若様の優しさ
雷を落とされて、二人はほうほうの体で裏庭を後にした。
二人がいよいよ、裏庭を出ようとしたときだった。思いがけない人物とばったり行き会った。
若様である。なぜか一人でうろついている。フォーリは側にいない。若様は二人の姿を見て、目を丸くした。二人はなんでこんな姿の時に出会うのだろうと、恥ずかしさで逃げ出したい気分だった。
「…二人とも、どうしたの、その格好。」
驚いて心配そうに若様が聞いてくる。
「ちょっと、洗濯中に桶やら盥やらにつまずいて、転んじゃっただけです。」
「え、ええ、そうなんです。だから、全身びしょ濡れになってしまって。それで、今日は早く帰らせて貰うことになりまして。」
セリナとリカンナは急いで言い訳した。
「でも、転んだからって泥が頭にべっとりついたりしない。二人とも意地悪されたんでしょ。」
若様の意外な鋭さに二人は言葉を失った。育ちが違っておっとりしているので、つい、そんな鋭さがあるとは思っておらず、高をくくっていた。
「で、でも、大丈夫ですから。悪さした方はちゃんと罰を受けましたし。」
セリナが慌てて言いつくろい、リカンナも隣で力強く頷く。若様は慌てている二人におかまいなしに、近づいて来て目の前に立った。手巾を取り出して背伸びをし、セリナの髪についた泥を拭ってくれる。リカンナが息を呑んでいるのが分かった。
若様の気配と動き。彼が動くたびに、微かにいい匂いが薫って、目の前で可愛らしい顔が、少し上向きなってじっと、セリナの頭に視線を注いでいる。セリナは石にでもなったように、指一本も動かせなかった。
なんだか、妙にその若様の優しさが胸にしみる。柄になく涙が出てきそうになって、セリナは必死に涙を堪えた。
「やっぱり、全部は拭えないや。洗わないといけないね。」
残念そうに若様は、ため息をついた。
「…あ、ありがとうございます。わたしは大丈夫ですから。お気持ちだけ。それ、洗ってきます。洗ってお返しします。」
セリナは手巾を受け取ろうと手を伸ばしたが、若様はさっと手を後ろに回した。
「いいや、君の仕事を増やすつもりはないんだ。これくらい、大丈夫だよ。私が自分で洗うから。こう見えても、自分でいろいろできるんだよ。野宿もしたことあるし。小さな洞窟で雨をしのいだこともある。」
二人は目を丸くした。
「へへ、驚いた?二ヶ月くらいかな?」
二ヶ月って結構、長いじゃないとセリナは思う。
「だから、その後、猟師の山小屋を使わせて貰った時は、本当に天国みたいだと思ったよ。」
そりゃあ、そうでしょうね。二ヶ月もそんな暮らしをしたのなら。田舎に住んでいるからこそ、野宿がどれほど大変か分かる。自分なら絶対にしたくない、とセリナは思う。
その時、リカンナがくしゃみをして、若様は、はっとした。
「引き留めてごめん。早く帰って着替えないと風邪を引いてしまうね。それじゃ、気をつけてね。」
若様はそのまま、屋敷に戻っていった。それを見送ってから、二人は大急ぎで家に帰った。
家に帰るとダナとメーラが、セリナの姿を見て追求した。二人は自分達がセリナをいじめるのはいいが、シルネにいじめられるのは許さなかった。猛烈に仕返しをするのだ。それをリカンナも知っているので、シルネとエルナのしたことを詳しく告げる。
「あんた、やられっぱなしじゃなかったでしょうね?」
「もちろん、やり返したわよ。」
セリナの言葉にダナは頷いた。
「ま、そうよね。あんたが黙ってやられている訳ないし。」
シルネとエルナのおかげで、セリナは家事を免れた。その上、姉達は髪を洗うためのお湯も沸かしてくれた。そして、ロナを呼びつけ、セリナの髪を洗うのを手伝うように命じた。ロナも渋々、洗うのを手伝ってくれた。なんだかんだ言いながら家族である。誰も自分を誰かが殺すんじゃないかとか、疑う必要はない。
当たり前のことなのに、それが幸せなことなのだと、思い知らされる気がした。当たり前に生きることを許されない。高貴な生まれなのに、それがかなわない。
「どうしたの、セリナ姉さん。」
「なんでもない。…でも、わたし達、普通に生きられるからよかったわ。」
セリナの答えにロナは首を傾げた。
その時、ふと、この間死んだ料理係の女性の死に顔が、頭によみがえった。思わずぞっとしてしまう。あの後、彼女は村の火葬場で火葬され、村の共同墓地に埋葬された。
(なんか、夢に出そう。)
そう思って気がついた。若様はちゃんと寝られるのだろうか。夢にだってみるだろう。それに考えてみれば、寝込みを襲うのが一番、手っ取り早いではないか。だから、泊まることが許されてなかったのか、とようやく気がついたセリナだった。




