌悪感と憐憫が混ざった視線を送った後、アダルバスズはササラの手首を掴んで捻り上げた。彼女は痛みに悶え、短剣を取り落とす。硝子の床が、かしゃりと鳴った。

「アダルバスズ!」

 クシャトカトラは身を乗り出し叫んだ。今にも襲い掛からんとする彼の前に、アダルバスズは両手を後ろ手に掴んだササラを盾の如く配置し、袖に潜ませていた針型の武器を彼女の首に宛がった。

「本当はもっと穏便に事を進めたかったのですが」

 溜息を漏らすも、アダルバスズの言動はやはり軽い。ササラの裏切りや生死に対し、然程心を向けてはいない様に見える。果たして、どういった心境で彼はササラを「協力者」と宣ったのか。

「下がっていろ、クシャトカトラ。俺が対処する」

 人質を取られて動けないクシャトカトラを押し退けて、ルキセクエスが前に出る。彼はササラを疎ましく思っている。アダルバスズと共に処分するつもりでいるのかもしれない。クシャトカトラはルキセクエスの服を掴み止めようとする。だが、彼が口を開くより先にアダルバスズが喋り出した。

「武器を向ける必要はありません。私も彼の友人になりたいと思っているのですから」

 ルキセクエスとササラの関係を察したのだろう。アダルバスズの声には微かに焦りが表れていた。片やクシャトカトラは彼以上に動揺していて、視線を彷徨わせながら「一体何を」と呟く。アダルバスズはしたり顔になって答えた。

「イナサプテ計画」

 クシャトカトラとルキセクエスの両方が動きを止めた。共に静かな怒りを宿している。クシャトカトラは崇高な理想を汚されたと感じ、ルキセクエスの方は意図せず汚物の山を視界に入れてしまった時の気分になった。こうした彼等の心中を他所に、アダルバスズは興奮で声を上擦らせる。

「素晴らしいじゃありませんか。二足獣を寿命の限界まで利用し続ける方策です。私は支持しますよ。そこにいる貴方の友人やあの忌々しいフブフゲルグとは違ってね。私が提唱した計画との相性も良い」

「私を利用して中央へ返り咲こうと?」

 突如、アダルバスズが陶酔から覚めた。とは言うものの、彼の意識は未だ現実とは別の場所にある。空想の中にある理想の未来から色褪せた過去の世界へと移動しただけだ。

「どれだけの人間が現状の正当性を訴えようとも、私は全く納得していません。我々に瑕疵はありませんでした。人々を良い方向に導けた筈です。にも拘らず、地位も領地も奪われ放逐された。如何に正しくとも大衆が望んでいないからという理由で、その大衆を正しく治めるべき方の手によって。しかも、冤罪を着せてまでですよ。こんな理不尽があって堪るものですか」

「ふん、零落れた奴は皆そんな風に言うんだよ」

 他人の不幸を鼻で笑うルキセクエスに対抗して、アダルバスズもまた冷笑を浮かべて彼を見る。

「貴方の大切な友人も遠からず同じ轍を踏みますよ。ちゃんと味方を増やしておかないと」

「誰がお前なんかと」

「決めるのは貴方ではありません。クシャトカトラです」

 アダルバスズは再びクシャトカトラの方を向く。ルキセクエスとは異なり、生真面目な若者に笑顔はない。だが、クシャトカトラの内には今や怒りはなかった。代わりに、義務感が彼を支配していた。

「如何ですか? 勿論、一方的な援助を求めるつもりはありません。私からも貴方に技術供与を――」

「私はお前とは組まない」

 望まなかった言葉に説得を封じられて、アダルバスズは僅かに表情を変える。

「何故です? 貴方にとっても悪くない話だと思うのですが」

「お前の計画に意義を感じないからだ。手口や価値観も気に入らん。二足獣の活用を謳いながら、実際に行っていたのは彼等を過度に消費する動物実験だ。お前は彼等を道具としか見做さない。獣とは言え命ある存在であるのに。よって、私は断じてお前を容認しない」

「飽くまで過程における話です。それに、食い殺すよりはましでしょう?」

「食べなければ死ぬからそうするんだ。弄んでいる訳ではない」

「だとしても、他に遣り様はあるでしょうに。やれやれ、所詮貴方も感情論の人なのですね。実に惜しいことです」

「感情があるからこそ、この計画を立てたのだよ」

 それを聞いて、アダルバスズは溜息を吐いた後に首を横に振った。失望はクシャトカトラにも伝わった。勝手に期待して勝手に落胆する男に、クシャトカトラは苛立ちを募らせる。

「成程。しかし、協力して頂けないのは残念ですね。この図書館、何重にも鍵が施されていると聞いています。開錠するには認証が必要なのだとか。それらを無理矢理抉じ開けなければならなくなる。野に下った私とは違い、フブフゲルグのお気に入りである貴方なら、結構深い所まで行けるのではないかと考えたのですが」

「当初の予定通りでは?」

「ええ。ですが、もっと楽に済ませられる方法が目の前にあるのでね」

 アダルバスズはササラの首に当てていた針を少しだけ押し込んだ。ササラは短く呻き、痛みに耐える。命素を宿した赤い液体が彼女の細首を伝った。クシャトカトラは瞠目し「ササラ!」と叫んだ。

「済みません、ササラさん。暫く話を合わせて下さい」

 ササラの耳元に口を寄せ、アダルバスズはそう囁く。ササラは面食らう。そして返す言葉に迷い、結局沈黙した。

 顔の位置を戻したアダルバスズは、クシャトカトラに向かって言った。

「私としても大変不本意ですが、仕方がありません。共闘して頂けないなら、秘密書庫の鍵を開けて頂くだけでも結構です。拒否すればどうなるか、分かっていますよね?」

「アダルバスズ、貴様!」

 クシャトカトラはアダルバスズを睨み付けることしか出来なくなった。しかし、傍らに立つルキセクエスは笑い、肩を竦める。

「馬っ鹿じゃねえの?」

「ルキセクエス?」

「俺の存在を忘れていたな、アダルバスズ。その方法が通用するのはクシャトカトラだけだと気付いていただろうに」

 ルキセクエスが暴れたがっているのを見て取って、クシャトカトラもアダルバスズも共に警戒する。アダルバスズの方は続いてクシャトカトラに視線を送った。彼はルキセクエスを忘れていた訳ではない。ただササラを人質に取ってクシャトカトラを動かす以外に、窮地を抜ける方法を思い付かなかっただけだ。故に、念じた。「クシャトカトラよ、ルキセクエスの暴走を止めろ」と。されど、思いは通じなかった。クシャトカトラが制止するより先に、ルキセクエスは地面を蹴って前方へと飛び出した。

「待て、ルキセクエス!」

 遅れてクシャトカトラの声が響いたが、無意味だった。その頃にはルキセクエスは剣を抜き、ササラに迫っていた。アダルバスズは舌打ちし、ササラは目を瞑る。直後、彼女は床に転がり短い悲鳴を上げた。

「ぐあっ!」

 慣れ親しんだ人物が聞き覚えのない声を出す。床にぶつかった瞬間に閉じられていた瞼をササラが上げると、ルキセクエスの剣に穿たれたアダルバスズの姿が目に飛び込んできた。同時に、彼に捕まれていた腕が今頃になって痛み出す。彼女は上半身を起こし、痛む部分に手を添えた。しかし彼女の目は自身の腕ではなく、刺さった剣を抜かんとしたルキセクエスに蹴り飛ばされるアダルバスズの方を向いていた。

「ササラ!」

 クシャトカトラが駆け寄り、ササラを力強く抱き締める。けれど、彼女はクシャトカトラの肩越しにアダルバスズを見詰め続けている。

「メルーゼル様?」

 庇護者から離れて、ササラは仰向けに倒れているアダルバスズの許へ行こうとした。それが気に入らないクシャトカトラは、再度ササラを抱擁した後に立ち上がり、ササラの腕を掴んで引き上げる。

「離れるぞ、ササラ」

「御主人様、ですが――」

 あの人はきっと私を突き放して攻撃から守ってくれたのです、とササラは言いたかった。言いたかったのに、何故か声が出なかった。彼女の身体が主人に逆らうことを頑なに拒んでいた。

 ササラが悶々としている内に、ルキセクエスがアダルバスズの横に立つ。そして、剣を構えて宣言した。

「止めだ」

 淡白な声が響いてから間もなく、既に血に染まっていた剣がアダルバスズの首を刺し貫いた。



 事が終わった後、ササラは呆然としつつ再度床に腰を付けた。既に安全は確保されている為、クシャトカトラも今度は彼女を無理に立たせようとはしない。逆に彼は膝を突き、目の高さを相手に合わせた。

「ササラ、無事で良かった。本当に……」

 クシャトカトラは冷え切ったササラの手の上に自分の手を重ねる。生前のアダルバスズと同様に。そこで漸くササラは反応を見せた。虚ろな目が正面にいる男へ向く。瞳に映るのは涙を滲ませた彼の笑顔ではない。彼の左手を飾る指輪だ。それがどうしてかササラを惹き付けて止まなかった。

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