月は見上げる人を選ばない。
アントニオ猪木さんの名言集を見てると時々泣けます。
時刻は終電間際になり、御前様が内定した。
深夜にも関わらず店内は相変わらず活気に満ちており、お客さんが帰っても次々に新規が入店してくる。
その度に「いらっしゃいませー!」と、黒服達の威勢の良い声が店内を飛び交っていた。
多くのテーブルには飲み終えたシャンパンのグラスがその賑やかさとは対照的に静かに雫をつけ佇んでいる。
その周りでは男女の声が入り混じり、夜の街のどこにでもある風景が流れている。
その場でしか会わないその場限りの会話。
日頃の寂しさや欲望を埋めようと誰かが誰かを求める。
今、この世界に同じような人がどれくらいいるのだろうか。
僕らのテーブルでは、リハ科の職員とキャストが楽しそうに会話をしている。
「てかさ、みんなはどんな人がタイプなの?俺はそうだなぁ…新井先生かなぁ。」
「えー、なにそれ?ウケるー。でも、わたしも結婚するなら新井先生が1番かも。」
「え?じゃあ、俺は俺?美麗ちゃん的に俺何番?」
「えー、わかんなーい。だって浮気とかしてたんでしょ?」
「それは昔だって。俺、今超一途だからね。付き合ったら彼女一筋だから。試しに付き合ってみようよ。」
「えー、何か飲ませてくれたら考えちゃおっかなぁ。」
「まじで?全然いいんだけど。何か飲みなよ。」
「いいの?ありがとぉ。でさぁ、将来子供何人作ろっか?」
「段階早ぇー、そうゆうの嫌いじゃねぇー。」
「えー、私の分はないんですかぁ?」
「いいよいいよ、全然頼んじゃって。その分は俺が払うから別会計にしといて。よっしゃ!もう一回乾杯しようぜ!」
先程の居酒屋で静かだった男性職員がお気に入りのキャストに気に入られる為、ここぞばかりのアピールと虚勢を貼る。
新井先生は、上機嫌ではあるが欠伸を堪え眠たそうにしている。
先生の横にいるキャストは「先生、もう少しだけ飲みましょうよ。ね?お願い。」と、機嫌を伺いながらドリンクをねだろうとしている。
そしてかーくんは、あしたのジョーの最終回のシーンを忠実に再現しており、既に灰になっていた。
その肩を別のキャストが母親のようにトントンと軽く叩きながらリハ科の会話に混じり笑っている。
そんな光景が広がる片隅で僕は呆然としながらここにはいない人達に謝罪をしていた。
ーー…まいやん、なぁちゃんごめんなさい…たぶん、僕は録画し忘れました…。ーー
乃木坂史上初のWセンターが全国のお茶の間に届けられる瞬間を見れないことに絶望していた。
賑やかな店内で半分白目をむき、なぜか脳内で流れ始めた松たか子の[明日、春が来たら]を口ずさみ、虚しさを紛らわせる。
「…あいらぁびゅーそれはたぁぶんー…えぇいえーんの前の日ぃ…。」
…虚しい。自分で歌っていてとても虚しい。それでもこの虚無感を埋める為には松たか子を歌うしかなかった。
「…あーしたぁ春が来たらぁ…きぃみにぃ逢いに行こぉ…ゆーだちが晴れて時がぁ…。」
ーーもういい…もう全部がどうでもいい。今自分を慰めてくれるのはたか子だけだ…。
ソファに体を預け、ただただ霞むような声で歌っていた。
すると、廃人化する僕の隣から声が聞こえた。
「その曲私も好き。」
その声に反応し、重い頭を左側に向けると先程のキャストが両肘を足につけ、両頬に手を添えこちらを見ていた。
「あ…聞こえてました?」
「えぇ、しっかり聞こえてました。」
彼女はそう言うとにこっと笑った。
「もしかして結構見てました?」
「えぇ、ずっと見てました。」
そう言い終わると彼女は姿勢を正し、お酒の入ったグラスを片手に持った。
「お兄さんって、あんまりこうゆうとこ来ないでしょ?」
「あ、まぁ、はい。自分、好きな子にしかお金使わないんで。」
それは、乃木坂46のことである。
「その子の名前は?」
「いや、その…。」
「無理して言わなくていいよ。」
「麻衣さんです。」
「言うんだね…麻衣ちゃんね。その子はどんな子なの?」
「まぁ、一言で言うと聖母ですね。」
「聖母って聖書に出てくる人だよね?」
聖母とは、乃木坂46のメンバーの一期生『深川麻衣』のことである。
『深川麻衣』
乃木坂46の1期生のメンバーである。愛称は、まいまい。萩原が最も好きなメンバーである。
どんな人にも優しく対応し、その逸話も数多く存在する。
他のメンバーから「まいまいを嫌うメンバーはいない。」と称され、聖母とあだ名がついた。
握手会でのファンへの対応も素晴らしく、中学生から50代と幅広い層が列に並んだ。
現在は女優となり映画や民法ドラマをはじめ、NHK連続テレビ小説「まんぷく」や大河ドラマ「青天を衝け」などに出演し、その地位を不動のものにしている。
ちなみに萩原は日本テレビのバラエティ番組「NOGIBINGO!」の人気企画「妄想リクエスト」を観てどハマりした。
聖母と聞いて彼女は聖母マリアを思い浮かべたようだ。当然である。
「うーん、それは優しいって事でいいのかな?」
困惑しながらも彼女は僕の言動を理解しようとしてくれた。
「そうですね。誰にでも優しい素敵な人です。」
僕は頭の中で逸話を回想し、うんうんと頷きながら答えた。
「それは魅力的な子だね。ねぇ、その子はどんな見た目なの?」
「ジャンルですか?応援系です。」
ぼやっとしていたら変な事を口走ってしまった。
そのお陰で会話が噛み合わなくなった。
再び彼女は悩み込んだ。
「よくわかんないけど、きっと可愛くていい子なんだろうね。」
迷走した会話を彼女は軌道修正し、まとめてくれた。
「でも、私の中で麻衣って子はあざといってイメージあるなぁ。」
彼女がふとそう呟いた。
その言葉を聞いて僕は眉間に皺がより、顎が突き出た。
彼女の言葉に反論しようとしたが言葉が何も思い浮かばず、せめてもの抵抗でアントニオ猪木の顔で反抗した。
その顔を見て彼女は驚きの表情を見せたが、次第に僕の顔を見てくすっと笑った。
「何それ?ふふっ。すっごい顔してるよ?おかしな人。」
そう言って普通に笑い始めた。
笑いながら涙を拭いている彼女の横で顔を戻すタイミングを失い、僕はミラーボールの光をアントニオ猪木の顔のまま浴び続けた。
「いや、もういいって…ふふふ。無理、その顔無理。ねぇ、お願い、こっち見ないで…。」
どうやら相当ツボだったようで、彼女は僕の顔を見ては笑い、目を逸らし、再び見ては笑うを繰り返した。
彼女があまりにも笑うので流石に恥ずかしくなり、全身から汗が吹き出すのを感じた。
それでも顔を戻すタイミングがわからず、困り顔のままアントニオ猪木を続けた。
顔面硬直し、戻すタイミングを悩んでいると近くに彼女の気配を感じた。
「はい!もうおしまい!」
彼女はそう言って僕の両頬を手で挟み、ぐりぐりと回して元の顔へと戻した。
彼女の手はほんのり冷たく、柔らかな香水の匂いがした。
「素敵な顔が台無しだよ。」
そう言って彼女は、手を頬に添えたまましばし僕の目を見つめた。
「私ね、最近嫌なこと続いて落ち込んでたんだぁ。でも、あなたのその顔見てたらどうでも良くなっちゃった。私がまた落ち込んでいたらその顔やってね。」
僕は、彼女の目を見て小さく「はい。」と答えた。
「約束守ってくれなきゃ…嫌だよ?」
そう言って彼女は微笑み、僕の頬を両手でパチンと叩いた。
「いっだ。」
痛みはなかったが、驚きで反射的に声が出てしまった。
それを見て彼女は満足そうにまた微笑んでいた。
時刻は午前0時を過ぎていて、日を跨いでいた。
夜の富士見町、喧騒の店内、飲みかけのシャンパン、回るミラーボール、そのどれもが彼女への演出に見えた。
何かが滑り落ちていく。
少なくとも彼女とは平行ではなくなったような気がした。
この時から既に僕は彼女に翻弄されていたんだと思う。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
次回、ルナと萩原の続きを書きます。




