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羽の記憶

「辛」いという字に一本足すと「幸」せになります。

世の中には世の中には幸も不幸も無い。ただ、考え方でどうにでもなるのだ。と言ったシェイクスピアの言葉を思い出します。





時刻は午後8時20分頃になり、富士見町が覚醒する時間帯になろうとしていた。


昼間とは打って変わり、怪しげな雰囲気の中に人のエネルギーを感じる。

だが、まだまだ街は本気を出しておらず、黒服同士が時々暇そうに話をしている。

店の近くに行くと黒服が僕らに気づき、笑顔で頭を下げながら近寄ってきた。

軽く新井先生と談笑し、雑居ビルの地下へと誘導する。

階段を降り、店内に入ると相変わらず大きめのBGMが流れ、それを掻き消すように黒服の「いらっしゃいませー!」の声が響き渡る。

明るめの間接照明と青い壁が未だに慣れることはなく、僕にはその空間が非日常的に見える。

周りを見渡すと既に活気が溢れており、席は8割ほど埋まっていた。

僕らは席に通され、黒服からおしぼりを渡された。

そのおしぼりでかーくんは顔を入念に拭いている。


「紫苑さん、MIOさん入られまーす!」


黒服の掛け声でキャストの人達が僕らの席に案内された。

先生の横に紫苑さんが入り、今回初めて会うMIOさんは先生とかーくんの間に座った。

2人が席に着くのを確認した後、黒服は少し気まずそうな顔をしていた。


「申し訳ございません。只今キャストが全て他の席についております。もう少しでもう1人ご案内できますのでもう少々お待ちください。」


そう言って黒服は僕らに一礼し席を離れていった。

黒服が去ったのを見計らい、新井先生が口を開いた。


「萩原、すまんな。しばらくおまえの横が暇になる。」


人数分のキャストがいないことに新井先生なりに気を遣ってくれたようだ。

たいして気にも留めていなかったが、こう言ってくれるのはありがたい。


「全然っす。自分、連れてきて頂いている立場ですし、店が賑わってんのは良い事ですから。気にしないでください。」


キャストが間に合わないほど繁盛しているのは店として素晴らしいし、そもそもキャバクラに熱意がある訳でもないので気にはならない。

とは言いながらも内心絵梨を思い出させたあの子が気になっている自分もいた。

その日出勤してるかだけでも聞こうとしたが、その場で変ないじり方をされるのではないかと思い、聞くことが出来なかった。

とりあえず今は考えないようにすることにした。

せっかく場が整ったのだから。


「お兄さん達この前も先生といらしてましたよね。よっぽど先生のお気に入りなのね。」


そう言って紫苑さんは僕らを見ながら微笑んだ。

初めて来た時には気づかなかったが、その大人びた姿は品がありつつ優しげで何もかも受け入れてくれそうな不思議な魅力を纏っている。

上手く言えないが、なぜかこの人に声をかけたくなる空気がある。

努力はされているが、おそらく天性なものだと思う。

その魅力は僕にとって自分とは違う世界の人のように見える。

高嶺の花という言葉があるが、その言葉はこの人によく似合うと思う。

横を見るとかーくんは目を潤わせ口をへの字にし、何かを悟ったかのように紫苑さんを見て寡黙に頷いている。

そんな僕らを見て新井先生が口を開いた。


「こいつらが1番暇そうだっただけだ。」


そう言って自身の顎髭を触りながら別の席に目を向けていた。

その姿を見て紫苑さんは「またそんなこと言って」と嬉しそうに笑っている。

2人のやりとりを見ていると羨ましく思える。

言葉を多く交わさずとも互いに理解し合えている姿はなんだか夫婦みたいで理想的だった。

かーくんはその姿を見て手を組みながら背筋を伸ばし、お祈りスタイルで今度は軽く涙目になりながら目を閉じ頷いている。

そうこうしていると新井先生の「とりあえず酒だ」の鶴の一声にて宴が始まった。


30分程飲んだ頃だった。

他愛のない会話でも盛り上がり、話が弾んでいく。

初対面のMIOさんは綺麗なギャルの容姿とは裏腹にとても丁寧な接客が印象的だった。

話し方も穏やかで、艶やかな姿とのギャップが魅力的でモテる要素しか見当たらない。

そんなMIOさんは、かーくんをえらく気に入ったようで何かとかーくんに話しかけている。


「私、お兄さん本当にカッコいいと思います。顔と服装が本当にタイプなんです。」


そう言い切る彼女に対して普段褒め慣れていない男は照れながら「自分なんかが申し訳ないっす」と言い、照れながら自身の頭部を撫でている。

その顔は満更でもなくスケベ親父のような顔をしている。

そんな腑抜けたかーくんの顔にもMIOさんは「可愛い」と称賛し、中身は置いといて見た目が本当に好みなのが伺える。

2人のやり取りを見ていた紫苑さんがお互いの連絡先を交換するようアシストし、連絡先を交換し合う。

こういった場での連絡先交換なんて社交辞令だとは思うがそれでもなんだかかーくんが褒められているのはすごく嬉しかった。

その光景を見つめていると次第に奥に焦点が合い、紫苑さんと目が合った。

僕と目が合った紫苑さんは優しく微笑み軽く会釈をしたので、僕も返すように会釈をした。

店内は気がつけば満席でどの席も男女が楽しそうにお酒を飲みながら会話をしている。

みんなこの場所で非日常を体感しに来ている。

そんな光景を見て、そんな場所があるのっていいなと少しばかり羨んでいた。


「先生、ご用意が出来たみたい。」


不意に店内の奥を見ていた紫苑さんが新井先生に言った。

紫苑さんの視線を追うように店内の奥に目をやると女性が黒服と共に歩いてくるのが見えた。

女性が僕らの席に近づくにつれて顔が徐々に確認出来る。


「あ…。」


女性の顔がわかり、思わず声が出てしまった。

ゆっくりと光景が進み、女性は僕らの席へと向かってくる。

そして黒服が声を出した。


「大変お待たせいたしました。ルナさん入られまーす!」


突然の事で僕は思考が一旦停止し、動きが封じられた。

僕らの席に流れるように入ってきた。

彼女を目で追いかけるのがやっとだった。

そして驚く僕を横目に彼女は隣に座り、声をかける。


「よ。元気にしてたか。」


そう言って彼女は僕のおでこを人差し指でトンっと押した。

おでこにそんな事をされた事がなかった僕はどうゆう表情をしていいのかわからず「お、おう」とだけ答えた。

我ながらアドリブが苦手なのが如実に出た。


「なら安心した。また会えたね。」


そう言って彼女は嬉しそうに微笑んだ。

彼女の笑顔は不思議で僕の心にスッと入り、安心感をもたらす。

思い出した…絵梨もそうだった。

そして僕の部屋ではないはずなのに、絵梨はいないはずなのに、記憶と心の時間があの日に戻る。

ここがキャバクラである事を忘れ、震災前の僕の部屋でポトフを作っている絵梨が蘇ってきた。

まるで空を飛んだことのある羽の記憶を辿るように鮮明に浮かび上がる。

記憶が戻り、その光景を回想していると頬に違和感があり現実に戻った。

視線の先には目がぱっちりと大きく、暗めのミルクティー色のロングヘアーの女性が両頬をつまみ目を細め口角を上げこちらを見ていた。


「おい。ぼーっとしてるぞ。そんなに私は魅力的かな?」


そう言った彼女は初めて出会った時のように小悪魔のように笑った。

その表情に魅せられた僕は自然と彼女の目を見て小さく頷いた。

そしてその一部始終を見ていた彼女は僕の目を見つめ、優しく手を頬に置き「飲もっか。」と一言呟いた。


あの時、店内のBGMが鳴っているのを忘れていた。

かーくんや新井先生がどんな顔をしていたか覚えていない。

店内は何事もなかったように過ぎていく。



もし時間を巻き戻せることが出来るなら、僕はこの時間に戻ること選択をしたのだろうか?





最後まで読んで頂いてありがとうございました。

次回、ルナと萩原の話を書きます。

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