【五】大雨の中で
◇◇小町◇◇
今日のお勤めが終わった。お菓子屋の店主からもらった報酬を握りしめ、あたしは市場へと駆ける。走っているのは、いつもより帰りが遅くなったからだ。辺りはもう薄暗い。急がないと、店が閉まってしまう。
「よかった、まだ残ってる」
今日は久々に、竹輪の煮付けを買っていこう。桜華がこれ大好きで、あいつがお菓子屋に居たころはよく買ってきていた。さすがに五日連続で買ってきたときは怒ったけど、まあそれくらい美味しいってのは正直分かる。
「うわ、降ってきた……最悪」
夕飯をもって帰路に就いた直後、雫があたしの顔を掠めた。雨だ。あ~あ、桜華が買った傘でも借りておけばよかった。嘆きながら進む。もう二十分だけでいいから、雨足よ強くならないで。そんな願いは、天の誰にも届きそうになかった。ぽつぽつと、やがてざあざあと、全てを雨が濡らし始める。あたしはあたしで夕飯を庇いながら歩く。いよいよ大粒になってきた。一瞬でも早く廃屋に帰る為、あたしはまたも駆ける。橋に差し掛かった。そんな時の事。
「ううっ」
一回。ぶるっと体が震えた。桜華ほど寒さに弱くない自信はあるし、そもそも今日は雨だけどそんなに寒い日じゃない。今のは何と言うか、あたしの身体の最深部から湧いて出たような震えだった。
「早く、帰らなきゃ……」
呟いた。分かっている。早く帰らないと雨でぐっしょりになる。
「早く、早く……」
分かっているのに、あたしの足は動かない。帰らなくちゃ——いやそれよりも……見たい。そう思った。顔を左に向ける。ゆっくりと、ゆっくりと。抗えない。一度見たいと思ってしまったら、どうしてもその欲を抑えられなかった。まるで、何かに操られているみたいに、あたしは尚もゆっくり左を向く。葛藤の末、敗北したあたしの視線は川辺へと下りた。
「あ——」
そして見た。見てしまった。七つのそれ——即ち人影を。こんな雨の中、七人が一直線に並んで歩いている。牛歩も牛歩。本当に進んでいるのか分からない程、それはゆっくり歩いている。
「こんな時に、川辺を歩く人間なんて……」
居る訳ない。そもそも、雨の降ってる降ってないにかかわらず、整備も舗装もされていない川辺に七人一緒に入る意味が分からない。ましてや牛歩だなんて。
「……まさか、人間じゃない?」
半ば本能的に呟いた言葉は、轟々という雨音に搔き消されることなくあたしの耳朶に届いた。これがまた頭の中で反響する。人間じゃない。人間じゃない。人間じゃないけど、あたしは人影と言った。人の形をした人ならざる者。それ即ち——
「幽、霊…………?」
黄泉の異形と思しいそれらは、尚もゆっくり歩いている。一発の雷鳴が、あたしを正気に戻した。それからのことはよくわからない。只管、家族の待つ廃屋に向かう。頭がぼうっとしていた。最後に感じたのは、温かさ。最後に聞いたのは、あたしの名前を呼ぶ声。最後に見たのは、雨の中でも散らず咲き誇る……桜色だった。
◇◇桜華◇◇
外が雨だと気付いた私は、先ず火鉢を焚いた。小町が濡れて帰って来るだろうからね。ふーっと息を吹きかけると、炭が赤く光って温かくなり始める。そういえば昔、八岐神社で私に火鉢の焚き方を教えてくれたのは吉平だったっけ。初めてだったから上手くできなくて、彼の顔面に灰を吹きかけたのはいい思い出だ。ふふ。いやなに、思い出し笑いよ。
「うわ、すっごい……」
その頃にはもう雨というか、水が落ちてきていると言った方が正しいくらいだった。眠るのも苦労しそうなほど、ばらばらと音がする。
「遅いな、小町」
いつもならもう帰ってきている頃だろう。それで、私の家事に文句を言う。でも今日はまだ帰っていない。お菓子屋が忙しいのか、何処かで雨宿りをしているのか。
「迎えに行ってあげた方が良いかな」
雨音の中呟く。私には、ちょっと前に千代さんのお店で買った傘がある。持たせてやれば良かったなという後悔と、いや雨が降るかどうかなんて予知できないしという理屈が、私の中で綯い交ぜになる。
とぼとぼ、ふらふら。そんな感じで大雨の中を歩く小町が見えたのは、廃屋から十分くらい歩いたところだった。跳ねる泥を気にすることもなく、私は彼女の元へと疾駆する。
「小町、小町!」
焦点の定まらない目で私を見たその瞬間、彼女は膝から崩れそうになる。倒れる前になんとか支えてやれたけど、小町の身体は力なく私にもたれかかってきた。
「小町、大丈夫? ねえ、小町!」
身体が冷たい。雨にあたっていたせいだろう。これ以上濡れないように小町を傘で守り、廃屋へと引き返した。
私の呼びかけには、小町は弱々しくだけど「ん」と返事をする。意識が朦朧としているようで、支えていないと倒れてしまいそうだった。とりあえず雨の当たらない廃屋の中に入れ、乾いた布で髪を拭いてやる。
「ほれ、火鉢焚いてあるから」
「……うん」
這うように温かい方へ寄っていく小町。立つのもしんどいと見える。次に新しい着物を持って行って、濡れている——だから、今着ている着物は脱がす。着替えてる間に布団を用意してやり、寝かせた。
「どう? 寒いとか、どっか痛いとかある?」
「……寒い。あと、ちょっと頭痛いかも」
おでこにおでこを当ててみると、確かに熱い気がした。まだ微熱だろうけど、ここから上がらないとも限らない。
「薬は……無いな、買わないと」
私は着替えながら嘆いた。今日はもう閉店しているだろうから、薬袋のお店に行くなら明日の早朝。それまで、小町には耐えてもらうしかない。拗らせなきゃいいけど……。
「幸い明日は休みなんだよね? 今日はもうゆっくり寝て……って、震えてるじゃん。まだ寒い?」
火鉢のおかげで、部屋はむしろちょっと暑いくらいになっている。それほど大きな火鉢じゃないけど、生憎、それほど大きな家——小屋でもないからね。
「ねえ、桜華」
小町は今にも消えてしまいそうな、しかも震えた声で私の名を呼ぶ。
「幽霊を見たって言ったら、信じてくれる?」
え?
幽霊?
ちょっと何言ってるか分からない。
「……熱で幻覚でも見た? 雨の中歩きながら半分寝てたんじゃないの?」
眠りが浅かったり疲れてたりすると、夢と現実の狭間みたいになることがあるよね。小町は仕事の疲れと発症しかけの風邪とでそうなって、夢と現実が混同したんじゃないかな。
「……違う」
疑った私に対する小町の否定は、本物だった。夢なんかじゃないと、私にそう強く訴えているんだ。
「そこの橋を渡ってた時……川辺に人影が七つ、居た」
「只の狂人じゃなくて?」
「違う、違うよ……」
聞いてみると、その人影とやらは黒くて、七人一列になって荒れ放題の川辺を牛歩で進んでいたらしい。こんな大雨の中を、ね。確かに不気味ではある。
「あれは、あれは絶対……!」
「ああこらこら、起き上がらないの。分かったから」
上体を起こしてまで私に信じさせようとした小町。彼女の肩を押さえて、元の仰向けに戻らせる。
「嘘じゃ、ないんだって……」
よほど怖いのか、はたまた寒いのか、彼女は布団に潜ってしまった。どうしたもんかね。幽霊が存在すると認めたくはないけど、小町の様子はどう見ても普通じゃない。
「わかったから、今はとにかく寝なよ。お粥作ったら呼ぶから、それまではさ」
前にお粥で大失敗してるけど、もう大丈夫。小町先生にしっかり教えてもらって、人並みには作れるようになっているからね。
「……うん」
暫くすると小町の寝息が聞こえ始めた。恐ろしい夢でも見ているのか、時折泣きそうな声で「う」と寝言を言う。可哀想だけど、夢の世界にまでついて行ってあげることはできない。それが、たまらなく悔しかった。




