【十】白き獰猛な獣
夕食を御馳走になって行水も済ませ、生明の部屋で布団に入った。その頃には美里さんも明日に備えて眠り、茂雄さんはお酒に酔って爆睡していた。この部屋では今日も今日とて、眠る前の女子会が始まる。
「畑の人たちがね、二人のことすごく褒めてたよ。手際が良くて助かるって」
「ほんと? 良かった、実は邪魔になってるんじゃないかって心配だったんだよね」
「あたしら、実は畑仕事やってたことがあるんだよね。あんな広大なもんじゃないけどさ」
「そうだったんだ! 道理で手慣れてるわけだね」
そんな日常会話から始まり、話題はやはり、例の件へと変わる。
「それはそうと、御鏡は見つかりそう?」
「う~ん、微妙かな。実稲が詳しく教えてくれたけど、まだ在り処までは特定できそうにないや。悪魔崇拝者が持ち去ったらしいから、信仰の拠点を探すのが早いかもだけど、彼らについてもあと一歩、ううん、一欠片何かが足りないって感じ」
「そっか。ずっと、なあなあにされてる話だもんね。なかなか掴めないのも無理は無いよ」
「ところで生明」
すっごい眠そうな声で小町が言った。微睡んだ顔をしてるし、もはや半分寝てるんじゃない?
「うん?」
「生明は、どっちの派閥なの?」
「ああ、わたしはね——」
美里さんは絶対に豊穣神側。我等が神、豊穣神様って言ってたし。茂雄さんだって、農家だ。その二人の娘なら、彼女だって豊穣神信仰者なんじゃないの? まあ、本人の口から聞いたわけじゃないし、信仰は自由だから分からないけど。ともあれ、その答えは今ここで分かる。
「あんまり大きい声で言わないでね? 実はわたし——」
ごくりと息を飲む。
「無神論者なの」
驚きのあまり声が出なかった。無神論者? まさかの第三勢力が出現し、頭の中の勢力図や相関図はもはや大崩壊を起こしている。嗚呼……ばらばらと崩れる音が聞こえる気がするよ。
「そうなの? なんていうか、意外」
衝撃が強く、そう返事をした小町の睡魔は祓われたように見える。
「えへへ。わたしが無神論者なのには理由があってね。というのも——」
その瞬間——だから生明が自身の思想について語ろうとした瞬間。私たちがいる部屋のすぐ外で、動物の鳴き声がした。ここは一階で外に面しているから何も不思議ではない。それに、城下町とは違って自然に囲まれているから、動物が現れるのも不思議じゃない。
「小町、今のって……」
だけど、この村において、しかもこの動物の声だけは話が違う。それ即ち、狼の鳴き声である。
「うん、狼だよね」
「も、もしかして人喰い狼?!」
三人で身を寄せて辟易していると、「どん! どん!」と部屋の壁に衝撃が与えられ始める。何が起きているのかはすぐに想像できた。狼だ。狼が、この部屋に私らがいると察知して攻撃しているんだ。繰り返される衝撃に、壁が悲鳴を上げた。ばき、ばきと木材がひび割れ、崩れ、少しずつ真っ白な毛並みが見え始める。
「そんな、人喰い狼のこんな事例、聞いたことないよ!」
狼狽える生明。そうね。俄かには信じがたい。わざわざ壁を壊して攻撃してくるなんて、妙にも程がある。
「二人とも、逃げる準備して! 呑気に寝てる場合じゃないっぽい」
崩れ行く壁と二人の間に入り、帯に刀を差した。どうしよう……鯉口を切っておくべきか否か。そんなことを考えているうちに壁に大きな穴が開いた。生明の悲鳴が闇夜に轟く。狼がその穴から部屋に侵入。目が血走り涎を垂らすその姿は、生明に、実稲に、誰に質問するまでもなく、確実に例の人喰い狼だろうと分かる不気味さだ。
「来るよ!」
私は叫んだ。二人への警告と、自分自身への気合入れも兼ねている。それとほぼ同時に、狼は私に噛みつこうと跳び掛かってきた。
「あらよっと」
大した速度ではなく、城下町で暴れた男の攻撃のように難なく躱す。狼はすぐに私の方に向き直り、「がるる」と威嚇を始めた。暫く見合う。三人の人肌で温まり始めていた部屋に、無慈悲な冷気が流れ込む。部屋は冷やされた。狼は威嚇とともに涎を散らし、生明の布団をべちゃべちゃにする。そうかと思うと、全身の毛を逆立ててまたこっちに跳んできた。部屋には小町も生明もいるのに……。何この狼、私のこと好きすぎ。
「おっと」
今度も難なく回避した。いつまでも避けてばかりじゃ、状況は好転しないか。そう思い、狼が着地する瞬間の隙を狙って横っ腹を蹴った。その方向には壁の穴がある。狼は「きゃん」と可愛く鳴きながら、家の外に着地した。
「はいはい、もう大奥には入れないからね」
狼に向かって伝わらない言葉を投げ、私も穴から外に出た。素足だから、冷たい土が直に触れる。それと、分かってたけど外はまったき闇だ。
——がるる!
狼が助走をつけて跳んだ。暗黒の中、牙が迫ってくる。部屋から追い出すことばかり考えていたけど、この状況じゃ私が不利なのは明白だ。暗闇で目が利くのは向こうだし、私は裸足で怪我を警戒して動きが鈍る。回避行動をとり難い。
「桜華!」
「桜華ちゃん!」
家の中から二人の声が聞こえた。はは、そう心配することはないよ。回避しにくい? じゃあ、回避なんかしなきゃいいんだもん!
鯉口をきった。
迎撃は、まだまだ余裕で間に合う。
刀を抜き放ち、狼の頸を捉え——
「——あっ!」
こいつは人喰い狼。すでに何人もの人を殺している、獰猛な獣。それなのに一瞬、ほんの一瞬、悲しげな表情を浮かべた。そのせいで剣筋が狂い、前足に縦一文字の刀傷をつける程度に留まった。狼は数歩離れた位置まで吹っ飛び、傷の痛みに喘いでいる。ああ、甘さで絶好の機会を逃した。もし私がこの狼を死ぬほど憎んでいたら、今、何の迷いもなく殺していたはずなのに。
「逃げた!」
小町が叫んだ。狼は傷ついた前足を気にしながら夜に紛れていく。こんな闇の中じゃ、走って逃げる狼に追いつくのは至難の業だよね。深追いはしないでおこう……。人喰い狼の討伐を諦め、大人しく納刀した。
「桜華大丈夫? 怪我は?」
裸足なのに、小町は何の躊躇いもなく駆け寄ってきた。
「無傷だけど、とりあえず家に上がりたいかも。美少女の御御足が傷ついたら大変だからさ」
「よかった、頭は打ってなさそうだね」
「それ、どういう意味か説明してくれる?」
汚れた足で生明の部屋には入れないので、玄関から回り込んだ。生明が鍵を開けてくれたうえ、濡れた手拭い——足拭いを用意してくれた。気が利くね。
「……生明?」
よく見ると生明の目は赤く、涙が浮かんでいた。余程怖かったのだろう。そりゃそうだよね。何人も殺している狼が、自分の部屋の壁を壊して襲ってきたんだから、そりゃ怖い。
「生明。もう大丈夫、狼は追い払ったから」
「えっ、ああ、うん。ありがとう、すごく怖かったよ……」
彼女の表情に違和感がある。恐怖とはまた違う。慄いているわけでもない。虚無? いや、絶望だ。それが一番しっくりくる気がする。
「みんな、どうしたの? 凄い音だったけど」
そこへ、美里さんが現れた。ちょうど足を拭き終わったから、立ち上がって彼女に説明する。
「人喰い狼が出ました」
「えっ?!」
「どんどんという音は、狼が生明の部屋の壁を壊した音です。ああ、もう大丈夫ですよ、狼は追い払いましたから」
「まあ、そう。怪我は無い?」
「ええ」
彼女とともに四人で生明の部屋へ。壁には、やっぱり大穴が空いている。夢であってほしかったけど、残念ながら現実みたい。とりあえず三人分の布団を二階の空き部屋に移し、そこで寝させてもらうことになった。あの快活な生明があれ以降、全く喋らなかった。唯一、「おやすみ」という挨拶を除いては。涙の理由が気になる。絶望の理由が気になる。ただ狼が怖かったってだけじゃないのは明白だ。だとしたら、彼女はいったい何を感じたんだろう……。




