【一】凶刃の潜む夜
◇◇◇
「本日はご多忙の中、貴重なお時間を割いて頂き、誠にありがとうございます」
父と娘が、屋敷の門から凶刃の潜む夜道に躍り出た。彼らは港町に店を構える薬屋である。高尚な生まれの坊ちゃんが腹の病を罹患したため、親子は出張して薬を売っていたのだ。前を向いて帰路に就く父。娘は父の隣を歩きつつ、顔だけ振り返って、自身らに頭を下げ続ける屋敷の召使を見ていた。
「ほら、前を見て歩かないと転ぶぞ」
あの召使さんは、いつまで頭を下げ続けるのだろう。そう思って見ていた娘は、父の指摘を受けて顔を前に向けた。彼女の目の前には、永遠とも思える闇が続いている。進んでいる実感を持てないような無限の道。音も無い。強いて言うなら虫の声のみだ。物の怪でも飛び出すのではないかと、娘は身震いする。
「どうだ、勉強はできたか?」
「うん。お腹が痛い人には、透頂香をぬるま湯で飲んでもらうといいんだね」
彼女が父の仕事に同行したのは、学びを得る為であった。父は薬屋として店を持ち、医者と協力して多くの人を病から救っている。その背中に憧れた彼女は、自身もまた、高祠之国に名を馳せる薬屋になりたいと願ったのだ。
「それだけじゃないぞ。透頂香は万能薬という側面があってな。目眩や咳にも良いんだ」
「そうなんだ! 透頂香は万能薬。透頂香は万能薬。透頂香は万能薬……」
夜道を歩きながらでは書き留められない。今しがた学んだ事を忘れてしまわぬよう、娘は何度も復唱した。
「あれ、確か透頂香は材料が高いって……」
「ははは、よく覚えていたな。お前の言う通り、あれは少々高価だが、こいつは商売でもある。ほれ、屋敷を見てみろ」
親子は数秒のみ足を止めて振り返り、先ほど出た屋敷を遠くから見た。周囲の民家とは桁の違う大きさだ。屋敷の様子から父は、坊ちゃんの快復に関して金に糸目は付けないだろうと踏んだのだ。再び歩き出した父は懐に手を突っ込み、巾着袋を気にした。中身は、屋敷で受け取った透頂香の代金である。その額は、一般庶民であれば聞いただけで目眩がして、それこそ透頂香を服用すべき事案となる程度である。
そんな希望が満ちに満ちきった親子の前に、その男は姿を現した。
「ちょっと失礼。その装い、商人様とお見受けしますが」
黄泉にも匹敵する不気味な道に現れたそれは、しかし、物の怪の類ではない。髪はきれいに整えられ、髭もきちんと剃ってある。紺色の着物は一切乱れていない。背筋は真っすぐ伸びており、一見すると高い身分の好青年だ。
「いかにも。私は港で薬屋をやっている者ですが、何か薬をご所望で?」
「いいや、薬は必要ございません」
自らを怪しむ親子の視線を受けながら、男は笑う。彼の視線は薬屋の顔面から薬箱へと移った。
「……あの大きな屋敷から出てきたということは、今日はかなり儲かったのでしょう?」
「それほどでも。これにたらふく飯を食わせてやるので精一杯ですよ」
父はそう応答しながら、娘を自分の背後に隠した。娘は父の意図を察して素直に従うが、それでどうにかなるような問題でもないだろうと心配する。
「ははは、また御冗談を。懐の巾着は、ずいぶんと重そうじゃあないですか」
「して、このような時間、このような場所で何用でしょうか」
父は、眉をひそめて男に問うた。いつでも自分を置いて走り去れという意思を込め、彼は薬箱を娘に渡す。
「なあに、もう判っていらっしゃるんでしょう? 拙者はただの——」
にやにやと嫌な笑みを浮かべ、男は左腰に携えた刀の柄を握る。鯉口を切って引き抜くと、闇に紛れていた白刃が姿を現し、僅かな月光を反射する。
「きゃああ!」
男の正体を悟った娘の悲鳴が轟く。それと同時に、刃を抜ききった男が自らの素性を明かした。
「——辻斬りでさぁ!」
「に、逃げろ!」
父は危機を察し、娘にそう促す。
「ぐああ!」
しかし、彼女を逃がすほどの時間稼ぎも出来ず、父は凶刃を背中に受けてうつ伏せに倒れた。
「お、お父さん……?」
娘は腰を抜かしてその場に座り込んでしまう。その様子を見ながら亡骸を仰向けにさせ、懐を漁って巾着袋を奪取。目撃者である娘も手にかけようと刃を振り上げた、ちょうどその時である。
「貴様、そこで何をしている!」
「例の辻斬りだな、神妙にしろ!」
夜の町に相応しくない大声を上げながら、四名の防人が現れた。夜警中に先ほどの悲鳴を聞き、不審に思って駆け付けたのだ。
「ちっ、邪魔が入りましたか」
男は咄嗟に刀を納め、追手から逃れんと走り出した。それを二人の防人が追いかける。残った防人の一人は娘に手を差し伸べ、もう一人は提灯をかざして遺体を見た。
「こりゃあ酷い、背中から思い切り一太刀だ」
「お嬢ちゃん、怪我は無いかい?」
動けるようになった娘は、防人の手を頼らず這って父親のもとへ。
「お父さん、お父さん!」
遺体を見ていた防人をどかし、彼女は父の着物を剥ぐ。見るも無惨な傷口に絶望しつつ、薬箱を開けた。
「お父さん、今、今、薬を塗るからね」
「お嬢ちゃん……」
防人いくらが声をかけても、娘は聞く耳を持たない。ただ焦りと執念に駆られ、治療を試みるのみである。
「えっと、金創薬、金創薬……」
防人が持つ提灯を頼りに、彼女は薬箱の中から金創膏を取り出し、父の傷に塗る。
「ち、血が止まらない……えっと、えっと、止血は……蒲の花粉!」
かつて父から学んだ事を必死に思い返し、手当に没頭する娘。だが、彼はとっくに息絶えていた。
「お父さん、お父さん!」
どれだけ薬を塗っても、父がむくりと立ち上がることは無い。もう動かない。もう喋らない。終にその現実に気づき、彼女は父の身体に顔を付けて号泣した。
「お父さん!」
顔に血が付くのも憚らず、ひたすらに。
「お前はその子を、うちまで届けてやってくれ」
「あい分かった。この場は任せたぞ、辻斬りにはくれぐれも気をつけて。さて、お嬢ちゃん立てるかい?」
娘は返事をせずに立ち上がり、袖で涙を拭いた。拭いても拭いてもあふれてくる。やがて彼女は諦めて、流したまま放置することにした。
防人が薬箱を持ち、彼女の案内に従って家まで歩く。静寂と夜闇の中に、絶望に喘ぐ娘の声だけが響き渡っていた。




