【三】枯死した神秘
お祓いとお勉強が済んだ後、私は拝殿で八岐神社の御神体を恍惚と眺めていた。正面中央の祭壇に御座すそれの名は、天叢雲剣。ところどころに錆があったり、刃こぼれしていたりする。
その様子は、剣を見る者——少なくとも私に、太古の英雄の存在をほのめかした。そんなものが祀られているこの神祠は、昔はよほど大事なものだったんだろうと思う。まあ、今では神とか何とかの信仰は、すっかり廃れちゃっているみたいなんだけどね。かく言う私も、剣を眺めていた動機は信仰心じゃない。神韻縹渺たる神品に、それこそ壺とか掛け軸みたいな、芸術品としての趣を感じるからだった。暇な日は、朝夕眺めていることもある。
「ここに居たのか、桜華」
御神体に見惚れていた折柄、ふいに声がかかった。お兄ちゃんたちに比べると、少し年齢を感じさせる声色だ。
「お父さん」
見ると彼は、今朝の吉平のように弓矢を持っていた。もしやお兄ちゃんが狩りに失敗して、事に依ったら、私が今日の晩御飯にされるのかと思った。内心で「やめて、私、桜餅みたいに甘じょっぱくて美味しいとかないから!」なんて、馬鹿げた命乞いをしたが、無論そんなはずはなかった。
「何を怯えている?」
「な、なんでもない」
「……ならいい。今から森に出て、お前にも狩りを教えてやるから、ついて来なさい」
そっか。お兄ちゃんやお姉ちゃんたちは、もう数年以内に独り立ちする。そうなったら、私も小町も、神社裏の菜園だけやってればいいという訳にもいかなくなる。少なくとも私か小町のどちらかは、魚の一匹や二匹、鹿の一頭や二頭狩れないと困っちゃうもんね。
「はあい」
本音を言うと、もう少し剣を眺めていたかった。なんだったら、拝殿で昼寝をしたいまである。不承不承、私はお父さんの背中を追って鳥居をくぐった。空を仰ぐ。黒い綿は、ゆっくりと、しかし着実に、八岐神社へと近づいていた。
森に入ると、当然だけど、整備されていない草草が生い茂っている。名前も分からないような、小さい羽虫が跳梁跋扈しているのが見えた。今朝がた、一向に減らない土如きを「魑魅魍魎」と言ったのは、いささか誇張が過ぎたなと、忸怩たる思いになる。
少し歩いて深いところまで来ると、空模様とは無関係に暗くなり始めた。……ちょっと怖い。虫の跳躍や鳥の羽撃きに、逐一びくびくする。更に進んでいると、突然、お父さんが左手で私の進路を扼す。何かと思って前を見ると、せせらぎのすぐ近くに雌鹿を発見した。脂が乗ってて美味し——とても健康的な鹿だった。お父さんはそれを、狩猟の標的にしているようだ。
「桜華、試しに射ってみなさい」
お父さんは小声で語りかけながら、私に弓矢を渡す。鹿を見て「かわいい~」とか呑気に構えていた私には、その行為はとびきり無慈悲に感じられた。
「えっと、こう?」
いつか見た持ち方を、記憶の限り見よう見まねで再現。その是非を問うたが、お父さんは「やってみろ」としか言ってくれない。なら、自己判断でやるっきゃないね。そう決心した私は、極めて拙劣な格好で矢を放った。びよよ~ん。そうへんてこな音が聞こえてきそうな、見窄らしい結果に終わる。
「ははは、そりゃそうだ。まずは練習が必要だからな」
もし私が、初見一発で成功させるような生来の天才弓使いだったら、お父さんはいったいどんな顔をしたんだろう。一撃に気づいた鹿は、少し離れたところで脅威の出所を探っている。だけど彼女は、頭隠さず尻も隠さずであった。——じっと、目が合っているような気がする。
「御命頂戴!」
そう唱えながら、私はもう一撃放った。二撃目はさっきより幾分かましに飛んでいき、絶えず不安げに見渡していた彼女の後ろ脚を掠めた。
彼女は一回「キィ」と鳴き——泣き、足を引き摺りながら、茂みの奥へと逃げ隠れてしまった。
梢に坐する葉っぱどもが懸命に目隠しをしているが、努力も虚しく、木の間が出来上がっている。見上げていた私は一瞬、その隙間から空の閃光を見た気がした。
「いいか、桜華」
茂みをかき分けた先で休む彼女を見つけ、今度はお父さんが弓を引く。別の弓かと思うくらい、ぎりぎりと軋む音がした。
「こういう時は、相手の動きをよおく見ないと駄目だ」
「動き?」
「ああ」
その状態のまま、お父さんはわざと小石を蹴って鹿を驚かせた。もちろん、彼女は暴れだす。
「これは剣でも同じことだが、ただ我武者羅に攻撃しちゃいかんぞ。動きには必ず隙がある。そこを突くんだ」
そう言いつつ、お父さんは矢を放った。鹿は、私の目には、狼狽して隙無く暴れているようにしか見えなかった。でも、どうやらお父さんからすると違うらしい。ひゅんと立派な音を立てて飛んで行った矢は、見事、鹿に致命傷を与えた。
それと時を同じくして、空からごろごろと音が聞こえた。雷鳴だ。このまま森に居たら危険だと、お父さんは仕留めた鹿を担いで走る。私も彼に続いた。水滴がばらばらと葉っぱを叩く音も私たちの耳朶に届き始め、次第に強烈になっていく。神社に帰ってきたころには、雨は桶をひっくり返したような勢いになっていた。雷鳴や稲光も、ほんの少し前までとは桁違いに激しくなっている。
ざんざん降りのなか帰宅する私たちを心配したのか、吉平や小町たちが拝殿で乾いた布を用意して待機してくれていた。その場にはお兄ちゃんやお父さんが居て恥ずかしいから、祭壇の裏に隠れて体を拭くことにしよう。
「はいよ」
「お、あんがと小町」
その間に、小町が着替えを持ってきてくれた。
着替え終えて祭壇の裏から出ると、雨はさらに強くなっていた。
「こりゃ、あ……うだな」
お父さんが何か呟いた。一番大事そうな部分が、雨音にかき消されて聞こえなかった。ただ雨が降っているだけだけど、私はなんだか嫌な気分になる。沈鬱な顔で外の様子を見ていると、強烈な一閃。その直後、世界が終わったのかと錯覚するほど、大きな雷鳴が轟く。柄にもなく、吉平がびくっとしているのを見た。
「ああ、桃の木が!」
真っ先に事件に気づいたのは、宣長だった。彼の言葉通り、鳥居近くの桃の木に異常が認められる。今の落雷がその幹を再起不能なまでに破壊し、根から倒してしまったみたいだ。今朝、神秘的な出来事を見せてくれただけに、私はこの喪失が異様に悲しかった。
私はただ、憮然と立ち尽くしていた。