拝啓、勿忘草の花言葉
『いいお姉ちゃんじゃなくて、ごめんね……』
精一杯に出し切った、かすれた声。それもまた深い微睡みと底無しの闇の中に飲まれ、揉まれ、揺蕩い、消えていく。
かつてあったはずのこと、一緒にいたはずの誰か、存在したはずの自分はもう憶えていない。
あの夢は甘美で、可憐で、楽しかった。
まるで別世界に行ったかのように、みんなと触れ合うことが出来た。
不思議な人々。幻想的な風景。非日常的なアイテムやハプニング。それら全ては嬉々とした思い出の欠片として芽生え、ずっとそこにいたくなるような感覚に囚われる。
「モノくん、この前の冒険は楽しかったね。今日は何処に冒険に行く?」
いつも底無しに明るく、また気弱な一面も併せ持つ少年、アズ。僕の親友で、何をするにも息ぴったり。
「モノ、元気ないな。今日はクッキー持ってきたから、みんなで食べようぜ」
みんなのお兄ちゃん、クレイ。料理、裁縫、絵画、勉強、運動と何でも出来る完璧超人。唯一の弱点は高いところと虫。
「モーノー、聞いてよ、ミントちゃんが意地悪なの!」
クレイの妹で、僕と同い年の少女フラン。天真爛漫で無邪気で他人思いで、兄譲りの頭の良さが所々に光る。
「モノ君、朝はどう? また立ちくらみがするようだったら、言ってよ。薬なら持ってるし、支えてあげるから」
僕の一番最初の幼馴染で、どうやら幼少期僕と結婚の約束をしたことがあると言う少女、ミント。僕への執着心が凄くて少し怖いが、根は優しくて純粋な乙女心を持つ。
「この花はガーベラ。『希望』や『前進』っていう花言葉があるの。特にオレンジ色の花言葉は『あなたは私の輝く太陽』。フフッ。モノ、君は私の輝く太陽だよ」
そして僕の大好きな大好きな姉、クロ。物静かだけど優しくて、植物にさえも気を配るおしとやかで綺麗な女性。
みんな仲が良くて、時に息を合わせて、時に喧嘩もあったけれど、どんな困難が待ち受けていてもみんなの協力で乗り越えてきた。
――でも、現実じゃそうはいかなかった。やはり夢というものは脳の幻影が見せた願望であり、現実は非情だった。
あの時のみんなとは全くと言っていいほどに異なり、風景も色あせ全てが変わり果ててしまった。
「私たちは■■■を守れなかった。寄り添ってあげられなかった。あの時■■■が一番近くにいたのに、いつも近くにいたのに、なんで止めなかったの? ■■でも涙の一滴も流さなかったあなたは、本当に■■■の事を大切に思ってたの?」
■に懐いていたフランは心を病み、自傷行為が激しくなった。物言いも乱暴になって、髪を黄緑色に染め、何処かのゴミ捨て場から拾ってきたであろう凹んだ金属バットを持ち歩き。
いつも腕に血のにじんだ包帯を巻いていた。目の下にはクマができて、最終的に孤独のまま姿を消した。
「■■■は仕方ないさ、気に病む必要はない。あれが彼女の選んだ選択で、そこに君が責任を背負うことはない。俺は責めないよ」
フランの兄であるクレイ――グレイは変わらなかった。まるで今までのままでいようとしているようで、現実から目を逸らしていた。何も変わらないあまり、その胸の内に仕舞い込んだものの強大さは計り知れないほどに膨らんでいったのだろう。
「その……なんというか。今君に余計な励ましをしたところで君を傷つけるだけだし、無用な物言いは極力避けるつもりなんだけどさ」
アズ――アズライトの明るさは失われ、あの一件以降留めていた気弱さが前面に出てくるようになってしまった。彼は家庭事情が複雑なこともあり、ストレスはかさむ一方。
見るからにやつれ、人とのコミュニケーションを避け、唯一喜ぶものと言ったらスイーツのみ。人が変わったように、周りから離れるようになった。
「■■■君。私は一生そばにいるよ。誰がどうなろうと、何と言おうと、私は君を愛し続ける。君の■■■■■の■■は心中痛み察するけど、君は何も言わなくて良い。私も一緒に背負ってあげる。私たちは、運命共同体だよ?」
ミントは、まるで僕を監視するかのようにスキンシップが激しくなってきた。絶対に逃さない、そんな思惑があるようで凄く怖かった。
でも、彼女がそばにいることが僕の心の傷を塞いでくれるようで、ある種の共依存に近い状態にまで陥っていたのかもしれない。
何もかもが変貌を遂げてしまった現実で、『最悪なこと』がまた起こってしまうことになったら。きっと今度こそ、みんなのメンタルは耐えられない。
僕もそれは例外ではなかった。
「私、兄さんがいなくなったら悲しいかも……。でもね、何か楽しいことを考えたら、悲しいことなんて吹き飛んでいくんだ。だから■■■も、楽しいことを考えようよ!」
無邪気で可愛げのある少女の声。あらぬ方向に折れ曲がった四肢、透明でドロっとしたものとピンク色の塊が、止め処なく流れ出す赤い液体に濡れて光沢を放つ。
「深く言及しないさ。大切な人を――■■を失った哀しみはそれこそ想像を絶するものだってことは、俺もよくわかってる。悲しかったら、相談してくれ。話が出来るなら、いつでも何でも付き合ってやる」
包容力、頼りがいのある穏やかな男性の声。激しい水音と宙に舞い陽光を反射し輝く無数の水滴。ぐっしょりと濡れる感触が不快で、とても冷たかった。
「■■■、君が■■■を■■したあの日、あの日のこと、僕は咎められない。でも、君がしたことは――」
気弱そうな、少年の中性的な声。揺れる足と、転がった椅子。ピクリとも動かない指。真実を知った彼は、どんな気持ちだっただろう。
「■■たんだよ。あの日あの時、君は■■■を■■■■。でも私は赦してあげる。だって■■■は苦しんでいたんだから」
冷淡で、哀しそうで、嬉しそうな少女の声。脳裏に浮かぶ鮮血、流れ落ちる大粒の涙、そして愛していたはずの人の最後の笑顔。
――姉は花が好きだった。庭の花壇に季節の花や気まぐれで花を植えては、僕に花言葉を教えてくれる。
特にその時植えてあった勿忘草の青色を、僕は一生忘れることはないだろう。
『知ってるかな。私の一番大好きな花、勿忘草の花言葉。それは――』
鼓膜に響く、優しく甘い声。■■■■も尚、■を見つめる穏やかな眼差し。■の苦悩を、全て理解していたかのような言葉。
そんなわけがない。僕の苦しみは、僕の悩みは分からない。
みんな、みんなみんなみんな! 僕の事を理解しようともしない。■■な■も、僕を■してくれる■■■も、■■ってくれる■■■も、■■■なった■■■も、■■■られていた■■■■■も、■も■もみんな――
そんな時、僕は自分がしでかしたことをやっと理解した。
痛い。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
信じられない。許したくない。赦されない。認めたくない。思い出したくない。憶えていたくない。
でもそんな僕の気持ちとは裏腹に、封印されていたあの日の■■な記憶は、霧が晴れるかのように蘇ってくる。
「――全部、思い出した」
ああそうだ、僕は――
『私を忘れないで』
次の瞬間には、逆手に持ったナイフの切っ先が、自身の腹部を刺し貫いていた。