厨房のおしゃべり(下)
セリナが言葉を返す前に、ジリナが毒味役の二人を連れてきた。母の目の前でおしゃべりしている訳にもいかず、セリナは黙って使った皿なんかを洗い始めた。重曹や石けんは支給されているので、それで綺麗に洗う。
ジリナが戻っていって、若様が二人の兵士と話を始めた。二人はあれ以来、可哀想な王子様の前では、決して毒味が嫌だというそぶりを見せない。
一国の王子が山中で五ヶ月も暮らさなければならないなんて、どういうことなんだろうと思う。口に出してフォーリには聞かないが、たぶん、そこしか安全な所がなかったのだろうな、と想像する。それにしても、フォーリは働き者だ。疲れないのだろうか。
「…なんだ、何か用か?」
思わずフォーリを見つめていたため、セリナは慌てて首を振った。
「い、いえ、なんでもありません。ただ、そんなに働いて疲れないのかなって思ったので、ただ、それだけです。」
「疲れる?私がか?」
意外そうにフォーリが言うので、セリナは力強く頷いた。
「ええ、そうです。だって、わたしが見ている限り、ずっと働いているので。きっと、すっごい疲れるだろうなーって思ったので。」
「いいや、なんともない。心配無用だ。それよりも早く皿を洗え。」
フォーリは使い終わった木べらも持ってくると、耳元で囁いた。
「若様の前でそういうことを言うな。気になさるだろうが。」
思わずセリナは、はっとして無神経なことを言ってしまった恥ずかしさで、耳まで真っ赤になった。
「す、すみません。」
「ちゃんと洗え。この間、洗い残しがあった。」
(く、細かい奴め。)
思わずフォーリの後ろ姿を睨みつけると、フォーリが振り返りもせずに言い放つ。
「何か言ったか?私を睨んでいる暇があったら、手を動かせ。」
(後ろにも目があるわけ!ほんっと嫌味な奴ね!)
「だめです、若様、今は黙って知らないふりをしているのが一番です。」
「そうですよ、余計な口を挟むと話が余計にややこしくなりますよ。」
「そうなの。でも、大丈夫なのかな?」
「大丈夫です。知らないふりも時には重要なことです。」
ひそひそと余計な小声が、後ろから聞こえてきて余計に腹が立った。後ろを睨みつけたい衝動をかろうじて堪える。
(ここは我慢よ、セリナ、我慢、我慢。)
自分に言い聞かせて深呼吸をして自分を落ち着かせた。仕方なく、ふんっと鼻息も荒く、セリナはごしごしと洗う。
「力を入れすぎて食器に傷をつけるんじゃないぞ。」
(あああ!腹立つ!小姑かなんか、あんたは!)
セリナが腹を立てながら、食器に目を落とすとすでに傷がついていた。しかもごまかすには大きすぎる傷だ。
(!嘘でしょ!えーん、どうしてよ!こういう時に限って…!)
指でこすってみても、当然、消えるわけがない。それでも、あきらめきれずにこすってみる。泣きそうになってこすりながら、どう言い訳するか考えてみる。
(えーと、もう、すでについていました、とか。若様のせいにしちゃうとか。)
セリナが言い訳をどうするか必死で考えていると、上から声が降ってきた。
「やはり、傷をつけたか。それで、どう言い訳するつもりだ?まさか、若様のせいにするつもりじゃないだろうな?」
「ひぇぇぁぁぁっ!」
突然、声がした驚きと、言い訳の内容まで当てられていた驚きで、セリナは今までこんなおかしな声と言葉を出したことがないほど、変な声を出しつつ後ろに飛びすさりながら、皿を放り投げていた。
あっと思った時には遅かった。皿は見事にフォーリの顔面に当たって落ちて割れた。フォーリの鼻からすーっと一筋、鼻血が垂れた。
しーん、という妙な空気と緊張感が流れる。どうしようと焦るセリナ、ニピ族のフォーリに皿が顔面に命中したという事実に驚きつつ、この後どうなるのか、緊張を隠せない毒味役の兵士二人、フォーリの鼻血に目を丸くしている若様。
そのフォーリは両手に持っていた皿を置くと、黙って指で鼻血を拭う。
「フォーリ、大丈夫?はい、これ。」
一番最初にその驚愕から立ち上がったのは若様で、懐から懐紙を取り出して渡した。
「な、なんで避けなかったんですか…!?まさか、当たるなんて、ごめんなさい!」
紙をちぎって鼻に突っ込み、鼻を押さえたフォーリがセリナを振り返った。
「避ければこの吊り戸棚の角に当たって割れ、若様のお食事に破片が入る。」
静かに返された答えに、セリナは呆然とする。
「フォーリ、だからって手で覆うこともしないなんて!」
若様がフォーリに詰め寄った。フォーリは困ったように若様に笑いかける。若様にだけは常に優しい。
「大丈夫です。手を離せなかっただけですから。」
フォーリは異様に静かになったセリナの様子を覗った。
「ど、どうしよう…。」
一人、皿を割ってしまったセリナは、慌てて箒とちりとりを持ってきて破片を集め始めた。
「あーあ、皿を割ったのかい、セリナ?」
間の悪いことに母のジリナの声がした。ぎくっと身が固まる。
「なんか、騒ぐ声がしてね。ちょっと目を離すとこれだ。まったく。どうしてくれるんだい?もしかして、これはうちで弁償しろと、フォーリさん?」
話を振られたフォーリは、じっとジリナとセリナを見、それから兵士二人を見やった。そして、二人に宣う。
「いや。お前達二人が割ったことにしろ。」
誰もが一瞬、意味をはかりかねて顔を見合わせる。理解した途端、兵士二人が異議を申し立てる。
「え、ちょ、ちょっと待ってください、なんで私達が、割ったことになるんですか…!?」
「そうですよ…!割ったのはその子なのに…!」
だが、異議を申し立てられたフォーリは淡々と返した。
「その理由は簡単だ。農家の家計では、この皿の弁償などできない。だから、国王軍の兵士しかも、親衛隊である二人が割ったことにすれば、領主のベブフフ家も文句を言わないからだ。」
「ああ、なるほど、さすがですね。助かりました。ありがとうございます。」
ジリナはフォーリに礼を言うと、独り言のように言いながら立ち去った。
「舶来物の高価な皿だから、そんな物の弁償なんて、三世代経ってもできないからね。」
セリナの顔が青ざめた。
(……!!)
雷でも頭の上に落ちたかというような衝撃で座り込み、立ち上がることができない。
(なんですって!なんで、そんな高級な皿を調理の下準備の肉団子をこねたり、麺生地こねたりパン生地こねたりする用に使ってんのよ…!?もっと、安い乱雑に扱っていい皿があるはずでしょ!)
「なぜなら、ここには高級な皿しかないし、何より大きさがちょうど良かったからだ。」
心の中で言ったはずの言葉に、フォーリの返事が返ってきて、セリナはがばっと半泣きで顔を上げた。驚きすぎて言葉が出ない。
「だから、これからはもっとよく注意して扱え。」
鼻につっぺしたフォーリに言われ、普段だったらきっとこっそり笑うだろうが、今は絶対に笑えなかった。
「セリナ、さっきの言葉、全部口に出てたよ?もしかして、心の中で言ったつもりだったの?」
若様に指摘され、セリナはとうとう膝に顔をうずめて泣き出した。
「…セリナ、泣くことなの?」
若様の声は不思議そうだ。
「だって、わたし、きっとクビになるし…!自分で自分が嫌になるっていうか…!」
すると、若様が笑い出した。
「…ふん、なんですか、笑ったりして!わたしは笑い事じゃないのに!」
「ごめんね、でも、フォーリはクビって言ってないよ。」
「……へ?」
鼻につっぺしたフォーリに何か言われたが、全然頭に入っていなかった。思わず顔を上げた。
「ほ、ほんとですか?」
フォーリを見る勇気が無くて、兵士二人を見上げると、二人は神妙な顔で頷いた。
「顔を上げたりうつむいたり忙しいね。」
若様が言っているが無視する。
「もっと注意して皿を扱うように、と言ったんだ。」
一人が言い、一人がうんうん、と頷く。セリナはそれを見て脱力し、やっぱり膝に顔をうずめて泣き出した。
「やっぱり、泣くの?」
若様の声が驚きに満ちる。何か新しい物を発見したかのように言わないで欲しい。
「だって!後で母さんにこっぴどく叱られるもん!」
それを聞いた途端、若様だけでなくフォーリや兵士二人も含めて全員が吹き出して笑い出した。
「ひどい!母さんの怖さを知らないから、笑えるんだから!」
セリナの声はむなしく響いた。その後、しばらく笑い声が続いたのだった。




