【一】金切り声
◇◇桜華◇◇
その日、私を覚醒させたのは金切り声だった。
もうひとり同じ部屋で眠る孤児姉妹の耳朶にも届いているはずだが、よほど深く眠っているのか、彼女はすうすうと呑気に寝息を立てている。さっきのは私の夢が聞かせた幻聴だったのかもしれない。そう思い、もう一度よおく耳を澄ましてみる。喧噪、怒号、丁丁発止……そしてやはり、金切り声であった。
朝だ起きろと告げる百千鳥の可憐な歌声ではない。だいいち、それにしては暗すぎる。まだ丑三つ時くらいかな……。正確には分からないけど、感覚としてはそのくらいだった。
中途半端な時間に起こされたせいで、少しばかり頭痛がする。のども乾いた。水を飲みたいという欲と、このまま眠ってしまった方が楽だという気持ちが、私の中で戦乱の世を築いている。どちらが私の意思となり、行動へと昇華するだろうか。天井の木目を観察しながら、天下分け目の戦を見守る。
そうしているうちに、漸次暗闇に目が慣れてきた。天井から目を離して横を向くと、孤児姉妹の寝顔が視界に入る。お口が半開きになっていて、色気もへったくれもない。上臈の対義語は彼女かもしれないね。そう失礼極まりないことを考えながら、やおら上体を起こした。戦の結果、水飲みたい軍が勝利し、天下統一を果たしたのだ。布団を剥ぎ、立ち上がって、乱れた浴衣を正す。水飲みの道中で誰かに着物が着崩れてるのを見られちゃったら、この上なく恥ずかしいもん。
ふと、さっきまで聞こえていた不穏な声々が、もう聞こえないことに気が付いた。その代わり、どたばたどたばたと、大げさに走る音が聞こえ始めた。せっかく寝ている孤児姉妹が起きちゃうじゃんという心配から、私は「なに、こんな時間に」と慨嘆した。それと同時に、僅かにだけど不安もあった。その足音はただの足音ではなく、どこか狼狽を感じさせるものだったのだ。
さて、のどを潤しに行こうかな。そう思って伸びをしていた折柄、部屋と廊下とを隔てる襖がばんと勢いよく開いた。開けたのは私じゃない。敷居を越えた先、廊下側に立っていた背の高い男の人は、何のためらいもなく少女二人の寝室へと足を踏み入れる。
「お父さん、どうしたの?」
眠る姉妹を起こさないよう、小声で彼に問いかけた。彼は荒れた呼吸を一瞬——いや数瞬で整え、足音が表していたように狼狽した様子で、しかし私と同じく忍び声で言った。
「しっ、喋らないでついて来なさい」
右の人差し指を口の前で立て、お父さんはさらに続ける。
「今から二人を、祈祷殿の奥の押し入れに隠す」
「か、隠す? なんで?」
「いいから、黙って従ってくれ」
そう言いながら、彼は寝ている姉妹を強引に右肩に担いだ。目を覚ました彼女にも、私にしたのと同じ説明を繰り返す。彼女も尋常に惑乱したようだったが、お父さんの言葉を耳にして大人しくなった。
「お父さん、その染み」
今宵の彼の着物は薄黄色の無地だったはずなのに、いたるところに黒——じゃないな、紅色の汚れが見えた。それを不審に思って「染み」と呟いたけど、彼は何も返してはくれない。次の瞬間、お父さんは私の右腕をつかみ、否応無しに引っ張った。部屋を出る一瞬、部屋と外とを隔てる障子越しに、火影が見えた気がした。
喋らずついて来いと言われていた私は、お父さんが言うならと素直に従った。理由も何もわからないけど、きっと金切り声が関係しているんだろうと考えた。
やがて私たち三人は祈祷殿へ。普段は通らないような変な順路だったから、いたずらに遠回りだったような気がする。宣言通り一番奥の押し入れを開き、私と孤児姉妹はそこへ押し込まれた。いつから使われていないのか分からない布団が私たちと同居していて、鼻が捻じ曲がるほど埃臭い。よおく見るまでもなく、塵が歌舞伎踊りをしているのが分かる。
「いいか、騒ぎが収まるまで、絶対に出てくるんじゃないぞ」
お父さんは神妙な顔をして、私らに念押しした。私も孤児姉妹も黙って頷く。安心したのか、彼はほんの一刹那だけ温顔を見せ、押し入れに背を向けた。お父さんが後ろ手に襖を閉めると、彼のものと思しい足音が遠ざかっていく。最後に見たお父さんの背中は、紅に染まっていた。もう染みの域じゃない。ところどころ、という域でもない。最初に見た時よりも、紅は大きく……それこそ、紅色の着物なのかと錯覚するほど広がっていた。
狭い。暗い。臭い。息苦しい。押し入れの中に取り残された私たちは、お父さんが呼び戻しに来るのを愚直に待ち続けた。少しばかりだった頭痛が、激しくなっていく。ずきん、ずきん。そのうち息が浅くなり——ずきん——猛烈な眠気に……襲われ、た。ずきん。やがて、睡魔は……頭痛をも、打ち負かし……私には、抵抗……する、猶予も、与えられず……。ある時を、境に……私の、意識は…………途、絶え……た————。