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【十四】穢れを纏った狼

 翌早朝。寝不足の身体に鞭を打って、三人で狼君が座っていた川の辺に足を運んだ。百千鳥の鳴き声、土の匂い、そして水の流れる音。どれもが変わりなくそこにあったけど……。


「桜華ちゃん小町ちゃん、見て」


 先頭を歩いていた生明が、ある一か所を指さして震えながら言った。言われずとも、私の目にも映っている。


「狼君が、居ない。わたしたちが結んだ紐も……」


 木に括られた麻紐のその先は、空虚。強引に引っ張り切られて残った紐の先端と、僅かな血痕のみである。


「周りの木たちは、何か見てないかな? 誰かが紐を切りに来たとか」


 僅かな期待を込めて言ってみた。生明は「聞いてみるね」と呟き、首輪を繋いでいた木に話しかける。


「……そっか。うん、教えてくれてありがとう」


 彼女は一瞬俯いた後、私たちの方を向いて代弁してくれた。それはそれは悲痛な。今にも泣きだしてしまいそうな。極めて、悲しげな顔で。


「『昨日の夜、寝ていた狼は突然暴れだした。狂ったように紐を引っ張り、やがて紐が切れると血塗れの身体で走っていった』……だって」


 若しかしたら、何処かの誰かが狼君を逃がしたんじゃないか。その可能性もあるなと思ってたけど……。どうやら彼は誰かに解放してもらったわけではなく、自らの力で紐を切ったらしい。そして、生明の家を襲った。悲しいけど、それが現実(こたえ)だ。


「生明。とりあえず、いったん家に帰ろう」


 生明は返事をせず、両手で顔を覆って何かぶつぶつと言っている。私はその姿を不気味に感じて、もう一度呼びかけてみた。


「……うん?」


 今度は返答があった。酷く憔悴した顔だ。


「今日も畑仕事がある。もし辛いなら休んだって良いよ。どちらにせよ、いったん帰らないと」

「……そう、だね」


 生明の家に戻ると、そっちはそっちで大問題が発生していた。


「お父さんが、病気?」

「そうなのよ。熱と下痢が酷くてね。それに、もう何度も戻しちゃってるの。幸い、この前買ったものの中に飲み薬もあったから良いけれど……」

「そんな……」


 美里さんによると、茂雄さんは布団から出ようともしないらしい。それに、「病気が伝染(うつ)るから近付くな」と言って美里さんによる看病も拒んでいるという。心配だ。不幸ってやつはどうしてか、こうやって立て続けに襲ってくることがある。まるで、紐で繋がっているかのように。


 巫山戯た会話をする気にもなれず、私たち三人はほとんど無言でその日の畑仕事をこなしていた。太陽が東から南に登るその途中——五割弱くらいかな——、畑に珍しいお客さんが現れた。濃い緑色の髪を風になびかせる、上下紅白の着物が眩しい彼女は、おっとりした声で私らを呼ぶ。


「生明~、桜華様、小町様~」


 畑の向こうから彼女——神馬神社の巫女、実稲が不慣れそうに大きな声を出している。三人で顔を見合い、彼女の方へ一歩進む。すると彼女はこっちに掌を向け、「ああ、その場で聞いてください」と静止した。


「実稲、どうしたの?」


代表して生明が返事をした。


「お昼が済んでからで構いませんので、後ほど御三方で神社へお越しくださ~い! お話したいことがございます~」


「神社に? 何かあったの?」

「そうよ生明~。まあ、良いお知らせではないわね~」


 つまるところ、悪い知らせがあるから来てくれと。はっきり言えばそうだろう。ただでさえ嫌な感じだったのに、もう一つ不安要素ができてしまった。こんなに待ち遠しくない、なんなら来てほしくないご飯の時間は、生まれて初めてかもしれない……。


 重い空気を背負ったまま、実稲に言われた通り三人で神馬神社の鳥居をくぐった。実稲も不安を感じているのか、境内の同じところをずっと(ほうき)で掃き続けている。


「お待たせ、実稲」


 生明が声をかけると、実稲は一瞬びくっとしたように見える。それほど掃除に夢中だったか、若しくは周囲の気配に鈍感になるほど呆けていたんだろう。


「御三方、お待ちしておりました~」


 彼女は掃除を止め、丁寧にお辞儀。顔を上げた彼女は間もなくある方向に手を向けた。


「早速ですが、こちらです~」


 鳥居付近から数分歩き、拝殿の次に絢爛な建物に入った。八岐神社と同じ考え方が通用するなら、ここは祈祷殿だ。その奥へと進む。


「あちらをご覧くださ~い」

「えっ、あれって……」


 廊下の奥、突き当りの壁際にそれは横たわっている。布を敷いた座布団の上で、不定期に浅い呼吸を繰り返す獣。よく見るまでもなく、その正体が分かった。


「狼君……!」


 私は震えた声で言いながら、思わず駆け寄った。彼はずっと、小さく「くぅん、くぅん」と()()()いる。傷口が腐っているかのように赤黒く腫れている。とてもじゃないが、見ていられる状態じゃない。


「食事を与えても吐き出してしまって~。薬草を煎じたものも、一緒に吐いてしまうんです~」


 四人で彼の近くに正座した。


「御三方——特に桜華様は二度、人喰い狼と対峙されたと伺っております~。この狼は、その人喰い狼でしょうか~?」


 腕に傷がある。麻紐の首輪と、それを強引に引っ張ってできた傷も認められる。それと、右脇腹の傷も。もう疑う余地もない。


「うん、間違いないよ」

「この子、どうしてこんなことに……?」


 小町が聞くと、実稲は思い出すように語った。


「この狼は先ほど、神社の近くで発見されました~。それも……汚穢(おわん)まみれの状態で~」


 ってことは……昨日彼を追い払った後、夜陰の中から聞こえた「どぼん」という鈍い音。あれは、彼が肥溜めに落ちた音だったんだね。その推測を実稲にも共有した。


「そうでしたか~……。となるとおそらく、肥溜めに落ち、身を清めることができなかった為に感染症に侵されてしまったのでしょうね~」

「この子はもう、助からないの?」


 もうほとんど泣きながら、生明が問うた。事に依ったら、何とかなるかもという希望を抱いていたかもしれない。だけど、実稲から出た言葉は残酷だった。


「……残念だけど、時間の問題だと思うわ~」

「そんな……」

「それに~」


 実稲は毅然と、しかし慈しみも含まれた声色で言う。


「例え快復したとしても~、そのまま元みたいに野生に返すことは憚られるわ~」


 確かにそうだね。この子は、人喰い狼として村の人々を恐怖させていた存在。一年間も苦しめ、時には村人を殺している。何が狼をそうさせているのかは全くもって不明だけど、せっかく捕らえたのを、やっぱり野放しにはできない。それに実稲の立場からすれば、ここは心を鬼にして対応すべき場面だよね……。


「実稲は、この子が人を襲う理由……何か検討はつく?」

「いいえ、現状さっぱりです~。生明の話によれば~、当の御本人でさえ、襲撃時のことを一切記憶していないとか~」

「そこだよね、鍵は」


 少し迷ったけど、生明に話したことを実稲にも話してみよう。突飛も突飛、突飛の域を大股で踏み越えたような話だ。


「もし、この子が無意識に暴れるのは悪魔の仕業かもって言ったら……やっぱり可笑しいかな?」

「と仰いますと、人喰い狼事件は、悪魔崇拝者によるものと~? たしかに、被害者は熱心な豊穣神信仰者ばかりのようですが~」

「若しくは悪魔そのものとか。とにかく、悪魔かその信奉者か何かが、狼に取り憑いて意識を乗っ取る。そうやって、人喰い狼事件を起こす……とかね」

「それは畢竟(ひっきょう)~、狼が錯乱して暴れる人喰い狼事件ではなく、悪魔が狼の意識を乗っ取る()()()()であると~? それでしたら確かに、いくつかの不可思議も納得がいきますが~」


 実稲が換言すると、今度は小町が言う。


「だとすると、犯人の特定なんて不可能じゃない? 実証できないでしょ、そんなことされたら」


 そこが難しいところなんだよね。手口が予想出来ても、実行犯にたどり着くのは極めて困難——なんなら不可能と言ってもいいかも。そう悩んでいると、何やら生明が呟いた。


「えっと、それは……」


 彼女の顔には、さっきまでの絶望や悲しみに加えて()()が見えた。


「何か手がかりがあるの?」


 問うと、彼女はよりいっそう渋い表情になった。


「ご、ごめん。なんでもないや、忘れて……」

「……? うん、分かった」


 またしばらく沈黙した祈祷殿。ひゅう、ひゅう、と狼君の虫の息だけが聞こえる。その感じに耐えかねた私は,「とりあえず」と前置きして静寂を壊した。


「私たちはいったん、悪魔とか憑依とかについて調べてみるよ。この村の信仰に限らず、ね」

「あの~、それはまたどのように~?」

「その辺について詳しい人に聞いてみるの」


 それだけ言って狼君の身体を数往復撫でてやり、立ち上がった。


「ほら行くよ、小町」

「行くって、どこに?」


 小町は首を傾げる。


「城下町だよ、城下町」

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